第90話 Nothing There
数分ほど泣き続けたホープスは一旦の落ち着きを取り戻し、その場で三角座りをすると壁に背中を預け、ぼうっとした目でテミスの神像を見つめていた。ドレアムとオリガもホープスと同じように三角座りでテミスの神像を見つめている。
「────俺達、これからどうすればいいんだろう……」
まだうっすらと目を赤く腫らしたホープスが気落ちした様子で息を吐く。心の中に抱いていた不公平な世界に対する不平不満は涙と共に洗い流され、後に残ったのは未来への不安。抱いていた不平不満は、行き場のないその不安から目を背けようとする幼い防衛本能でもあった。
「そんなこと私に聞かないで」
ホープスの右隣にいたオリガが顔を動かさずに言う。
「そういうオリガはどうなのさ。将来の夢とか目標とかあるの?」
オリガの右からドレアムが素朴な疑問をぶつける。一連のオリガの言動から警戒を解いたらしく、間延びした口調も飄々とした身振り手振りも辞めてありのままの姿をオリガに見せていた。
「私? 私はフェンリル騎士団に入る!」
フフンと、オリガは得意げに鼻を鳴らす。
「「何で?」」
双子の声がシンクロした。声だけではなく、身を乗り出して興味深そうにオリガを見つめる仕草まで一致していた。
「憧れたから!」
短く、そして何よりも簡潔な答えだった。双子たちは意図せずスルトのことを思い出す。
「……何で憧れたんだ?」
ホープスがまた聞いた。
「少し、暗い話になるんだけどさ…………私のママ、ちょっと前までお父さんにいじめられてたんだ」
「!」
切り出された話題に静かに反応したのはドレアムだ。ついさっきのこと、父親の所在を尋ねられた際、一瞬豹変したオリガの冷たい眼光を目撃していたドレアムだけが反応した。
「元々人を騙してお金を奪う仕事をやってるような悪い人なんだけどさ、本当に酷い人だった。ちょっとでも嫌なことがあったらすぐに八つ当たりしてくるの。私には汚い言葉を浴びせてくるだけだったけど、ママのことは毎日のように殴ったり蹴ったり、酷いときは髪を掴んで引っ張ったりしてた」
語られた過去に双子たちは絶句する。捨て子故に、血の繋がった家族に対して幻想など抱いていない二人とはいえ、そんな非道極まりない父親が存在するのかと驚愕するほかなかった。
「だからそういう人は嫌いなの。大っ嫌い。特に暴力を振るう奴と噓つきは全員死ねばいいと思うんだ」
過激な思想に双子達は冷や汗を流す。だが彼女の壮絶な過去を鑑みればそういった考えを持つことにも理解出来る。なので狼狽えこそしたが、だからといってオリガのことを危険人物だとか、関わらない方が良い相手だとかは全く思わなかった。
「今はもう大丈夫なの……? ちょっと前までって言ってたけど……」
ドレアムの声には彼女を心配する響きがあった。そこに潜んでいる暖かな優しさに気付いたオリガは嬉しそうに笑う。
「もう大丈夫! ちゃんと罰が当たったから!」
その弾んだ声に相反して、深紅の眼は少しも笑っていなかった。ホープスもドレアムも気付いていたが、言葉の裏に隠された彼女の狂気に気が付くことはなかった。
「だけどまだまだ、お父さんみたいな悪人はうんざりするほどたくさんいる。お父さんの仕事仲間もそう、お父さんと同じようなことをしてる奴らもそう。…………だから、お父さんみたいな奴らに苦しめられている人達は数え切れないほど多いはず」
オリガは悔しそうな表情をつくりながら己の右掌を見る。開いた指が閉じて、華奢な握り拳にギュッと力が入ると、細い指と指の隙間から黒い煙のようなものが生じた。それはオリガの握り拳の小指側、親指を除いた四本の指が形成する隙間のトンネルの出口に収束し、やがて黒い刃の形をとった。
「お前ソレ──」
「
ホープスの言葉を引き継ぐようにドレアムが答えを言った。予想だにしなかった事実に二人とも目を丸くさせていた。
「この力で、私は悪党どもに罰を下す。一人でも多くの人を悪党どもから助けたい」
力の籠った宣言を聞き、双子たちは顔を見合わせた。約一秒の沈黙の後、殆ど同時に頷いた。
「「俺達も騎士になる」」
両側から聞こえてきた言葉に、下を向いていたオリガは思わず顔を上げた。
「えっ?」
オリガは呆気にとられて、視線を右左右左と何度も動かす。
「別にお前の真似したわけじゃねーからな」
「ねーからな!」
仏頂面のホープスの言葉をドレアムが笑いながら復唱する。
「他者のために行動するっていう点では「騎士」も「神父」も共通してるだろ? 俺達も騎士になれば神父様が他者のために祈り続けた意味が分かるかもしれないと思ったんだ」
「ま、他人のために祈るのはまっぴらごめんだけどな!」
ホープスが主題を述べ、ドレアムが補足するように付け加える。二度の息ピッタリな双子以心伝心を見せつけられたオリガは思わず破顔した。
「なら私は仲間だね!」
嬉しそうな顔で言うオリガに双子はまた少しだけ目を丸くして、しかしつられるように笑顔になった。
「そうだな。俺達は目的は違えど、進む方向は同じだ」
笑みを浮かべながらホープスはオリガの言葉を肯定する。
「きっと長い道のりになると思う。道の先に理想があるとは限らないし、挫けそうになることだってあるはず」
オリガは天井の向こう側にある空を想像しながら手を伸ばした。
「でも、絶対にあきらめないわ。この道の先に必ず私の…私達の求める理想があると信じて!」
────決意が固く結ばれたその刹那、空から降って来た巨大な何かが教会の天井を突き破る。
一言で言うなら金属の鳥だった。機体は細長くて真っ白だが、主翼の下側にコバンザメの如く取り付けられたエンジンは炎と黒煙を噴き出している。
ソレは飛行機と呼ばれる乗り物だ。
飛空艇が主流であるジャスティティアには存在しないタイプ。
言うなれば地球原産だ。
そして、異界から飛来したソレの衝撃が強すぎたのだろうか。オリガはまるで世界から音が消失したような感覚に陥った。
「「────危ない!!!!!」」
唯一、双子たちの焦る声だけは聞こえていた。
突き飛ばされるような感覚の後、オリガは意識を失った。
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