第5話 薬の服用
そもそも、少子高齢化が進むことが問題であり、そのために、
「老人が増えて、その老人を養うための子供世代が少ない」
ということが問題なのである。
ひょっとすると、考えすぎかもしれないが、老人ホームにて、入所者を虐待している人の、
「自分勝手な正当性」
というものが存在するのだとすれば、
「老人が増えるから、俺たちの支える負担が増えるんだ。だから、こうやって老人をいたぶるのも、無理もないことなんだ」
ということであれば、正しいわけのない理屈であり、そもそも、老人をいたぶったところで、状況が変わるわけではない。
「老人が減って、若者が増えるわけではない」
ということだ。
若者からすれば、
「俺たちと同じように働ければ、それでいい」
と思っているかも知れない。
さすがに、老人ホームで働いている人は、そこまで感じるわけはないのだろうが、考えてみれば、
「そんな老人たちを、なぜ俺たちが助けなければいけないんだ?」
と考えたとすれば、そこに、自分の中で矛盾が生じ、どうすることもできない苛立ちが生まれたとすれば、虐待に走ったという気持ちも分からなくもない。
かといって、自分の仕事、立場だからできることであって、それこそ、考え方が本末転倒であり、
「決して許してはいけないことだ」
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「俺にとって、老人を苛めることが、自分を精神的に病ませていることを証明しているのと同じではないか?」
と考えないのだろうか?
と思えるのだった。
考えてみれば、
「自分だって、放っておけば老人になるんだ」
ということである。
その時に、自分のこの行為が、まるで公然のようになり、
「世間に知られなければそれでいいんだ」
ということになったらどうだろう?
しかも、実は、
「あいつが始めたんだ」
などということがバレてしまうと、
「何をされるか分からない」
という恐怖がまとわりついたまま、死んでいくというシナリオが見えてくるのを感じることはないのだろうか?
今のように、バレてしまい、社会的にも公表されてしまうと、
「犯罪者の烙印を押される」
というだけではなく、その罪状が、
「老人への虐待行為」
である。
自分が老人になった時、報復を受けないとも限らないだろう、
なぜかというと、
「今の段階でも、老人介護という職業を、自分の手で、ひどいものだということで、他の善良な人をも巻き込んでしまったことで、どれだけの人間の人生を狂わせてしまうのではないか?」
ということになるのである。
それを考えると、
「因果応報」
という言葉があるが、最強に強烈なブーメランが戻ってくることになるのではないだろうか?
さらに、保育園での、いくら不可抗力かも知れないが、だからと言って許されるものではない。
何と言っても、
「子供が死んでいるのだ」
それを、不可抗力だったと言って許してしまうと、民主国家としては、あり得ないことになってしまう。
さらに、問題は、
「不可抗力というのであれば、いかにすれば起きないようにするか?」
ということであり、そのあたりを、行政指導を行っている最中に、またしても、同じような事件が起こってしまったのだ。
不可抗力なので、連鎖というのはあるのかも知れないが、それならそれで、逆に、
「不可抗力でも、重い罪」
ということにして、今回の事件を引き起こした人を、
「最初の見せしめということにしてしまい、重い罪によって、まわりを諫める」
ということでもしないと、また繰り返されることになる。
「見せしめは可愛そう」
というやつもいるかも知れないが、
「いやいや、今度からこれが普通になるのだから、それだけの罪を犯したということでキチンと処罰しないと、今回のように、繰り返させることになるんだ」
ということになるのだろう。
ただ、だからと言って、本当に罪が重くなったのかどうかというのは分からないが、今回の場合は、
「業務上過失」
などという生易しいものではなく、
「殺人罪」
として、
「厳正に」
かつ、
「公平に」
という裁定を子出さなければいけないのだろう。
そういう意味で、今回の事件は、
「連鎖を引き起こした」
という意味でも、厳正な処罰というのが、当然のこととなるだろう。
特に最近では、あおり運転などによる加害者の処罰であったり、飲酒などの処罰などは、今までにないくらいの厳正な処罰になっている。
そういう意味では、道交法だけではなく、刑法関係においても、いくら、
「過失に近い」
とは言っても、社会的反響の大きな事件は、それなりに処罰をしないと、世間からも苦情が出てくるのも当たり前のことであろう。
さらには、
「刑法犯などにおいて、言われることとして、厳罰に処すことを望む」
ということである。
特に、問題は、
「日本の法律は、被害者に対しての救済であったり、加害者家族などへのフォローなどが、最低なのではないか?」
ということを聴いたことがあった、
それは、
「中途半端だ」
ということを言いたいのではないかと思えるのだった。
そういう意味でも、
「厳罰に処さなければいけないところは、見せしめという意味も込めて、甘くしてはいけないのではないか?」
ということである。
だから、
「犯罪はなくならない」
ということなのかも知れないし、処罰を厳しくして犯罪がなくなるのであれば、これ以上、処罰をする人が増え続けないということのメリットを考えても、それが正解なのではないかと思うのだ。
それが、犯罪をいかに考えるかということになるのだろう。
そんな時代背景においてだったが、元々、この薬が開発されたのは、
「某国の傀儡国家」
によってつくられたわけだから、その国家には日本とは、事情において、関係のないところであった。
だから、
「惚れっぽい」
などという副作用もまったく意識をしていなかったのだ。
元々は、
「精神安定剤」
のようなものであり、副作用があるとすれば、
「睡眠促進の激しさ」
ということだったのだ。
だから、それを知らなかったのは、元々開発した、傀儡国家だったのだ。
彼らは、某国による注文で、この薬を製造し、そして、
「某国の儲け」
となるために、日本にこの薬を売りつけた。
さらに、某国からの圧力があり、某国との契約として、
「ライセンス契約」
結ばされ、多大な費用を国家予算から捻出され、払うことになる。
そもそも、
「薬品開発」
あるいは、
「ライセンス契約」
に特化した新しい省庁を作ったというのも、このライセンス契約を行うだけの予算が、厚生労働省の予算だけでは賄えないことが一番の理由だったのだ。
だから、新しい省庁には、ライセンス契約を結ぶことになる、いろいろなもの、
「医薬品」
を始めとして、
「兵器」
に至るまで、一手に引き受けることになるのだった。
そのため、ライセンス契約をした国の技術を習得しなければいけない。
「ライセンス契約のほとんどは、某国であり、某国の属国である傀儡国家に、日本から技師や博士、そして、開発責任者を派遣し、ガチで、製作に関してのノウハウを学んでくることになる」
というわけだ。
それだけ精巧なものを作らないと、国家予算の無駄遣いだとばかりに、国家も大変なことになってしまう。
ライセンス契約のノウハウは、想像以上に教えてくれた。
「さすが、ライセンス契約の高い金を払っているというものだ」
というのが、政府の考えだったが、新省庁とすれば、少し考え方が違っていた。
「ライセンス契約を結んで、技術を余すことなく教えてもらっているのだから、そこから先は何があっても、ライセンスを取得している国も問題で、元々を開発した国にとって、何ら問題が発生するわけではない」
ということである。
それを考えると、
「なるほど、緊張感がみなぎるというものだ」
というポジティブな考え方もあるが、それ以上に、
「完全に、責任を押し付けられることになるので、ただの緊張感では済まないというものだ」
というネガティブな考えにもなることだろう。
そういう意味で、兵器はもちろん、医薬品などは、本当に開発が難しい。
特に医薬品は、副作用などの問題がある。だから、問題が大きくなるのだった。
それを思うと、
「薬品の効果というのは、想像していないものだったりして、それが、毒にもなったりすると、こんなに厄介なことはない」
薬害訴訟などということも頭にいれなければならない。その時に、
「これはライセンス契約だから、元は自分たちで作ったのではない」
と言っても、通用するわけはない。
「それだけに、わが国でも、設計書通りに作ったとして、それがキチンと機能するかどうかの臨床実験くらいは、やっていてしかるべきだ」
と言われるに決まっている。
しかし、その臨床実験についても、提供国が、そのノウハウを教えてくれるわけではなかった。
「これは、我々が、開発工程の中で、試行錯誤を繰り返して作り上げたノウハウなので、簡単に教えるわけにはいかない」
ということだったのだ。
それはそうだろう。
科学者や研究者の端くれと呼ばれる人は、それくらいのことは当然に分かっている。
「ライセンス契約において、開発技術の伝授は、当然のごとく必須である」
ということは書かれている。
そんな当たり前のことを、いまさらながらに、考える必要などないのだろうが、
「ライセンス契約というのは、想像以上にややこしい」
ということを、開発国も、供与国も分かっているといってもいいだろう。
分かっていないのは、政府の連中であり、某国の方でも、開発国から、同じことを思われていて、供与される新省庁の方は、
「そんなことは最初から分かっている」
とばかりに、政府高官に対して、イライラが募っていることだろう。
「元々、俺たちだって、政府の中にいたんだからな」
という。
彼らは今でも、政府の中ではあるのだが、他の省庁と違って、
「その独立性はハンパない」
と言っても過言ではないだろう。
つまりは、
「彼らは、政府の中にあって、一番民間に近い」
と言ってもいい。
もちろん、公務員であり、税金で生活はしているが、その金が、普通の基本給でしかなく、実績を上げないと、給料は上がることはない。
それだけ、
「ライセンス料」
というものは高く、給料が安いくせに、気を遣わなければいけないところが多いので、そういう意味でも、
「わりに合わない仕事だ」
ということになる。
だから、この部署は、
「政府の中でも、島流しに合う場所で、窓際部署と言ってもいいのではないか?」
というウワサが飛び交っている。
つまり、
「政府は、そういう連中を押し込めるために、この部署を作った」
というウワサが流れるまでになっていた。
そのウワサは、
「半分ウソで、半分本当だ」
確かに、窓際族候補の人が、この部署に転属させられているのも事実であるが、それでも、実際は、
「この人がほしい」
と人事が政府に要請し、転属になった人だ、
政府とすれば、
「うまい厄介払いができた」
と思ってるのだろうが、この部署は、これまでにない部署で、ある意味、マンネリ化などはしていない。
窓際になるのは、毎日同じような仕事、しかも、かつての大昔から続いていて、まったく変わったことのない実に詰まらない仕事をしてきた人には、
「新しい風」
というものを吹き込んでくれるこの部署は、まるで、
「水を得た魚だ」
と言ってもいいだろう。
「我が国に限らず、政府というのは、大なり小なり、理不尽なことを抱えていて、矛盾に悩まされるものだが、わが国の場合は、さらにひどい。なぜなら、平和憲法に守られて、平和ボケをしているからではないだろうか? 平和憲法が悪いわけではないが、有事の際に動けないという状態に陥った時、どうすればいいかが問題なのだ」
ということであった。
平和憲法の存在のせいで、日本国では、
「有事というのはあり得ない」
ということになっている。
しかし実際に、世界情勢を鑑みれば、そんなことがあるはずはないのだ。
つまりはである、一番分かりやすいのは、
「朝鮮戦争」
における、
「韓国軍」
というものを考えれば、
「どれほどの亡国がお花畑だったのか?」
ということが分かるはずである。
というのも、
「朝鮮戦争」
というものは、そもそもが、
「朝鮮半島というものを、北はソ連の社会主義勢力。南は某国を中心とした民主主義勢力による、分割統治ということになったのが、間違いの元だったのだ」
南を管轄する某国は、進駐というものを、日本を中心として考え、
「朝鮮半島は二の次」
だったのだ。
だから、朝鮮半島の分割統治を甘く考え、
「統一をそれぞれに模索しているのだろうが、いきなり有事になるということはないだろう」
というのだ。
何と言っても隣の中国は、内膳が終わり、やっと、
「中華人民共和国」
という社会主義政権が生まれたのだ。
さらに、ソ連の方では、こちらも、多国籍による、
「ドイツの分割統治」
が行われていて、ソ連を中心とする、連邦勢力の強さは、朝鮮半島の比ではなかったのだ。
しかも、ドイツでは露骨な対策の応酬で、最後には、悪夢のような、
「ベルリンの壁」
というものができることになったのだ。
だから、ソ連は、そっちに集中していて、朝鮮半島で事を起こすということはやらないだろう。
下手に事を起こして、
「全面戦争」
などということになれば、まだ、核開発もできていないソ連は、圧倒的に不利であったのだ。
だから、
「北朝鮮が、南下してくることはない」
とタカをくくり、韓国軍に対して、武器弾薬は、ないに等しかった。
何と言っても、武器というと、旧日本軍が逃走の際に捨てていったものであり。旧式のものであった。
さらに、戦闘機に至っては、一機もなかったのだ。
存在するとすれば、練習機程度で、とても、戦争に使えるようなものではなかったのだ。
それなのに、武器弾薬は、ソ連や中国から受けていて、さらに軍事訓練は、
「人民解放軍」
という、中国軍の精鋭部隊に、守ってもらっているのだった。
中国軍も、ソ連軍も目立った行動はとらないが、密かに北朝鮮を支援していた。
弾薬や、訓練の補助など、秘密裡に行われていたこともあって、日本にいて、朝鮮半島事情を肌で感じているわけでもない某国の進駐軍に、そのあたりのことが分かるはずなどないのであった。
だが、実際には、水面下で、
「朝鮮戦争」
の火ぶたは切って落とされていた。
北朝鮮は、最新鋭の武器で、統率の取れた
「軍隊」
として侵攻してくる。
韓国軍は、なすすべもなく逃げるだけだった。
しかも、その時の韓国軍のひどさと言えばない。
確かに、兵士だと言っても、死ぬのは怖いわけで仕方のないところもあるのかも知れないが、ソウルが陥落した時など、まだ市内に避難民が溢れているのに、軍が命令にしたがって、郊外に逃げると、何と、橋を破壊し始めたのだ。
つまりは、自分たちが逃げ切ったから、相手が攻めてこないように、橋を壊したというわけだ。
要するに、
「軍隊というのは、国民を守るためにあるのに、自分たちが助かりたい一心で、国民を見捨てるなど、言語道断」
と言えるだろうが、
しかし、そもそも、武器弾薬を与えられ、戦闘態勢が取れているのであれば、それで戦うのみだが、
「今はそんなことを言っていられない」
ということなのだろうが、
「某国の進駐軍が甘く見ていたことが、間違いで、戦える状態ではないのに、このままなら、全滅するだけだ」
と言いたいのだろう。
しかし、これは、韓国軍にだけ言えることではなく、中国軍もそうだ。
相手に攻めこまれているとして、敗走している軍、つまりは、自国領内でのことである。そんな軍隊は、民家などで、軍のための食料を与えてくれたりするのだが、その村を離れる時、何と、兵はその村を焼き討ちにしてしまうという。
なぜなのかというと、
「追ってくる敵に、このままでは、略奪虐殺を受けて、相手に武器や弾薬を与えることになるのであれば、最初から我々の手で、その村を葬る」
というのが、当たり前の戦略ということになっているのだった。
こんなことが、公然と行われているような、一種の、
「野蛮な国」
ということになるのだが、
日本でも、戦国時代というのは、あったかも知れないが、常習的だったということは、歴史書のどこを見ても乗っていない
「都合の悪いことだから」
という理屈も分からなくもないが、それよりも、
「これだけの書物が残っていて、どこにも書かれていないということは、後世に作られたことなのか、それとも、本当はひどいことがあるが、書き残さないという、暗黙の了解のようなものがあったのかも知れない」
ということであった。
「俺たちの手で、葬り去る」
というのは、
「戦争においてはあり得ることなのかも知れない」
ということであるが、結構、軍と民衆の関係で、
「軍が、民衆を盾にした」
などと言われていることが多いが、実際には、そんなことはないようだ。
というのも、実際にそういう話もないわけではないが、ごくまれな話だということであった。
特に、一番の悪影響としてあったのは、
「戦陣訓」
と呼ばれるもので、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉の解釈からか、
「捕虜になるくらいなら、死を選ぶ」
ということである。
だから、終戦前の日本国内の、軍需工場などでは、
「死を選べるように、青酸カリが配られた」
ということだったのだ。
だから、民衆を巻き込んだ戦争などでは、本来なら、
「最後の一兵になっても戦う」
と言っているが、
「もうダメだ」
ということが分かった時、
「玉砕」
というのが頭をよぎるのだ。
これは、あくまでも、兵は、相手と正面から突っ込んで戦うということだが、民間人は、武器を持っていないのだから、ただ、相手に向かって、ただ行進していくだけだ。
きっと、
「海ゆかば」
を謳いながらの更新だったのかも知れない。
敵の弾薬の集中砲火を浴び、次々に鈍い悲鳴をあげて、倒れていく。これこそ、
「地獄絵図」
だったに違いない。
これを、ただ、
「ひどい」
といって片付けていいのだろうか?
当時の大日本帝国というのは、今の日本国と違い、
「立憲君主国家」
だったのだ。
「憲法の定める中において、主権者である天皇の臣民たる日本人」
ということである。
この臣民というのはどういうことなのかというと、
「平時は、憲法に定められ、種々の法律に守られる人権を普通に使えるのだが、これが有事となると、権利が著しく制限される」
というものだ。
ここでの有事というのは、戦争だけではない、災害であったり、秩序回復という意味での、
「危険思想団体」
などから国民を守るという意味での有事というのもある。
だから、これらの有事になって、市や自治体の機能がマヒすれば、そこで、緊急事態だということで、その都市に、
「戒厳令」
というものを敷き、
「戒厳司令官」
という人の命令が、秩序になるのだが、
「それらの命令はある意味絶対で、それも、さらなる二次災害。三次災害を招かないという意味で重要なことなのだ」
ということになる。
そういう意味では、戦争に敗北し、占領軍によって、統治という観点でも、、
「民主主義を急速に根付かせる必要がある」
という観点からも、
「日本という国は、それだけ、軍国主義に傾倒していた」
ということになるのだろう。
しかも、その問題の一番だったのが、
「立憲によって、君臨する、天皇というものの存在が大きかった」
ということである。
教育としては
「日本の天皇は世界一の万世一系の家柄で、日本は、天皇の力によって、世界に君臨できている。その証拠に、日本が危ない時は、神風が吹いて、きっと勝利に導いてくれる」
という考えと、何といっても、明治以降の対外戦争で不敗を誇る軍で、
「あのロシアにも勝ったではないか」
という、大いなる伝説が、紛れもない事実として君臨しているのであった。
「日本の天皇」
というものは、それだけ力強いものだ」
といってもいい。
明治天皇は、結構発言力もあったが、昭和天皇は、検挙だった。。
特に、
「満州某重大事件」
と呼ばれた、
「張作霖爆殺事件」
において、当時の首相であった、田中儀一の発言に一貫性がなく、それを糾弾したことで、内閣が責任をとって、即日解散したということがあり、天皇は、
「自分の発言が、政治を動かした」
ということで、猛烈に反省したのだ。
天皇は統帥権から、
「軍に口出しはできるが、政府に対しては、口出しをしてはいけない」
という暗黙の了解があったのだ。
「ライセンス契約」
をしたその薬を、日本で作って、コピー商品として、運用を始めたが、実は、新省庁には、
「開発チーム」
という、一種の少し曖昧なチームがあった。
そこでは、新たに、
「新型となる、国産としての開発」
という使命があったのだ。
というのは、
「ライセンス契約」
の中には、
「開発の際は、ライセンス規約に従って作る」
とあるが、
「開発した薬を、供与を受けた国が、独自に研究してはいけない」
という規約はない。
そもそも、ライセンスであろうが、作った薬は、オリジナルとして、公式には売られることになるので、いくら国家間のライセンス契約とはいえ、その自由を束縛することはできないのだ。
それが、
「ライセンス契約における限界だ」
と言っても過言ではないかも知れない。
そんなことを考えていると。
「我が国における開発技術を、某国は、甘く見ているな」
と、ほくそえんでいる博士がいた。
彼は、毎年のように、ノーベル物理学賞候補になるのだが、どうも、どこかの国の圧力で、受賞にはいたっていない。
それを、
「某国の仕業だ」
ということで、彼は、自分の開発に意欲を燃やしながら、
「いずれ復讐してやる」
とばかりに、静かに燃えていたのだ。
彼の名前は、
「湯本博士」
という。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます