頬っぺた


 グレーテがテーブルに突っ伏している。

 就寝前、ジビアが水でも飲もうと台所に寄ったとき、食堂のテーブルに顔をつけている仲間が見えた。なにやら苦しそうに、ううぅぅぅうぅ、と嘆く声が聞こえてくる。

 まるで亡霊の嘆き声。

一瞬、この世のものとは思えなかったジビアは、うぉ、と呻いた。


「ど、どうしたっ? 誰かに毒でも盛られたか?」

「いえ、ジビアさん。ふと気づいたしまったのです、この世界の真実に……」

「もしかして壮大な話?」


 ジビアから水が注がれたグラスをもらって、グレーテは語りだす。


「アレはミートパイ屋の騒動のこと……」


 それは、一度目の不可能任務直後に起きた出来事。

 クラウスお気に入りのミートパイ屋が閉店の危機にあると知り、彼女たちはある食品会社の社長を詐欺に嵌めたのだ。その際、ミートパイ屋のパイを完全再現する必要が生じたため、クラウスからレシピを授かった。

 だが、問題はその一部である。

 ――生地は、エルナの頬っぺたを三回抓った時の柔らかさ。

 そうクラウスから指示があったのだ。

 当初は忙しく、その意味について深く考えていなかったが、よくよく考えれば意外な事実が発覚している。

 それは――クラウスはエルナの頬の柔らかさを知っているということ。


「つまり、ボスは、エルナさんのファーストほっぺを奪っているのです……!」

「ファーストほっぺってなんだよ」


 身体をわなわなと震わせるグレーテに、ジビアが冷静なツッコミを入れる。

 だが一方でジビアも想像する。

 クラウスが自身の頬に触れる――確かに、かなり濃密な接触の気がする。よほど心許す相手でない限り、頬など触らないし、触らせない。親密なカップルがスキンシップの一環として、行うイメージかもしれない。


「…………まぁ、言わんとすることは分かる」


 少し顔が熱くなる感覚を受け止めつつ、ジビアも肯定した。

 グレーテは表情を曇らせる。


「ボスはわたくしの頬には興味ないのでしょうか……?」

「いや、男性が惹かれる部位か? 頬っぺた」


 甚だ疑問ではあるが、いかんせんジビアも詳しくない話題である。

 どうやらグレーテは自身の頬にも触ってほしいようだが、なにか大きな勘違いを含んでいる気がする。しかも、かなり致命的な。

 どんな言葉をかけたらいいのか困っていると、食堂に新たな人物が飛び込んできた。


「わたしの出番が必要のようですね!」


 その人物はくるっと一回転し、ドヤ顔で宣言する。


「エルナちゃんの頬と言えば、このわたし――頬っぺた専門家リリィちゃんですっ!」

「なんか来たぞ」とジビア。


 なぜか話の全容を把握しているリリィは、ジビアを無視し、グレーテに歩み寄った。

 グレーテは救世主の存在を待ち望んだように、表情をぱぁーっと明るくさせる。


「わたくしは、頬っぺたバージンをボスに捧げる覚悟はできております……!」

「その心意気はよしです!」とリリィが偉そうに頷く。

「ボスが望むのならば、たとえ頬だけの関係でも、わたくしは……っ!」

「うぅ。健気すぎますよ、グレーテちゃん!」

「男性は、やはり頬目当てで女性と繋がるのでしょうか……?」

「最低です! 下品ですよ、男って!」

「てめぇら、あたしが逐一ツッコんでやると思ったら、大間違いだからな?」


 盛り上がるグレーテとリリィに、ジビアが冷たい視線を向ける。


「で、頬っぺた専門家様のご意見は?」

「あの頬っぺたは最高の突き具合ですよ」


 実際エルナの頬をよく触っている、リリィが太鼓判を押した。


「もし一度手を出していたら、クラウス先生も嵌まってもおかしくありませんね」

「そんなに?」

「まぁ、一度触れてみた方が早いですよ。百聞は一頬っぺたに如かず」


 という訳で、一同移動。

 向かったのは、もちろんエルナの寝室だった。扉に『アネット入室禁止』という、全くの無意味な張り紙が掲げられている。鍵がかかっているので、もう就寝しているらしい。問答無用で解錠し、三人は慎重にエルナのベッドへ移動した。

 エルナは心地よさそうに、すーっ、すーっ、と寝息を立てている。

「どうぞ」とリリィが手で示した。

 すっかり熟睡しているエルナに、グレーテはそっと右手の人差し指を伸ばしていっ

た。


 ぷにぷに。

「~~~~ッ‼」


 直後――悶絶し、膝から崩れ落ちるグレーテ。


「そんなにっ?」


 目を見開くジビア。


「わたくしの完敗です……!」


 グレーテは顔を真っ赤にさせて、床に這いつくばり、右手を震わせている。よほど強い刺激を味わったらしく、なぜか少し泣いている。


「けれど、わたくしは、ボスの、二番目の頬っぺたの女でも構いませんから……」

「うぅ、それは地獄の道ですよ……グレーテちゃん……」

「お前ら、マジで頬っぺたをなんだと思ってんの?」


 ちなみに、エルナはこの間も眠り続けている。よほど疲れていたのか、グレーテたちの声にも反応しない。時折「のー」という心地よさそうな寝言を漏らす。


「……………………」


 まったく心が動かなかった訳ではない。

 ジビアもまた、そっとエルナの頬に指を伸ばして、ぷにぷに、と突き――


「~~~~っ⁉」

 ――悶絶した。



 ◇◇◇



 ちなみに、クラウスがエルナの頬を知った経緯は以下の通り。


「エルナ、ストップ」

「の?」

「頬にクリームがついている」

「ん。せんせいが教えてくれたケーキ屋さんが美味しすぎて、夢中になっていたの」

「……あぁ、違う。乱暴に拭くな。クリームが広がる」

「の……不幸……」

「動くな。僕がふき取ってやる」

「よろしくお願いするの」

「ん。拭きにくいな。頬が柔らかすぎて……少し力を入れるが、我慢しろよ」

「のー」


※本作は『スパイ教室05 《愚人》のエルナ』とらのあな特典SSを修正したものです。

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