第7話 正義執行罪

 帝国兵の先遣隊殲滅が完了した後、何故か撤退を命じられたのでオレは二日ほどかけて祖国へ徒歩で戻った。そこら辺で誰にも気付かれず野垂れ死ねる可能性に賭け、一昼夜を通して飲まず食わずで歩いたが、この身体は憎たらしいほどタフだった。

 

 鏡は見ていないが、今のオレは誰が見ても浮浪者にしか見えないだろう。垢と汗と煤で汚れたぼさぼさの髪と服は自分でも分かるくらいの異臭を放っている。珍しく雨が降っている祖国に足を踏み入れた瞬間から無数の鉛のような視線が突き刺さっている気がしていい加減どうにかなりそうだった。


 人が少ない所へ、今は誰にも会いたくない。視線の矢の雨を振り払うように足を速めて行くうちに気付けばホド教会に向かっていることに気が付いた。


 神父様は元気だろうか?結局あれから一度も会えていない。…………あぁ、またあの不味い茶が飲みたいな。王城の白く輝いている庭園とは違う素朴な空間で腰を落ち着かせて、何も考えず、味の薄い不味い茶に顔を少し顰めて、神父様を揶揄って、それから…………


 思い出したくないことを思い出さないように思考を回しながらフラフラとした足取りで道を歩く。それが先延ばしにしているだけの無意味な行為だと分かっていてもやめることは出来なかった。


 一日とは言わない。別に一時間だけでも構わない。ただ少しだけ、ほんの少し疲れた。何も考えずに、現実から目を背けられる時間が欲しい。心の整理がしたいだけなんだ。


 やっとの思いで辿り着いたホド教会はとても静かだった。この前はホープスとドレアムが喧嘩をしていたが今日はいない。いやいなくていい。こんな情けないみすぼらしい姿二人には見せたくない。どうか中に神父様しかいませんようにと願いながらオレは教会の大きな木の扉をギギギと開いた。


 教会の中には相変わらず人がおらず、ざぁざぁと雨が降る音が我が物顔で木霊しているが、無人ではなかった。薄暗い空間の奥にはテミスの前で小さくうずくまっている神父様がいた。


「神父様」


 祈りの邪魔をしてはいけないと思いつつも、その後ろ姿を見たら声を掛けずにはいられなかった。今日くらいワガママの一つは許してほしいとテミスに乞いながら一歩足を動かした。


 その刹那、むせ返るような濃い香りがオレの鼻腔を擽った。


「…………神父様?」


 返事は無い。ただじっと、物言わぬ蝋人形のようにうずくまった体勢のまま微動だにしない。虫が這いずるような嫌な予感が心臓を貫いた。


「神父様!!」


 嘘だ、嘘だ! そんな訳がない! そんなことがあってたまるものか! 理性が分析する現実を本能が拒絶する。それでも足を一歩前に出すたびに現実が強烈に近づいてきて、本能が拒絶することを拒絶する。それを否定するには現実にもっと近づかなければならない。


 踏み出す一歩が水銀の泥沼に絡めとられたように重くなったのは、突然グシャと水気を含んだ音と感触が足の裏に伝わってきたときだった。赤いカーペット。近づいたから分かったが、神父様の周囲だけ何故か変色している。頬に跳ね返ってきたその水気を、恐る恐る、拭って、見た。


 カーペットよりも赤いものがべっとりと、手のひらにくっついていた。


「────」


 さぁッと血の気が引いていく。その時神父様がばたりと横に倒れた。神父様の両手に握られた喉笛を貫く鉛色のナイフに気が付いた時、オレの中の何かがひび割れた。


「ハ、ハハ…………いくら何でも、やり過ぎだ」


 そうだ、これはあの悪童どもの悪戯だ。三度の飯より悪戯が好きなアイツらが仕組んだドッキリに違いない。きっと物陰から動揺するオレを見てけらけら笑っているんだ。全く神父様も人が悪い。


「ホープス! ドレアム! お前らがいるのは分かってるんだぞ! なぁ、ドッキリなんだろ? あと五秒数えるから、その間に出てきたら許してやる」


 返ってきたのは虚しく木霊するオレの声だけだった。どこを見ても、耳を澄ましても、人の気配はしない。水滴が布に染みこむようにひびが大きくなっていく。

 

 そのとき、静まり返った空間に携帯の着信音が響いた。出どころはオレのズボンのポケットで、初期設定のまま変えていない無機質な音がオレを否定するように鳴っている。震える手で確認した画面にはエルドの名前が表示されている。


 縋りつくような思いで通話に出ようとしたそのとき、祭壇の上から何か大きな紙がパサリと落ちた。落ちる一瞬でチラリと見えた無数の文字列と何かの写真から新聞紙だと分かった。


「…………は」


 息が止まる。瞬きに匹敵するような短い刹那、新聞に書かれていた記事が一部だけ見えた。見えてしまった。エルドからの着信なんてもう意識の外にあった。腕を下ろし、けたたましく鳴り続ける携帯を握りながら、倒れた神父様のすぐ前に落ちた新聞紙を視界に入れる。


[帝国軍先遣隊全滅か。一夜にして十万の兵を滅殺したテミスの"炎魔"]


 強く握りしめたような跡のついた新聞紙にはそんな見出しが付けてあった。


『えん…………ま……!』


 記憶がフラッシュバックする。ひびが膨れ上がって、何かが砕けた。


  ────約束ですよ?


 神父様と交わした約束を、今になって思い出した。


「う、ぁ………あぁ……!」


 死んだ、死んだ! オレのせいで!! オレのせいで神父様が死んだ! 


 ────オレは神父様を裏切った。


「うわぁぁぁ────!!!」



 絶望と悲しみに耐えきれず、スルトは獣のような慟哭をあげた。


 親友たちと過ごした穏やかで幸せな四年の歳月が戒めの楔を緩ませ、スルトの脳に刻まれた恩師との約束を忘れさせてしまったのだ。


 恩師と交わした約束を裏切ってしまった後悔はあまりにも大きかった。或いは、正義を盾にして自分が犯した大罪から逃げようとしたことに気が付いたのかもしれない。


 故にどれだけの嗚咽を、どれだけの慟哭を零しても、その絶望は消えることはない。ついに精神が壊れたスルトは失神する。

 

 次に目を覚ました時、彼は一体何を思うのだろうか。それは彼にしか分からない。しかしこの先の人生において自らを罰し続けることは確実だ。


 慟哭が途切れた今、雨音と虚しく鳴り続ける携帯の着信音だけが教会に響いていた。



[ケテル王城・玉座の間]


「────大臣たちは一旦追い出した。近衛兵も今はいない」


 テミスの姿を描いた絵画のような巨大なステンドグラスを背景にして、玉座に鎮座するオットーが眼前で跪く騎士に告げた。


「これなら少しは話しやすいだろう? グリム・ギルトーニよ」

「……」

「遠慮なく申してみろ。なぁに、誰も見ておらんし、聞いてもおらぬ。不敬罪にはならんよ。面を上げて、ハッキリと言ってみよ」


 グリムと呼ばれた男は少しの間を置いてから立ち上がった。


「なぜ、スルト君を戦場に送ったのですか」


 ヘルムの下に隠れた顔が怒りに染まっていることが分かるような声だった。二メートルほどある大男の怒りは見ていると眩暈がするような威圧感があるが、オットーは特に反応を示さなかった。


「ふむ……詳細は先日伝えたはずだが?」

「納得いきません!! なぜスルト君が犠牲になる必要があったのですか!!」


 声を荒げ、怒りを前面に押し出すグリムとは反対にオットーは努めて無感情だった。


「我が王権をもって命令を下したからだ。他に何があるというのかね?」

「ッ!!」

「グリムよ。人々を守るという一点において我々は共通しているが、我は騎士ではなく国王だ。一国の主として我はこの国の未来を、ひいては国民一人一人の未来の生活すら守る義務がある。どんな手を使ったとしても守らなければならないのだ」


 心臓が突沸したような激情に駆られたグリムだったが、続く王の言葉を聞いて糸で縛り付けられたような感覚を覚えた。


「我は王なり。我が一挙手一投足は王国テミスの未来なり。…………青年一人の未来を犠牲にするだけで王国の未来が守られるなら、我は喜んで犠牲にする」

「…………陛下のご意向はよく理解出来ました」


 グリムは長く深い息を吐いてからそういった。


「無礼は百も承知ですが…………陛下、あなたは鬼畜です」


 ともすれば不敬罪に相当するグリムの発言だが、それを咎める者はどこにもいなかった。


「私の方がそう思っているよ」


 むしろオットーはその言葉を肯定し、受け入れた。グリムはそれ以上何も言うことが出来なかった。


「国王陛下! 騎士団長!!」


 そのとき、勢い良く扉が開き、一人の騎士が息を切らしながら玉座の間に転がり込んだ。


「謎の霊魔が王国へ接近中!! 数分後には外壁まで到達します!!」

「なんだと!?」

「…………やはり来てしまったか……」


 騎士が告げた速報に、オットーは誰にも聞こえない声で呟いた。


「加えてもう一つ! さきほどエルド分隊長から連絡があり、レグルス区ホド教会で────」


 裁きの鉄槌はすぐそこまで迫っている。

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