序章 正義執行罪
プロローグ 黄昏の預言
『イツマデェ!! イツマデェ!!』
「スルト。今俺たちを取り囲んでいるこの化物どもは霊魔という」
八方を四ツ目の狼の群れに囲まれた危機的状況の中、よれよれの白衣を着た親父がオレに言う。
「起源も生態も不明。苦痛に満ちた声でイツマデと叫びながら、命ある存在の全てに襲い掛かる魔物だ」
真っ白な雪原のど真ん中だ。しかも吹雪で視界も悪い。いくら叫んだところで助けなんてこないだろう。
でも親父は全然焦っていなかった。死ぬかも知れないというのにだ。そのせいかオレも怖いとは感じなかった。
「はるか昔、人類は霊魔によって何度も滅ぼされかけた」
四ツ目狼の群れが唸る。今にも飛び掛かってきそうだ。
「だが、人類は決して未来を諦めなかった。だから俺たちはここにいる」
親父が白衣を脱いでオレに渡した。
「よく見ておけ。これからお前が目撃するものは、未来を望んだ先人たちからの贈り物だ」
瞬間、親父が変身した。一回りも二回りも巨大化したその姿を一言で表すと、人の形をした狼だ。
変身した親父はあっという間に四ツ目狼の群れを蹂躙した。引き裂いたり殴り飛ばしたり、とにかく一方的だった。
死んだ狼は不思議なことに黒い煙となって消滅した。
「これこそ、四千年のときを越えて未来に託された魂の力────
やがて元の姿に戻った親父は、なんだかとても誇らしそうだった。
「オレにもその、そうるはーと? っていうのはある?」
「ある」
親父は即答した。
「霊力の扱い方は覚えているな?」
「うん」
「では、心臓に霊力を回せ」
オレは言われた通り、心臓に霊力を回した。血管の中を駆け巡る血液ではない何か。それを意識して感じ取り、望む箇所に回すイメージだ。
かぁっと、全身が熱くなる。
『────イツマデェェ!!!』
突然、熊と芋虫を合体させたようなバカでかい霊魔が地中から姿を現した。でも今は霊魔を気にしている場合じゃなかった。
どこかオレの知らないところから、灼熱を帯びた力の奔流が全身に流れ込んでくる。
『イツマデェェェェ!!!!』
芋虫熊が気色の悪い動きで俺たちを食べようと迫ってくる。殆どのみ込まれる一歩手前、流れ込んできた灼熱がオレの身体を突き破って露出した。
視界が琥珀色に染まる。炎だ。オレの身体から炎が噴き出したんだ。自分の身体から炎が噴き出したことにびっくりしたが、熱い感じがするだけで身体が焼ける様子はない。
オレが混乱している間に炎は芋虫熊を呑み込んだ。屋敷の一つくらいなら丸呑みに出来そうなほど大きな霊魔を一瞬で丸呑みにした。
やがて炎の噴出が止まる。丸呑みにされた霊魔はどこにもおらず、融けた雪の水分でぬかるんだ大地があるだけだった。
オレの炎で死んだ、オレが殺したんだ。
「それがお前の霊臓だ」
今もちろちろと皮膚から漏れ出る炎に恐れを覚えると、親父が声を掛けてきた。
「……怖い」
オレは思わず親父に訴えかけた。
「何が怖い?」
「…………分からない。けど、なんだかとても怖いんだ」
芋虫熊が炎に呑まれて消えた光景がフラッシュバックする。心の中でよくわからない不安と恐怖が滲みだした。
「相変わらず臆病なやつだ」
親父は困ったように苦笑すると小さく息を吐いた。
「だがそれでいい」
「え」
狼男に変身した親父がオレを優しく抱きしめた。
「自分の力が誰かを傷付けてしまうかも知れない。そう考えられるお前は優しい心の持ち主だ」
「オレが……?」
「あぁ。お前自身がだ。俺はそんなお前が誇らしいよ」
その言葉はとても温かだった。今抱きしめられている温もりと同じくらい。
とても安心できる温度だった。
「スルト。お前は人を助ける男になれ」
抱擁を止めた親父がオレの肩を掴む。
「霊臓は確かに恐ろしい。人なんて簡単に殺せてしまう。だが使い方を知れば人を助けることも出来るんだ」
親父が人間に戻る。僅かに口角が上がっていた。
「オレにも出来る?」
「勿論。俺が嘘をついたことがあったか?」
「いや、この前嘘吐いたじゃん。オレのアップルパイ間違って食べたときにさ」
「…………」
「なんか言えよ」
笑顔が固まった。オレはまだ許してないからな。
「よし、帰るぞ」
「逃げんなバカヤロ―」
オレは逃げる親父を追いかけた。あれだけ吹き付けていた吹雪はいつの間にか止んでいた。
「?」
親父を追っていた途中でオレは視線を感じた。空の上から、誰かに見られている気がする。
振り返って空を見上げてみると、何か大きな人のようなものが見えた。
「…………誰?」
直感だがそれは女性に見えた。ともかくアレは一体誰だろうと思って目を凝らしてみるが、雲の隙間から差し込む光が眩しくてあまりよく見えなかった。
「────おーいスルトー! 何か落としたのかー!」
「……なんでもない! 今行く!」
ちょっと遠くから心配するような親父の声が聞こえたので、オレはすぐに走って親父の隣に駆け寄った。
アレは一体何だったんだろう。誰かがオレのことを見ていたのかな。親父に聞けばわかるかもしれない。親父は物知りだから、きっと何か知っているはず。そう考えたオレは思い切って聞いてみることにした。
「親父。さっき空の中に誰かいた」
「なに?」
「なんかでっかい女の人。顔は見えなかったけど、雲の上からオレのことを見てたよ」
親父は怪訝そうな顔で空を見上げた。キョロキョロと視線を動かしたあと、不思議そうに声を洩らす。
「気のせいじゃないのか?」
「気のせいでも見間違えでもないよ。絶対になんかいたんだ。だってオレしっかり見たからな」
オレが言い返すと親父は黙りこくった。
「ほ、ホントだからな!」
「ふむ……」
オレはどうにかして自分が嘘を言っていないことを証明したかった。何か良いものはないかと考えながらあちこちを見渡した。視線をぐるぐると動かす。でもどこにも何も見つからなくて、ちょっと焦りを覚えながら視線を前に戻した。
「ぁ」
視線の先にあったものを目撃したオレは思わず声を上げた。
「アレだ!!!」
「アレ?」
オレは叫んだ。親父の服を引っ張って、前方に見つけた件のでっかい人を指差して親父に示した。
「親父アレ!! アレだ!! あそこにいる!!」
「うぅむ……特に目立った物は見当たらないが……」
「だからアレ!! 国の真ん中に立ってるアレだよ!!」
オレが指差した先には見慣れたテミス王国があるが、そのど真ん中にでっかい女の人が立っている。空の上でオレが見かけたあのでっかい人だ。親父にも絶対見えてるはず。
「あぁ、そういうことか」
もしかして見えてないのか? と思っていたとき、突然親父は合点がいったように苦笑を洩らした。そうするとすぐさまオレの頭に手を置いてわしゃわしゃと撫で始める。
「アレは人じゃなくて神像だ」
「神像?」
「そうだ。正義と憲護を司るテミスの神像だ」
親父は微笑みながらでっかい女の人を指差す。吊られてもう一度女の人……の像を観察してみた。ピクリとも動かない女の人は左手に天秤を持ち、右手で剣を掲げている。何か包帯のような布が女の人の目を隠すように巻かれていて表情は読み取れない。
「…………」
気づけばオレの意識は包帯の下に隠されたテミスの眼に向いていた。
「テミスの神像が気になるか?」
「うん」
親父の問いかけに生返事を返してしまったのは、テミスと目が合ったからだ。包帯で隠れているから分かるはずないのに、なんとなく目が合っているという確信がある。
『火は天から降り来て、群がる悪を焼き払う』
しばらくテミスの神像を見つめていたその刹那、誰かの声が聞こえた。
「え?」
『虚ろな愚者が尋ねた。アナタは女神の剣ですか?』
反射的にこめかみのあたりを手で押さえると、また声が聞こえてくる。女性の声だ。清らかだけど無機質な声。聞くだけでオレの身体が金縛りにあったみたいに動かなくなった。
「誰……?」
『騎士ラムレスは、曇り無き剣で使徒を滅ぼした』
声はオレの問いかけを無視する。突然の事態に遅れていた思考が追い付いて、ようやく異常が起きていることをオレは理解した。
「お、親父!」
途端に怖くなって親父に助けを求めた。しかし返事がない。力を振り絞って指先を動かし、白衣の袖を引っ張ってみるが、やはり沈黙。
「親父……?」
様子が変だ。何かがおかしい。恐る恐る親父の顔を見上げてみると、ある一点を見つめたまま石像みたいに固まっている。
固まった親父は瞬きの一つもしない。する気配がない。どころか息すらしていない。
『外なる悪魔が告げた。私こそが王である』
そこでようやく気が付いた。世界の時が止まっている。
オレと声だけが止まった世界で動いているんだ。
『悪魔に
一体誰がこんなことを?
そんなもの決まっている。こんなことが出来る存在なんて、絶対に人間じゃない。
「テミス……!」
『黒い巨人が告げた。二度目の黄昏にて再会しよう』
テミスだ。声の主はテミスに違いない。
こんなこと出来るのは神様しかいないじゃないか!
『スルト、アナタは使徒である』
「!!」
不意に声がオレの名前を呼んだ。心臓を鷲掴みにされるような重圧と緊張が一気に襲い掛かって来たが、不思議なことに心が安らかになっていく感覚があった。
『燃える細枝は剣であり、火は滾る正義を意味する』
声を聞くほど心が凪いでいく。張った肩の力が抜けて、恐怖が薄れていく。
『忘れるなかれ、正義は相手を選ばず。ただ平和を乱す悪魔を滅するのみである』
「!」
今のオレにとって、その言葉は先の見えない暗闇を照らす導きの灯だった。絡まっていた糸が解けて、頭の中にすっきりとした爽やかな感覚が生じていく。
『目覚めよスルト。我が剣よ。未だ嗤う悪魔たちを焼き払え』
「────はい」
己の使命を自覚したその日、オレはテミスの剣としてこの命を正義に捧げることを誓った。
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