フィッシング
ジビアは廊下で釣りあげられた。
一本釣り。
突然ワイヤーに足首を掴まれたと思った瞬間には、身体は宙に浮き、天井付近の場所まで吊り上げられていた。ブービートラップを仕掛けられていたらしい。まるで魚になったような心地で空中をぶらさがる。
残念ながら、彼女は道具一つ持ち歩いていない。罠を外す道具はなかった。晩飯を食べ終わり、とりあえず自室に戻ろうとした時に引っ掛けられた。完全に意表を突かれた。
問題は「誰が」「なぜか」という問い。
クラウスを襲撃する予定はない。考えられるのはリリィの嫌がらせだが、彼女にはここまで巧みにトラップを仕掛けられる技術がない。技量的には、モニカかアネットなのだが、彼女たちには動機がない。
宙吊りのまま悩んでいると、思わぬ人物が近づいてきた。
「想定通りです……」
「グレーテっ?」
現われたのは、まったくの予想外の人物。
確かに彼女の技術ならば、この罠も可能だろうが、動機がまったく見えてこない。
グレーテはすまなそうに頭を下げてきた。
「実はジビアさん、少々ご相談にのってほしく……」
「人を釣りあげて吐く台詞?」
「ジビアさんは、この後ボスと射撃訓練を行うんですよね?」
「ん。まぁ、その通りだが」
陽炎パレスの地下には、射撃場がある。訓練に付き合ってほしくて、ジビアはクラウスに願い出たのだ。日頃の訓練では性質上、銃の技術を向上しにくい。
グレーテは、その予定を把握していたらしい。
「わたくしと代わってださいませんか……?」
「射撃訓練を? 代わるも何も一緒にやればいいだろ」
「実はここ最近、ボスに一対一で会話をしようとすると警戒されることが多いのです。どうしようかと思い悩む日々を送っておりました……」
「いや、だからこそ一緒にこなせばいいだろ」
「……そんな時、ジビアさんがアドバイスをくれましたね。『警戒されるなら他の仲間に変装して接触すれば?』と」
「あー、確かに言ったか? 周りにはバカにされたけどな。『恋愛の風情とか知らん?』って」
一番自然に話しかけられる方法だと思ったが、かなり批難されてしまった。
当時を思い出しながらジビアが頷いていると、グレーテは微笑んだ。
「いえ、わたくしは名案と思いましたよ。ジビアさんらしいアイデアです……」
「お、サンキュ。なんなら実行してくれても――」
「なのでジビアさんの姿と声で、ボスにキスしてきます……!」
「絶対に実行すんじゃねぇっ!」
ようやくジビアは状況を理解した。代わってほしいという言葉の真意も。
なんで初手キスなんだよ、とツッコミを入れるジビアに、グレーテは一歩一歩ゆっくりと距離を詰めてくる。その瞳はどす黒く濁っていた。
「はい。ジビアさんは抵抗なさると思ったので、釣りあげました。後はジビアさんを監禁して成り代わり、ボスにアプローチをかけるだけです……」
「くっ、ふざけんな……! 離せっ」
身を捩って抵抗してみるが、いかんせん手遅れだった。暴走するグレーテを止められない。あっという間に縛りあげられ、荷台に乗せられると物置まで運ばれる。
ここまでやられると、ジビアにできることはなかった。
「なぁ、グレーテ」閉まっていく扉に向かって言葉をかける。「頑張れよ」
グレーテは不思議そうに目を丸くした。
その後で穏やかな声で「……ありがとうございます……」と頭を下げる。
◇◇◇
グレーテはジビアに変装を終えると、クラウスが待つ射撃場に向かった。彼は拳銃を手入れしていた。思い起こせば、彼が銃を使用する機会は見たことがない。彼も久しぶりの射撃訓練を望んでいたようだ。
グレーテは、ジビアの声と口調を真似して話しかける。
クラウスはリラックスしているようだ。その態度を見て、ちょっと寂しい感情を覚えるが、ここは堪える。
「ところで、ジビア」クラウスが声をかけてきた。「お前、拳銃はどうした? なぜ持ってきていない?」
「え、銃? 銃なら懐に――」
ジビアの銃は事前に部屋から持ち出してある。
が、その銃を取り出そうとした時、手が空振りした。あるべきはずの場所になかった。
(……落とした? そんな失態は犯していないはず……考えられるのは……)
盗まれた。
ジビアを縛るために近づいた、一瞬の隙に――。
「銃がないのなら射撃訓練はできないな」クラウスが残念そうに呟いた。
彼が落胆した顔に、きゅっと胸が締めつけられる。
ジビアはこれを計算していたのだろうか。
今更ながら彼女にしてしまった酷い行為を自覚し、罪悪感に俯く。
しかし、その直後で彼女の言葉を思い出した――『頑張れよ』
「あ、あのよ」ジビアの口調を真似つつ、グレーテは顔をあげる。「実は、あたしの銃が故障しちまったんだよ。だから代わりに……別の話でもしねぇか?」
無論すぐにジビアから銃を取り返す手段もある。
だが、そんなこと彼女は望んでいないだろう。かけてくれた応援の言葉を意識する。
クラウスは何かを察したように頷くと、黙って拳銃を組み立て始めた。小さく「グレーテの変装か……邪険に払い過ぎたな……」と言葉が聞こえてきた気もするが、あまりに小声なので気のせいかもしれない。
「そうだな。では、僕の射撃の技術を披露しつつ、話でもしようか」
クラウスは射撃場にある椅子に腰を掛けると、銃に纏わる武勇伝を語ってくれた。時に、その神業じみた腕前も披露してくれる。グレーテはその隣に座って、相槌を打った。ジビアの姿を借りている以上、妙なアプローチはしない、彼との会話を堪能する。
それは仲間がくれた、とても穏やかな時間の過ごし方だった。
※本作は『スパイ教室02 《愛娘》のグレーテ』メロンブックス特典SSを修正したものです。
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