第82話 炎魔・Ⅰ
年中雪が降るこの国では珍しい連日の雨が止んだ13月30日。今年もあと二日で終わるという日の朝は見ているだけで気分が重たくなるようなどんよりとした黒雲に覆われていたが、それはまるで僕とリルの心を映し出しているようだった。
一週間前、国王陛下は突然ガンドラ帝国へ宣戦布告を行った。それは誰にとっても晴天の霹靂で、そして誰だって望んでいない戦争だった。勿論国民たちから猛反発が起こっていた。しかし陛下は一切の声を無視して戦争を強行し、王国軍のみならず騎士団まで出兵させようとした。
それに待ったを掛けたのが他でもないスルトだった。たった一人王城まで赴いて直談判しに行ったのだ。そして驚くべきことに、本当に陛下を説得してしまったらしい、僕ら騎士団も王国軍も結局戦争に行くことはなかった。
ただ一人、スルトを除いて。
スルトは、何も言わずに戦地に行ってしまった。きっとスルトのことだから、僕達が罪悪感を覚えないように気を遣ったんだと思う。
ふざけるな。そう言ってやりたかった。
これは僕だけじゃない。リルも、アレクさんも、騎士団の全員が君に同じことを思って怒っている。
「帰ってきたら一発ぶん殴ってやる」と言ったのはアルベドさんとギドさんだ。「正座させて説教してやる」とカンカンなのはテレジアさんで「舐めたことしやがって」とやり切れない怒りを零したのはアレクさんだ。
それでも奥底にあるのはやっぱり、スルトが無事に帰ってきますようにという祈りだった。
その祈りが通じたのか、戦争は思いのほかすぐに終結した。
スルトが無事に帰ってくる。
待ち望んだたった一つの期待に僕らの脳味噌は支配されていた。
[帝国軍先遣隊全滅か。一夜にして十万の兵を滅殺したテミスの"炎魔"]
その号外が世界中にばらまかれたとき。
僕は今までの日常が二度と戻らないことを悟った。
♢
スルトが帰ってきたのは号外が出された翌日のことだった。再会は、またもや降った雨の日で、最悪の形で叶った。王国南西部、レグルス区のホド教会の中で自殺したと思われる神父の亡骸の前に、スルトは泣き崩れたような体勢で失神していた。
亡くなった神父と会ったことはない。が、スルトが良く話していた"神父様"と同一人物であることはすぐに分かった。血濡れたカーペットにはぐしゃぐしゃに握りしめられた跡がある新聞紙が落ちていて、それだけで一体何が起こったのかはなんとなく読み取れた。
僕は急いで騎士団に連絡し、スルトを背負って国立病院まで走った。僕を出迎えたのはフラムトという医者で、奇しくもスルトの父親だった。土砂降りの雨の中でいきなり駆け込んできた僕にフラムトさんは不思議そうな顔をしていたが、背中のスルトを見た途端に目を見開いていた。
そこから先は怒涛の時間だった。積み重なって膨らんだ感情が限界を超えたのか分からないが、まるで自分のことを俯瞰してみているような感覚で、夢でも見ているのではないかと錯覚してしまいそうになった。朧げな記憶の中で、スルトがしばらく目を覚ましそうにないと言ったフラムトさんの声だけが明確に輪郭を持っている。
そして今日、13月30日。
僕とリルは朝の号令が始まる前の少しだけの時間を利用してスルトの見舞いに来ていた。ひょっこり起きているかも、なんて楽観的な希望は病室を除いた時点で粉砕した。
言ってやりたいことが沢山あるのに、スルトは眠ったまま起きる気配を見せない。
「なぁスルト……」
届かないことを知りながら、それでも言わずにはいられなかった。
「何で一人で全部抱え込んだんだ?」
声が震えた。それが伝播したのか、腹の奥から何か熱いものがこみ上げてくる。
「どうして僕らを頼ってくれなかったんだよ……」
握った拳に力が入る。声の震えは収まらない。
「僕らは…………三人で一人だろ……?」
僕の問いをスルトは無視する。
九時を告げる鐘の音が鳴り響いたのはそのときだった。結局、スルトは僕らが来てから一度も動かなかった。
「……時間だ。そろそろ行こう」
悲痛な面持ちで僕を見ていたリルに一言かけて病室から出ようとしたそのとき。
僕らのスマホからけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
『緊急避難警報が発令されました。国民の皆様は直ちに避難の準備をお願いします』
不安を煽るような機械音声が鐘の音をかき消す。
それは地震や猛吹雪のような災害による被害が著しいと予想された場合にのみ発令される警報だ。しかし滅多に発令されることはなく、僕も今まで片手で数える程度しか聞いたことが無い。騎士になってからは初めてだ。
騎士になる前はこの音が怖くて泣いたこともあった。だが、今は違う。
「エルド」
「分かってる」
騎士とは盾となって国を守る者。四年の歳月を経て成長した今の僕らは、この警報に恐怖を覚えることはない。
「僕は団長と連絡を試みる。リルは避難誘導を」
「うん」
はずだった。
『────♪』
知らない警報音がスマホから鳴った。
「……え?」
リルが困惑したような反応を示す。
さっきのとはまるで違う、壊れかけのラジオからなるような、ノイズ混じりの少し明るい音調のサイレンだった。
駆け出そうとしていた僕らの足が縫い付けられる。
『国家緊急事態宣言が発令されました』
続けざまに聞こえてきたのは人生で一度も聞いたことが無い音声だった。
『この警報は国家滅亡の可能性がある場合にのみ流れます。全国民は次の放送に従ってください』
「何、コレ……」
機械音声は困惑する僕らを置き去りにして淡々と指示を読み上げる。
『1.全国民は騎士団の誘導に従い、直ちに避難してください
2.騎士団は国民たちの命を最優先に行動し、治安維持に努めること
3.国家存続が絶望的な状況にある場合、全国民は国外に脱出してください。
繰り返します────』
恐ろしい未来を示唆する文章を機械音声は繰り返す。
「一体何が起こって────」
状況を整理しようとして独り言をつぶやいた瞬間、窓ガラスに夥しい数の亀裂が走った。
『イツマデェェェェエエエ!!!』
怨嗟と熱を孕んだ絶叫が轟いたのはその直後だった。悍ましく強大な霊力が一瞬で辺りに満ちて、窓ガラスが静かに砕けた。
かつての訓練でスレイプニルと出くわしたときもそうだった。
絶対に敵わないという確信めいた感覚が僕らを縛り付けている。
絶対に行くなと、防衛本能が叫んでいる。
僕は恐る恐る振り返って、窓の外を見た。
「!!」
ニヴルヘイムの傍に広がる大雪原。
天を衝くほどの黒い巨人がこちらに向かって歩いてきていた。
スレイプニルをも上回るその巨体、その姿はおとぎ話で出てきたギガント族の王の姿に似ていて、確かな敵意と憎悪を孕んだ琥珀色の双眸がスルトの瞳を僕に想起させた。巨体から絶えず噴き出す赤黒い炎が地面を焦がしており、巨人の後方には黒い焦土と化した雪原の残骸が広がっている。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
下の階から誰かの悲鳴が聞こえたとき、騎士としての責務が萎んでいた僕の勇気を刺激したことで身体がようやく動かせるようになった。
急いで病室から飛び出した。院内は先の警報と巨人の咆哮によって大パニックになっており、一部の子どもたちは泣いてしまっている。このような光景が王国中で起こっていることは想像に難くなかった。
「ここにいる人たちの誘導は私に任せて! エルドはあの巨人を!!」
「任せる!」
僕はリルを置いて、そのまま病院の外を目指した。スルトの病室は最上階にあり、一階の正面玄関まで辿り着くには長い階段を毎回毎回降りる必要がある。それでは時間がかかり過ぎるので、本当は余りよくないのだが、廊下の窓から飛び降りさせてもらった。窓ガラスは巨人の霊力の圧に耐え切れず粉々に砕けていたので怪我のリスクはない。
宙に飛び出した僕の身体を重力が引きずり落とそうとする。速度を調整するために剣を病院の外壁に突き立てると落下速度は幾分か低下する。そうして生まれた猶予を使って僕は下肢に霊力を回して強化し、家屋の屋根より少し上くらいの高度まで降りた瞬間に壁を蹴った。増強された脚力は僕の身体を簡単に民家の屋根の上まで運んだ。
「ちょっと上を失礼しますっ!」
家の所有者に内心で謝罪しつつ、霊力で強化された機動力を駆使して家々の屋根の上を駆け抜ける。
そんな折、二つの人影が僕の頭上を追い越した。影は尋常じゃない速度で僕を置き去りにしてしまう。
「速ッ……!?」
走りながら僕は驚愕していた。
今僕を追い越していったのはアレクさんとモーリッツさんだ。追い抜かれる際に一瞬だけ見えた。
しかし僕が驚愕したのは二人に抜かされたからではない。
僕が驚いたのは二人が空中を蹴って加速していたからだ。
「どうやってやるんだソレ……!」
見る見るうちに引き離されていく。真似しようにも、どこをどう真似すればいいのか全く分からなかったのでそのまま今できる最速を維持することにした。
『えんまぁぁぁぁぁぁあああ!!!!』
そんな折、巨人が咆哮をあげた。
咆哮に共鳴するようにして巨体から炎が噴き出す。炎は巨人の身体から完全に分離してもなお消えることはなく、それどころか自我でも持っているかのように動き出して、ある形に変化した。
「門……?」
あまりの異様さに僕は思わず足を止めてしまう。
それはまるで地獄へと繋がる門のようだった。
バタンッ! と、門が勢いよく開かれる。七体の巨大な霊魔が門から一斉に飛び出した。
『イツマデェェェ!!!』
目がくり貫かれた狼。
腹部に無数の人の顔が埋め込まれた鴉。
空を飛ぶ頭蓋骨。
二対の翼を持った蛇。
山羊の頭と蝙蝠の羽を持つ悪魔。
馬車を引く首の無い竜。
尻尾が口になっているリス。
それらは黒い巨人に匹敵するほどではないが、それでも人の何十倍も大きく、まるで実在する生物の如きディテールを纏っていた。炎で形成されているせいか時折その輪郭が揺らめくが、それ以外に見分ける手段が見つからない。
奇妙なことに、その霊魔たちの姿に僕は既視感を覚えていた。
「この感じ、どこかで……」
脳裏にチラついたのはスルト。
そして、いつも彼の背中にいるあの狼だった。
「────レルヴァ?」
門が消える。
霊魔たちが王国へ襲い掛かった。
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