調教


 グレーテは悩み込んでいた。


(……ボスを癒して差し上げたい……)


 現在の『灯』は、クラウスがただ一人で大量の任務をこなし続けている状況だ。あまりに彼を酷使している。

 そして、そもそもの話をすれば、このディン共和国の諜報機関そのものがクラウスに頼らずにはいられない状況らしい。中核を担う『焔』がなくなり、その穴をクラウス一人に埋めようとしている。彼の双肩には、どれほどの自国民の命が懸かっているだろうか。疲労は常に溜まっているはず。

 ゆえのグレーテは「癒したい」と思い悩む。


(……ですが、マッサージや添い寝、子守歌などは断られ続けている……)


 最近では、微妙に避けられつつある気さえする。

 その理由は一つしかない。


(……おそらく、ボスは心を安らげる余裕もないのでしょう……)


 溜め息を吐くと、テラスの方向から犬の鳴き声が聞こえてきた。

 サラが飼っている犬だろう。近くにいるのか。


「――っ!」


 ふと視線を向け、驚愕した。

 犬はいた。テラス席に座るクラウスの膝の上に。

 そして、クラウスは犬を撫でながら――穏やかな表情を浮かべていた!




「……サラさん……」

「ひっ、自分、なにかしたっすかっ?」


 即座にサラの部屋に向かうと、怖がられた。よほど鬼気迫る表情をしていたらしい。

 事情を説明すると、サラは「なるほど」と頷き解説してくれた。


「先生って動物に好かれるんすよ。扱いも上手なので、ウチの子たちも懐いちゃって」

「なるほど……さすがはボスです」


 一見、寡黙で掴みどころがない性格だが、クラウスは常に部下を気にかける優しさを宿している。動物たちはそれを見抜いているのかもしれない。クラウスにしても、あまり人付き合いを好むという性格ではない。動物相手の方が楽なのだろう。

 クラウスと動物の関係は、まさに相思相愛。たっぷりと癒されているようだ。


(……しかし、それでもわたくしが安らぎを与えたかった、という気持ちはワガママなのでしょうね……)


 グレーテが俯くと、サラが何かに気づいたように「グレーテ先輩っ」と声をかけてきた。


「じ、自分はグレーテ先輩を応援してるっす!」

「は、はぁ……」

「なので、これを使ってください」


 そう告げて、サラは部屋の隅に置かれた装飾具を持ち出してきて――。



 テラス席で、クラウスは犬の毛並みを整えていた。

 犬は、心地よさそうに眠っている。喉に触れると小さく吠えるが、すぐに心地よさそうに倒れ込む。


 徹夜での任務明けだった。窮地に立った同胞を救うため、深夜に緊急出動する羽目になった。少女たちを連れていくには不安が残る難易度で、やはり一人でこなすしかない。結局、一夜駆け回ってしまった。

 そんな朝には、すぐ熟睡するよりも、犬でも撫でて心を落ち着かせるに限る。


「……ボス……」


 するとグレーテの声が後方から聞こえてきた。

 また紅茶でも淹れてくれたらしい。今日ばかりは、ありがたく頂こうと感謝しつつ、振り返った。

 ――犬耳を生やしたグレーテがいた。


「……あの」グレーテが口を開いた。「……ボス、わたくしが間違っておりました……」


「何かは知らないが、今も間違えているぞ」

「……ボスは甘えるよりも、甘えやかしたい派なのですね……」


 グレーテは、クラウスの前で両腕をあげた。


「……さぁ、わたくしを存分に愛でてください……」

「………………」


 腹を撫でろ、ということらしい。

 視線を感じて、屋内に視線を移す。サラが拳を握りしめて、こちらを見つめている。目が合った。サラがさっと物陰に隠れる。どうやら彼女が良からぬことを吹き込んだようだ。


(……コイツは、人に流されやすい時があるな)


 スパイの訓練時には冷静なのに、自分と絡む時は迷走している。

 追い払うか? 率直に『やめてくれ』と告げるか?


「…………さぁ、お願いします……」


 男性に身を預けることが不安なのか、グレーテはじっと目を閉じた。


(無碍にするのは可哀想か。だが、部下の少女に手を出すのも……)


 どうしたものか考えていると、一つアイデアが浮かんだ。


「グレーテ、そのまま目を閉じていろ」

「……っ、はい……」


 クラウスはグレーテの腹にそっと手を伸ばした。

 彼女は覚悟を決めたように唇を結んだ。そして、その口から矯声が漏れ始める。


「……っ、ボス……息がくすぐったいです……そんなに、まさぐられるとっ……いえ、このまま続けても、わたくしは…………っ…………爪を立てられると、少し痛いです……ボスはその反応を……ぅ……楽しんでおられるのですか……?」

「……………………」


 犬――それをクラウスはグレーテの腹に押し当てる。


(任務明けに、僕は何をやっているのだろう?)


 自問するが答えは出てこない。

 手の先では、犬が愉快な遊び場を見つけたように足をバタバタと動かしている。グレーテがくすぐったそうに身を捩るのが愉快に思っているらしい。


(……コイツは、こんな風に興奮するんだな)


 思わぬ一面を見れた気がする。やはり動物は癒しに溢れている。

 目の前で悶え続けている部下から視線を逸らし、クラウスは無心で動物とじゃれ合っていた。


※本作は『スパイ教室02 《愛娘》のグレーテ』とらのあな特典SSを修正したものです。

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