死神


 ――死神と出会ったことはあるか?

 その男は堂々と答えられる。あの夜に遭遇した、二人の少女がそうだ、と。



 ◇◇◇



 元々、男はしがない銀行員だった。

 親のコネで大手銀行の事務職に採用され、一般男性の平均を超える給料を得ることができた。昇給は毎年恵まれ、やがて将来性を見込まれ、上司から紹介された娘と結婚した。家庭を築き、子も授かった。傍から見れば、順風満帆とも言える人生だった。


 しかし、どこか退屈だった。

 世界大戦の激動の時代を体感したせいか、銀行員として一生を終えることに物足りなさを感じ始めていたのだ。迎えられた平和を平和として受け止める器を持ちえなかった。


 三十一歳の夜――刺激を求める彼は、不倫に手を染めた。

 バーで酒を飲んでいた時、若い女性に声をかけられた。積極的に自身の身体に触れてくる、美しい女性に舞い上がってしまった。思えば、その日はやけにアルコールが回った。酒になにか混じっていたのかもしれない。誘いを断れず、彼女のアパートに向かった。

 その女に裏の顔があるとは、一か月後に察した。

 彼女の部屋で逢瀬を重ねている頃、突然、封筒が届いたのだ。


 ――【お前の全てを知っている。命令に従わなくば全てを喪う】


 封筒には、男の不倫の写真が収められていた。

 その中身が公になれば、男が家族と職を同時に失うだろう。

 男は翌日、命令されたとおりに架空の銀行口座を作り上げると、その通帳を指定された住所に送付した。犯罪行為ではあるが、リスクを考えれば当然の選択だった。

 男は言われた命令を完璧にこなした。

 だが、命令入りの封筒は翌週も届き続けた。


 ――【リストに記された議員の通帳の入金履歴を全て渡せ】

 ――【ワクコ保険会社の送金履歴を書き換えろ】

 ――【口座に三十万デント、送金しろ。従わなければ、お前は全てを失う】


 だんだんと過激になる命令にも、男は従い続けた。

 もはや正常な思考はどこにもない。

 たとえ相手が、ガルガド帝国のスパイなのだろう、と察しがついても同様だった。




 男が限界だと悟ったのは、ある雨の日の夜だった。

 少女を車で撥ねた。


 ――【金庫から現金を引き出し、指定した場所に届けろ】


 そんな命令に従い、雨の夜を時速六十キロで走っていたのが悪かった。突然道路に飛び出してきた少女に反応できなかった。彼女の金髪が翻るのが見えた。不思議と衝撃はなかったが、彼女の身体は大きく吹き飛び、地面に墜落した。

 まるで人形のような美しさをもった、小さな金髪の少女。

 彼女が事切れる間際「不幸……」とその唇が動いた気がした。

 胸を衝かれたような心地だった。その遺体を見つめた時、夢から醒めるように現実を認識した。ようやく自らが犯している過ちを悟ったのだ。

 もう限界だ――そう受け止めた、男は自首を決めた。




 男はその足で警察署に向かった。すぐに取調室に通され、刑事と向き合った。

 長身長髪の男性刑事である。

 彼は淡々とした口調で、男のこれまでの犯罪を聞き出した。その態度からは、既に彼は男をマークしていたことが察せられた。この刑事は、彼が過去に行った、銀行員として誤った手続きや横領を全て把握していたのだ。


「僕が気に食わないのは――」


 途中、男性刑事は無表情で呟いた。


「――お前が、たかが少女一人を殺した程度で自首をしたことだ」

「え……」

「ガルガド帝国のスパイを支援しているとは察していたはずだ。お前が流した資金で、彼らは武器を買い、人を雇い、僕らの国を脅かす」

「…………っ」

「少女の遺体を見なければ、その現実さえ認識できないのか」


 長髪の男性刑事は冷たく吐き捨て、取調室から去っていった。

 己の矮小さを見抜かれた心地になり、ぐっと唇を噛む。

 呆然としていると、今度は別の刑事が取調室にやってきた。困惑した顔だった。


「もしかして……さっきまで、この部屋に誰かいましたか?」

「え?」

「いえ、先ほど見知らぬ男が警察署内を歩いていたと噂があって。ありえないですよねぇ、ここは部外者が立ち入れる場所じゃないのに」


 新しく来た刑事は不思議そうに頭をかきながら、まぁいいや、と呟いた。


「で、アナタ。自首をしに来た、と。金髪の女の子を車で轢いて、即死だったと」

「は、はい」

「……はぁ、稀にいるんですよねぇ。とりあえず精神鑑定かな」

「………………?」

「自首は受け入れられないってことです」


 刑事は面倒な素振りを隠さずに告げてきた。


「現場のどこにもないんですもん。金髪の少女の遺体なんて」




 男は間もなく釈放された。遺体が見つからない以上、事故として立件できないらしい。野良犬を轢いたとして処理され、スピード違反の罰金を支払っただけとなった。

 ――一体何が起きているのか。

 誰でもいいから教えてほしかった。あの金髪の少女は何だったのか。刑事の風貌をした長髪の男性は何者だったのか。売国行為の最中に少女を撥ね、混乱の中、全てを刑事に話してしまった。しかし、それは全て仕組まれた罠だったのか。

 男は、不倫相手のマンションに向かった。

 二度と関わらない方がいいと理解していたが、他に真実を知る手立てがない。男は合鍵を使って、不倫相手の部屋に入っていった。

 ――女性は首を吊っていた。

 部屋中央の梁にぶら下がっていたのは、男と何度も肌を重ねた、不倫相手。

 その隣には、大きな眼帯をつけた灰桃髪の少女が立っている。


「俺様、見つかっちゃいましたっ」


 イタズラがバレた子どものような笑みを見せ、少女は男の横を通り過ぎる。


「これ以上、踏み込まない方がいいですよ。殺さなくて済みますのでっ」


 灰桃髪の少女は、去り際部屋にそっと一枚の紙を落とした。

 それは不倫相手の筆跡で書かれた――おそらく偽造されたであろう遺書だった。



 ◇◇◇



 男は何事もなかったように、平穏な日々に戻る。戻らざるをえなかった。二度と売国行為に手を染めず、職場と家庭に奉仕するだけの日々。

 それでも時折フラッシュバックする。あの夜の衝撃。男を現実に立ち返らせるほどに理解を超えた存在。

 ――自分が殺したはずの金髪の少女と、自分の愛人を殺した灰桃髪の少女。

 ――死を弄ぶ、殺される少女と殺す少女。

 あの夜を味わった男は、今も信じ続けている。自分が会ったのは、二人の死神だと。


※本作は『スパイ教室05 《愚人》のエルナ』メロンブックス特典SSを修正したものです。

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