第86話 百雪不撓
突如現れた山羊頭の悪魔にエントランスホール内にいた全員が恐怖する。強すぎる恐怖というものは人を動けなくするもので、屈強な兵士たちも騎士であるリルカも声すら出せなくなっていた。
「兵隊さん!! ギドさんと二人を連れて逃げて!!」
しかし流石に慣れはある。リルカは、無意識のうちに過去対峙したスレイプニルと目の前の悪魔を比較しており、その当時ほどの絶望感はないと解釈したことですぐに恐怖から抜け出していた。
「逃げろったって……あいつが……」
「探せばどこかに裏口があるはず!! 早く!!」
リルカと兵士が話している間、悪魔はジッとリルカ達を観察していた。というより、その視線はリルカを真っすぐ貫いている。リルカもそれに気付いていたのでこのような指示を出している。
「騎士様…………!」
オリガは今にも泣きだしそうな声色でリルカを呼ぶ。
「安心してオリガちゃん。こいつは、私が食い止めるから!」
リルカは一瞬だけオリガの顔を見て、柔らかく笑う。その笑顔にオリガは手を伸ばすが、「逃げるぞ!!」と、動き始めた兵士たちがオリガを抱きかかえ、あっという間に悪魔とは反対側の方向へ駆け出して行った。
『……』
悪魔は、リルカ以外の人間がいなくなったことを確認するとガラス張りの壁にグイッと顔を押し付けた。その圧力にガラスは歪み、割れる前に炎の熱でドロドロに融けていく。ぽたぽたと液体化したガラスが地面に垂れ、山羊頭の悪魔がエントランスホールへ侵入した。
リルカは氷の大楯を構えながら鋭い眼光を悪魔へ向ける。悪魔は翼を畳んで地面に座り込み、ジッと、リルカの顔を覗き込む。距離が近づくたびにリルカは後ろへ下がり、悪魔は前に出る。その繰り返しの末、また後ろへ退こうとしたリルカの踵が受付カウンターとぶつかった。
「……!」
背水の陣─────
『リルカ・イエスマリア』
「え────」
悪魔が嗤い、その怪腕を勢いよくリルカへ振るう。
ガキン!! と、何か硬いものと衝突した音がエントランスホールに響いた。怪腕はリルカの大楯によって防がれている。
『!』
「何であなたが私の名前を知ってるのか分からないけど」
言葉と共に氷の大楯から雪の混ざった冷たい風が生じる。途端に怪腕が大楯と接している部分から凍結し始めた。
「霊魔の言葉に耳は貸さないよ!」
凍結は腕から肩に掛けて、胴体へ。胴体から上下に広がり、やがて蝙蝠の羽をふくめた悪魔の全身が凍り付いた。
氷の彫像と化した悪魔は数秒の間ピクリとも動かずただ冷気を発していた。が、ピシッと顔面の中心がひび割れ、同様に全身のあちこちにひびが入り始める。増え続けるひびが他のひびと合流して蜘蛛の巣のような亀裂になると氷の彫像は砕け散り、中から悪魔が元の姿のまま飛び出した。
『イツマデェェエエエ!!!』
その叫びは理性や知能の感じられない獣のようであった。一般的な霊魔と同じ、先ほどまでの異質さが消え失せた、剥き出しの怨嗟。悪魔は暴走する情動の赴くままにその怪腕を再び振り抜いた。
リルカを叩き潰さんと迫る腕は彼女の霊臓によって展開された銀色の障壁に止められる。
『イツマデェェ!!!!』
山羊頭の悪魔はそんなものは知らないと言わんばかりに滅多打ち。両腕を使って何度も何度も力の限り障壁を叩いた。
────どうだリルカ!! オレの力はスゲェだろ!!
脳裏に浮かぶのはスルトの笑顔。過去に何度か模擬戦を行った経験と共に思い出されるのはスルトが持つ馬鹿力。障壁を打ち付ける悪魔の怪腕が持つ威力は、まさにスルトの拳が放つ威力と同じであった。
「ホントにスルトと戦ってるみたい……! だけど────」
銀色の障壁が突然動いた。障壁は飛ばされた矢の如く真正面へ突き進み、滅多打ちを打ち破って悪魔の身体を強打した。障壁によるシールドバッシュだ。これが直撃した悪魔の山羊頭はペシャンコになり、またその衝撃によって巨体は後方へ転倒した。
「その程度じゃ私の護りは破れない!!!」
信念の籠ったリルカの力強い声が悪魔を叩く。
『イツマデェェェ!!!』
起き上がった悪魔は瞬時に潰れた顔面を再生させ、閉じていた蝙蝠の羽を広げて飛び上がった。怒りに満ちた双眸は一貫してリルカを射抜いており、彼女の攻撃が届かないであろう高度まで上昇すると、その口を大きく開いた。
リルカの脳裏に再びある光景がフラッシュバックする。
(────これもしかしてレルヴァの……!!)
スルトがよく召喚している上半身だけの炎の人狼、レルヴァが放つ超高熱のレーザービーム。
たった今悪魔が見せた挙動はその予備動作と完全に一致している。
重なるはずのない二つが彼女の中で一致した瞬間、悪魔の口から極大のレーザーが放たれた。レーザーはパチパチと弾けるような騒音を鳴らしながらリルカがいる地点をその周辺ごと貫き、あまりの熱で発生した煙が瞬時にエントランスホールを覆い尽くす。
それでも満足しなかったのか、悪魔は開いた口から火球を生成し、それをリルカがいた場所にめがけて何度も何度もぶつけた。
爆発音が連続する。火球の着弾とともに煙が濃くなり、エントランスホールを飛び出して悪魔にすら届きそうなほど大きくなっていく。
『!』
瞬間、悪魔の全身が銀色の障壁に囲まれた。
「やっぱり、勘違いじゃないんだ」
煙の中からリルカの声が起こる。障壁の立方体に閉じ込められた悪魔の視界には煙の中にあるぼんやりとした燐光が映っていた。
「微かだけど、あなたからスルトの霊力を感じる」
煙が晴れ、現れたのは燐光を放つ氷の大楯。そして悪魔を睨みつけるリルカの眼光だった。
「あなただけじゃない。他の霊魔からも、あの黒い巨人からも感じる。…………霊魔って、もしかしてそういうことなの?」
立方体は段々と小さくなり、中に閉じ込められた悪魔の身体が圧縮されてキューブ型になっていく。
「だとしたらあなたたちは帝国兵……スルトに殺された十万人の怨嗟が集まって生まれた霊魔ってことになるのかな」
リルカ・イエスマリアは真実に到達した。
見る見るうちに縮んでいく立方体がギギときしみ始めた頃、人間の何倍もあったはずの悪魔の身体は幼子と同程度にまでなっていた。身動き一つ取れず、声すら出せず、しかしその双眸だけは確かな怨嗟を宿している。
「…………」
リルカが目を瞑る。
立方体が一気に圧縮され、中にいた悪魔は圧し潰された。
『イ…………』
障壁が消え、握り拳にも満たないほど小さな立方体となった悪魔は地面に落ちた。そのまま炎による再生が始まるかと思われたが、あまりにも原型を留めていなかったせいか、悪魔は再生することなくそのまま黒い靄と化して消滅した。
「ごめんなさい。だけど、スルトは大切な友達だから……」
そう言い残してリルカは国立病院を発った。
「行かないと」
駆ける彼女が向かう先はエルド。先の爆炎の竜巻に襲われていたであろう最愛の人の身を案じて疾走した。
♢
同じころ、首無し竜と腕を生やした馬車とモーリッツの戦闘は既に決着を迎えていた。
勝者はモーリッツ。敗者である霊魔は再生できぬほどバラバラに切り裂かれており、消滅まで秒読みという状態であった。
「なんだ、スルトの霊力を発しているから相当な力を持っていると期待していたが……ただのハリボテだったか」
モーリッツは失望したような声を霊魔へぶつける。その頭から起こる流血や、あちこちに残る爪で切り裂かれたような傷から如何に死闘が繰り広げられていたか読み取れるだろう。
「まぁいい。これで終わりだ」
刹那、剣を握っていたモーリッツの右手がブレる。
ピクピクと動いていた霊魔の身体の破片が真っ二つに切り裂かれた。
『オオォォ…………』
破片はそのまま黒い靄と化して消滅した。
「残りの霊魔は…………他の皆が倒したのか」
霊魔の消滅を確認したモーリッツは周囲をキョロキョロと見渡した後、剣を鞘にしまうと、おもむろにストレッチをし始めた。
「さて────」
念入りに身体をほぐすモーリッツ、その黒い瞳が見つめるのは黒い巨人である。
「メインディッシュと行こうか」
そんな好戦的な呟きが届いたのか、黒い巨人の視線がモーリッツに向けられた。
ストレッチを終えて立ち上がったモーリッツは剣を引き抜き、その切っ先を黒い巨人へ向ける。
「フェンリル騎士団を舐めるなよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます