第6話 湯本博士
実は、これは重要機密事項なのだが、この機密を持っているのは、何と、
「某国の傀儡国家」
である。
あの国は、ナチスの科学者、731部隊の科学者を勧誘することで出来上がった国なので、今でも、各国の、
「埋もれた人材」
をスカウトしてくることが多い。
その中で、当然真っ先に名前が挙がったのは、湯本博士だという。
しかし、彼には、並々ならぬ、
「愛国心」
というものが存在し、それだけに、その気持ちを、傀儡国家が分かっていなかったことで、
「何でこの俺を誘うんだ?」
と、愛国心の塊の湯本博士からすれば、まるで、
「バカにされたかのような気分」
となっても無理もないことだったのだ。
「本当に何を言っているのか?」
という気持ちになるわけだが、それも当たり前のことであり、
「俺の考えを調べるという初歩的なことすらしていないなんて、それで、よく勧誘にきたものだ」
と、湯本博士は、その浅はかさに呆れかえっているといってもいいだろう。
湯本博士は、そんな気持ちもあったことから、
「どうして、彼が、この新省庁に入ったのだろう?」
と思う人は多かった。
なぜなら、
「元々誘いにきたのが、そもそも、ライセンス供与国ではないか?」
ということである。
つまりは、ライセンス供与しようとする国は、自分がバカにしているはずの国なのに、「なぜなんだ?」
ということである、
しかし、よく考えると、取得したライセンスから作った商品を、さらに開発できるとすれば、
「この俺しかいないだろう」
というくらいに、博士は考えているとすれば、それも間違いではないだろう。
さらに、博士には、
「ノーベル賞受賞」
という目標がある。
邪魔されればされるほど燃えてくるのであるが、
「どうせなら、あいつらが開発して、中途半端になっているものを、この俺が、さらに開発を続けてやろうではないか?」
という考えから、
「相手に思い知らせてやる」
という、反骨精神のようなものが芽生えたに違いない。
それを思うと、
「俺はこれから、この社会において、ライバルを、あの傀儡国家にするんだ」
と誓ったといっても過言ではない。
実際にライセンスからできた、
「日本オリジナルの製品」
というのが、今では、幾種類も、
「やはり、日本製はすばらしい」
ということで、まわりからの評価もうなぎのぼりであった。
「もう、某国が横やりを入れてきても、阻止することは難しいだろう」
と思っていた。
さらに、
「わしも年なので、ノーベル賞を受賞すれば引退するかな?」
とさえ思っていたくらいだった。
ただ、気になるのは、自分のノウハウであったり、考え方を引き継いで任せられるような人がいるわけではなかった。
それが気になるところであり、
「俺は一体。このままどうすればいいというのだろうか?」
ということを考えていたのだった。
というのも、
「わしの愛国心というのは、大日本帝国時代の愛国心とは、若干違う。それは時代が今の時代からなんだよ。つまり、愛国心というのは、時代とともに移り変わるものだから、話や考え方を伝授できても、実際に、その本人の愛国心にできるかというと、そういうわけにはいかない。それを考えると、わしは、後進をどのように作ればいいのかということに関しては白紙状態で、いかにどうすればいいのか? ということは、まったく分からないといってもいい」
というのが、博士の考え方だったのだ。
ただ、博士がここまで考えていて、さらに答えが出ないのだから、それだけ、相当困難な問題なのだろう。
それを考えると、
「どこまでが自分の領域なのか分からない」
ということになるのだった。
「だったら、もう後は後進に任せるということの方が無難なのではないか?」
というように考えるようになったのだが、
「それが正解なのかどうか、誰にも分かるはずもない」
ということであるが、そんなことは、いまさら問うことでもない。
要するに、
「一周回って、戻ってきた」
ということになるのだろう。
そんなことを考えていると、
「湯本博士のそばにいつもいる連中が、何を考え、湯本博士から、何を学び取っているのか?」
ということが重要なのではないだろうか?
湯本博士の助手として、最古参なのが、
「小林助手」
だったのだ。
二人は、一心同体と言ってもいいくらいで、実は、
「小林助手が博士を慕っている」
ということよりも、
「博士の方が、小林助手に一目置いている」
という方が、何倍も強いのではないか?
ということを言われているのだった。
小林助手というのは、
「そもそも、捨て子として、施設で育ったのだが、ある日、湯本博士が、慰問を兼ねて施設を訪れた時、目に留まったのが、小林だった」
ということだ。
しかし、実際には、一緒に来た奥さんの方が、一目で小林のことを気に入ったようで、「夫婦ともに、気に入っているということは、運命以外の何物でもない」
ということで、博士は、すぐに養子縁組をしたということであった。
博士も奥さんも、まるで実の子供のように育てた。
だから、湯本博士にとっては、息子同然だった。
しかし、研究所では、そのようなことを顔に出すわけにもいかない。我慢して抑えてきたところがあった。
だが逆に小林としては、家にいることは、何かこっぱずかしいところがあるということで、まるで反抗期のような態度を取り、一人閉じこもっていたが、これは、
「博士に甘えてはいけない」
という思いからであった。
しかし。研究員としては、
「博士の気持ちに寄りそう感じでいけばいいんだ」
ということであった。
だから、研究所では、家での立場とは反対になる。
「俺は博士の一番のファンだ」
と、小林助手は口外する。
博士も、
「まんざらでもない」
という気持ちでいるのだが、嫌な気分があるわけではない。
ということを考えていると、
「博士もある程度の年齢になっているのだから、俺たち助手がしっかりしないといけないんだ」
ということは分かっているつもりだった。
だが、そうは言っても、博士の、科学者としての知識の継承、さらには、
「愛国者」
ということに対しても、
「思想的発想」
などは、そう簡単に受け継がれるものではないといえよう。
そのことは博士も分かっているようで、その気持ちが、どう繋がっていくのかということは、大いに難しい発想ではないかと思えるのだった。
博士は、
「年を重ねるごとに、頑固になっているというわけでもなく、どちらかというと、温和になってきている」
と言ってもいい。
ただ、それまで、何かに頑なだったわけではないので、
「普通の人が、さらに温和になってくるのだから、そんなに、大変なことではないのだろう」
ということであった。
小林助手が、いかに博士をリスペクトしているかということは、実際の研究の時は、余計なことは一切喋らない。
それが、博士と同じ雰囲気を醸しだすことになっているからであったのだ。
そんな小林助手であったが、博士に気を遣ってなのか、博士に何も言わず、密かに研究していることがあった。その研究というのが、
「惚れっぽい」
という薬であった。
湯本博士という人は、話をすれば、物分かりのいい人で、そんなに融通の利かない人には見えないのだが、そのかわりどこか、安心できないところがあった。
要するに、自分の中で、頑ななところがあるといっても過言ではなかったのだ。
というのは、
「勧善懲悪」
なところがあるというところであった。
まるで、
「水戸黄門」
や、
「遠山の金さん」
のようなところである。
しかし、それはあまりにも偏ったなところであり、日本人が好む、
「ちょっと曖昧な、勧善懲悪」
というわけではなかった。
つまりは、
「遊びの部分がない」
と言ってもいいところではないだろうか?
遊びの部分がない」
ということは、
「実際に見えている」
というところも、本当に見えているところなのかどうかも分からない。
要するに、
「石ころのような存在なのかも知れない」
というところであった。
そのことを証明することは難しいのだが、
「勧善懲悪」
という言葉は、誰に証明されるというわけではないのだった。
「石ころ」
というものについて、博士は時々、話をしていたことがあった。
「石ころというものは、そんじょそこらに点在しているという意味で、見られていても、実際にその人の意識として、頭の中に入ってくるというのはありなのだろうか?」
という、一種の、
「不思議なものの象徴」
という意味での発想であった。
そういう意味で、
「石ころのような存在になりたい」
と、博士は常々言っていた。
ある有名マンガ家の作品の中で、いろいろな未来の道具が出てくるものがあったが、その中に、
「石ころのような存在」
になれるアイテムがあったような気がしていた。
「わしは、それを見た時、何か、不思議なものが下りてきたような気がして、その感覚を味わってから、今の自分が分かってきた気がしてきて、おかげで、研究が、爆発的に進むようになったんだ。石ころという発想には、感謝しかないんですよ」
というのだった。
そんなことを考えているということを聴いた、小林助手は、
「俺も探してみるか?」
ということで、鼻背が言っていたマンガを片っ端から読んでみると、
「おお、これか?」
というものがアイテムとして存在していた。
内容としては、
「子供が読むマンガ」
ということで、子供の世界で、
「子供が満足できればいい」
というような内容のものであった。
だから、その内容を見て、
「じゃあ、俺が、博士に、石ころというまじないを掛けて、この俺を、石ころとしてしか見えない状態にしておいて、この俺が、博士の中で見えない存在にすることで、新しい薬品を開発できるようになりたいものだ」
と感じていたのだ。
だが、この発想は、すでに博士が感じていて、
博士の中では、
「こういう発想を、小林君に抱いてほしいんだよ。私がどうしても、彼を息子のように思っているから、彼は、我々から一歩も先に進めないのだとすると、問題は私にあるのだろうな」
ということを感じているようだった。
つまり、この考えは、あくまでも、博士に問題があるわけではなかった。
博士に問題があるわけではなく、逆に新しいものを見つけた子供が、新たなおもちゃを貰えたことで、ワクワクするという状態をつくってくれたのが、博士だったのである。
ただ、今同じ状況に入り込んだのが、小林であり、彼は、そういう意味では、
「やっと博士に近づけた」
ということであった。
「博士の研究に対しては、大いなるリスペクトを抱いていたのだが、それ以上に、俺だっていつでも、博士に追いつけ、追い越せという気持ちにだってなれるんだぞ」
という気持ちになっているということであった。
「博士に近づくには、やはり、追いつけ追い越せという思いがなければ、務まるものではない」
ということであろう。
だが、あまりその思いが強すぎると、今度は、空回りしてしまい
「追いついたつもり」
ということだけになってしまっていることに気付かないことがある。
そういう意味で、
「石ころ」
のようなアイテムがいるのだ。
つまり、
「いくら一生懸命にやっていても、まわりからは意識されない。要するに、オーラというものがまったく発散されることはない」
ということであった。
石ころを身にまとえば、
「見えているのに、誰にも気づかれない」
ということである。
つまりは、透明人間というわけではない。
用明人間には、まったく見えないということだけしか、武器はないのだ。
しかし、石ころは、逆に見えているのだ。
昔、ある天文学者が、
「ある星というものを創造したことがあった」
というのを聴いたことがあった。
「星というものは、元来、自分から光を発するか、あるいは、光っている星を光を反射させ、光っているように見せることで、自らの存在を、他の星に見せているのであろう」
と言われている。
しかし、この星は、自らで光を発するわけではなく、光の反射もしない。それどころか、取りこんでしまうのである。
結局は、その星は、誰にも認知されることなく、、
「見えない、邪悪な星」
として君臨することになる。
何と言っても、そばにいても、その存在も気配も分からないのだ。
気が付けば、その暗黒の星がすぐそばにあって、
「地球にぶつかっても、ぶつかって、自分が死んでしまう瞬間しか分からないのだ」
ということだ。
つまり、何がどうなったのかということを考える時間はないのかも知れない。
「それとも、この世は、それくらいのことを、死に際に考えさせてくれるくらいに慈悲深いものだということになるのだろうか?」
などということを考えてしまう。
「本当に、こんな星ってあるのだろうか?」
と聞くと、
「どちらの確率が高いか?」
というと、
「ほぼ同じくらいなのではないか?
と考えられるだろう。
星というのは、面白いもので、よく、
「○○光年」
などというが、これは、
「光の飛ぶ速度」
について書いているものである。
つまりは、
「今自分たちが見ている星の瞬きというのは、距離を光の速度で割ったその時間の間に飛んできた」
ということになるわけなので、
「100光年」
ということであれば、
「ちょうど、百年前に光った光を今見た」
ということになるわけである。
これが、1000年前ということであれば、時代的には、ちょうど、西暦1000年を少し超えたくらいになるので、時代的には平安末期くらいになるだろうか?
それを考えると、1000年も経っているのであれば、今の光がくるのは、1000年後ということになる。
そう考えると、今その星が、本当に存在しているのかどうかということは、何ら保証がないということだ。
だから逆に、向こうの星が、今、こちらで光っている地球を見ることができるのかどうか、分からない。何といっても、
「地球という星が、1000年後に存在しているのかどうか。分からないからである」
と言えるだろう。
それを思うと、実に不思議なものであるが、さらに、ここでややこしい考えを入れるとすれば、アインシュタインで有名な。、
「相対性理論」
ということの、
「速度と時間の関係」
ということに関わってくるのではないだろうか?
「浦島伝説」
であったり、昔、アメリカ映画であった話などが、問題になってくるのだが、
「速度が速い物体に乗っかってしまうと、時間の進みが遅くなる」
というのが、相対性理論の考え方であった。
つまり、宇宙ロケットなどで、宇宙に、光速で飛び出して、どこかを一周して回ってくるとすれば、普通で考えれば、例えば、3年くらいで戻ってきたとして、これを相対性理論の計算でいけば、数百年経過したという計算になるというわけだ。
だから、浦島太郎も、数日間竜宮城に行っていただけなのに、戻ってくれば、数百年g経っていたという理屈である。
さすがにちょっと大げさな計算ではあるが、いくら何でも、アインシュタインのような計算ができるわけではないので、理屈だけ踏襲し、時間は曖昧ということなのであろうか?
そんなことを考えていると、
ただ、実際に、
「宇宙は無限ではない」
という考え方があり、さらには、
「宇宙は一つではない」
という発展形がある。
さらに、
「宇宙は、数億個あるのだ」
ということが言われていて、それを、
「マルチバース理論だ」
ということになるようだ。
「一つの宇宙がそれぞれの節目で爆発して、たくさんに別れてしまった」
ということになるのではないかという考え方もあるようで、面白いのではないかと考えられるのだった。
宇宙理論というのもいろいろあって、どう考えればいいのかということを思うと、生物の世界というのは、意外と狭いものだといえるのではないだろうか?
湯本博士は、そんな壮大な研究も頭に描いていたが、最近は、ライセンス契約を結んだ薬品の研究を、別角度から見るようになった。
「惚れっぽい薬」
という副作用を発見したのも、実は湯本博士だった。
それを研究員に話をすると、
「研究を集中させて、早く商品化に結びつけるようにした方がいいのではないか?」
ということをいう人が多かった。
確かに、湯本博士の考え方も、
「研究を迅速に」
ということには賛成だった。
確かに、研究を迅速にすれば、賞品かということも早くなるだろう。
しかし、博士の目論見はそこにあるのではなかった。
「研究を迅速に進めながら、さらなる副作用の発見が大切だ」
ということである。
そもそも、これは薬の副作用の産物なので、さらなる副作用を気にしなくてもいいというのは、一つの考え方だが、果たしてそうなのか? 湯本博士は、それが気になるのだ。
副作用には二つの意味が存在し、今回のように、
「副作用を持って、さらに、利用できるものを発見する」
という考え方と、さらには、
「副作用が、人間に害を与えないものかどうかの見極めである」
ということだ。
それが、臨床試験に繋がったり、さらには、医学部門でのさらなる研究に繋がらないとも限らないからである。
医学界において、一番の関心事ということは何であろうか?
湯本博士とすれば、
「世の中にたくさん存在する、難病と言われるものを、少しでもなくす」
ということが一番最初に思いつく。
その中で博士自身が注目していることとして考えられるのが、
「副作用」
であった。
普通、
「副作用」
と呼ばれるものは、結構厄介だったりすることが多かったりする。
本当は、病気を治すという目的で開発されたものだが、その強さ、さらには、人間の中にある抗体とどうしても反応うするので、過敏な反応をしてしまい、想像を超える反応を起こす人もいるだろう。
特に、重い病の治療薬としての、
「抗がん剤」
を服用しなければいけない人などは、その副作用の強さで、身体に多大なる影響を与えることがあると言われ、
それを使う使わないということが、患者に強くのしかかってきたりして、実に大変だということを医者も分かっているので、本当にやり切れない気持ちになるのではないだろうか?
だが、今回の博士の発想は、
「副作用の副作用」
というよりも、この副作用のせいで、
「世の中が変格していかないかどうか?」
ということの方が気になっているといってもよかった。
というのも、この、
「惚れっぽさ」
というのを、
「精力増強剤」
という形での製品化が一番多い生産としてしまったのだ。
一番の理由は、前述の、
「少子高齢化」
という問題が、世の中では、切羽詰まった状態に来ているということ、
そして、この薬が、
「大量生産するには、一番都合がいい」
ということだったことである。
精力剤として利用すると、実際に、
「少子高齢化」
を防ぐに違いないという淡い期待があったのも事実だった。
そして、ほとんどの人が、
「これで問題は減ってくる」
と思ったのだろうが、それこそ、
「過ぎたるア及ばざるがごとし」
ということもあるのだと、実感している人も多いだろう。
それこそ、こちらの方が、一種の、
「副作用」
のようなものだといっても過言ではないだろうか?
要するに、この製品は、
「爆発的に売れた」
ということであった。
そのせいで、中毒化する人が増えていった。
そのおかげで、精力絶倫という人も増えてきたのだ。
そもそも、今の時代は、
「草食系男子」
と呼ばれる人が多く、
「セックスばかりして、何が楽しいのか?」
と思っている人が多いというのか、そもそも、
「女体に興味がない」
ということであり、
「人間の三大欲である、性欲が、著しく低下している状態が、世の中に蔓延っている」
ということだろう。
今までであれば、性欲が強い人のせいで、
「性犯罪」
であったり、
「変質者」
というものが多かったりした。
今も、そこまで減ったとは言えない。
確かに、今の性犯罪や、変質者の犯罪の原因のすべてが、
「性欲」
というものに関係しているというわけではない。
むしろ、性癖というものに問題があるのであって、
「性欲と性癖というものが、本当に関係あるのだろうか?」
ということが考えられるのであった。
性癖というのは、基本的に、こういう問題を考える時には、その上に、
「異常」
という言葉がつく。
「異常性癖」
つまりは、今であれば、ストーカーであったり、盗撮などの、
「本当に正欲を解消するための行為なのだろうか?」
というものであった。
実際に相手をリアルに傷つけるというよりも、性癖によって、
「いかに自己満足に浸れるか?」
ということであり、
「相手がどう感じるか?」
ということよりも、
「自己満足を追求したい」
ということになるのだろう。
自己満足というものは、本当に、自己満足で終わっていれば、それで問題ないのかも知れない。
しかし、それだけで終わらないから問題なのだ。
それが、ストーカーにつながったり、盗撮につながったり、盗聴なども、そうだろう。
どれも、昔からある犯罪ではない。
そもそも、
「ここでいう昔というのが、どこからをいうのか?」
という範囲を難しい。
「一昔と言われる10年よりも前を昔というのであれば、ほとんどのことが、昔だということになるのだろう」
と考えられる。
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