第4話 少子高齢化問題
惚れっぽいという薬という言い方をすれば聞こえはいいが、早い話が、
「精力増強剤」
と言ってもいい。
普通に精力増強剤というのは、市販として、普通に薬局に売っているが、それは、ほとんどの場合、
「セックスをするその場で効いていればいい」
というようなものである。
なるほど、確かに、
「セックスする時だけ効いていればいい」
というのは当たり前だ。
それ以外の時も、悶々としていると、他のことが手につかなくなったりするではないか。それを思うと、精力増強剤というものの効き目は、実に、
「理に適っている」
と言っても過言ではないだろう。
それを考えると、惚れっぽい薬というのが、普通の勢力増強剤とは違うような気がしてくるのだった。
それを、研究員に聞いてみると、
「これは、セックスに特化しているわけじゃなくて、自分が気になる女性がいると、その人を本当に好きになった気になるんですよ。これは相手が男性である場合の女性に言えることですね?」
というので、
「じゃあ、同性同士の場合は?」
と聞かれたので、
「それは別です。あくまでも、この問題は、子供が生まれるということを大前提にして考えていることですね」
というのであった。
「じゃあ、これは社会問題としてある。少子高齢化に対しての問題解決の一環ということですか?」
と言われたので、
「ええ、ただこの問題はここだけではないですからね。というのも、この問題は、、あくまでも、精力増強というだけで、子供が生まれてからの問題とは、まったく関係のないところですからね」
ということであった。
「そうですよね。今の少子高齢化というのは、そこが問題ですよね? 子供を産んでも、育てていくだけの環境が整っていない。待機児童などの問題も、結構大変だったりしますよね?」
というと、
「そうですよ、そして、最近であれば、子供預かる保育園なども、ありえないような事件を起こしたりするじゃないですか。しかも、その信じられないような事件が起きてから1年もしないうちに、他で起きるとかですね。普通なら気を付けようと思うはずなのにですね」
「それはそうですよ。それは、幼稚園バスに気付かず放置され、脱水状態で児童が死んでしまったという事件ですよね?」
「ええ、そうです」
幼稚園バスというのは、基本的に、幼稚園が、子供の送り迎えに使っているマイクロバスで、運転手と、もう一人先生が同乗しているものなので、普通なら見逃すはずはない。
いつもバスに乗る児童は決まっているはずだ。
どんなに多くても、数十人がいいところだろう。いくら何でも毎日見ていれば、生徒の一人の姿が見えなかったとしても、それが誰なのかということもすぐに分かるはずである。
だから、事故が起きる時というのは、ほとんどの場合、
「いつも乗っている先生が、たまたまその日お休みで、園長先生がバスの運転をして、もう一人の不慣れな先生が子供たちを見ている」
という時などに、起きることだったりするのだ。
そんな状態において、たまたま児童の一人が、椅子の影で見えなかったりすっると、バスに一人残っていても、最後のチェックを適当にしてしまって、扉を閉めてしまうこともあるだろう。
そうなると、取り残された児童の運命は、風前の灯ということになるのであろう、
そして、案の定、子供がいないことに気付き、バスを見に行くと、ぐったりとなっているということは、よくニュースなどであるというものだ。
記者会見なども、まるでデジャブを見ているように、同じ言い訳なので、本当に、
「再現ビデオを見ているようだ」
ということである。
内容としては、
「いつもの人が非番だったので、不慣れなものが、やったため、注意を怠ってしまった」
という言い訳に従事するのだ。
確かに、
「同じ人が、同じ失敗を繰り返せばアウトだろうが、この場合は、違うところだからアウトではない」
と言えるだろうか?
いや、そんなことはない。
同じ職業の人が、子供を死なせるという重大事故を犯しているのだから、当然、自分たちもそれを踏まえて、注意徹底するのが当たり前なのに、そして、県からも、
「子供の閉じ込めに関しては、十分に注意してください」
という注意喚起だってあるのが当たり前のことである。
それなのに、なぜか、同じことが起こるのだ。
注意喚起がなくても、今ままで起こることがなかったのに、注意喚起をしていて、
「そのつもりで対応していた」
という人に限って、やってしまうということが起きるのだ。
それこそ、何と言っていいのか、そう、
「連鎖反応だ」
ということだろう。
注意しているがゆえに忘れてしまうということもあるだろう、
中には、
「マニュアル化して、情報共有をしなければならないのに、それを怠った」
という人もいるだろう。
ただ、果たしてそれだけのことだろうか?
「下手にマニュアル化するから、それをちゃんと意識していると思い込み、意識しているだけで、本当の注意を怠るということだってないとはいえない」
もっとも、そういう人間ほど、
「マニュアルというものがあってもなくても、同じことだ」
と言えるのではないだろうか?
なぜなら、マニュアルが注意喚起につながらないからだ。
マニュアルがあるがゆえに、
「これを確認していれば、大丈夫だ」
ということで、実践に結び付けなければ意味がないということを忘れてしまっているのだろう。
さらに、人によっては、
「事故というのは、連鎖するものである」
と思い込んでいる人もいるだろう
例えば、交通事故などは、よく連鎖すると言われる。
「重大な鉄道時期であったり、航空機事故など、結構連鎖阿で起こったりする」
と言われる。
かなり昔のことだが、
「ホテル火災の事故が前日にあり、その遺族やけが人の家族が、火災現場や、家族に会いに行くということで搭乗した飛行機が、事故を起こす」
という、とんでもない大惨事になってしまったりしたことがあったのだ。
同じような事故でなくとも、こうやって人が関わってくるという意味での、連鎖があったりするものであった。
だから、人によっては、
「ビル火災で娘を亡くし、翌日の飛行機事故で、夫を亡くした」
という悲惨な人だっていたに違いない。
そんな奇妙な伝染と言えばいいのか、連鎖反応が起こることは、一種の、
「あるある」
ということで片付けてもいいだろうが。
実際に、最近は、幼稚園に預けて仕事に言ったとしても、安心して預けられないということは往々にしてあるののだ。
「高い金を取っている」
といっても当てになるものではない。
「事故というのは、いつ何時起こるのか分からない」
と言っても過言ではないだろう。
それを考えると、
「ただの連鎖反応」
と言って片付けていいのだろうか?
もし、事故が起こるには、それなりの何か。
例えば、自殺などであれば、死にたくなるようなシチュエーションであったり、事故にしても、注意散漫となる時間的なものがあるなどということも考えられる。
もし、そうであれば、いくら注意しても、防ぐことはできないといえるだろう。
つまりは、
「注意することで、余計に一つのことに集中し、他のことがおろそかにあるという人もいる」
と言えるのではないだろうか。
つまりは、
「最後部の座席だけを気にして、実際には、その手前の座席にいたとして、そのことに気付かなかったり、見ていたとしても、、注意力が散漫になっていれば、見えているはずのものを、そこにいると意識することもないというような、そんな状態であれば、気付かないことがあっても不思議ではない」
ともいえるだろう。
だが、これは、
「あってはいけないこと」
人によって意識が違うのだから、マニュアルだけで防げるものではないだろう。
もし防げるのであれば、
「連鎖で起こるはずがない」
ということだ。
そんな状態を、一体どう考えればいいのか。
ある意味、これは、連鎖が負になる、
「負のスパイラル」
なのかも知れない。
「少子高齢化問題」
というものを考えた時、この幼稚園バスの事故問題まで考えなければいけないだろう。
そもそも、今の時代は、昔と違って、母親が専業主婦ということはほとんどない。
昔であれば、子供が学校から帰ってきて、家に誰もいないなどということはなかっただろう。
母親が、
「おかえり、おやつ、テーブルの上に置いてあるわよ」
などという平和な受け答えが懐かしい・
子供が、おやつを食べると、すぐに野球道具を持ちだして家を出ようとすると、
「あんた宿題やったの?」
と言われて、
「いっけねえ、やってない」
とばかりに、部屋に戻って、おとなしく宿題をするか、
「帰ってきてからやる」
と言って、実際にやるやらない別にして、目の前の遊びをとにかく優先させるということものいるのだ。
まあ、大体、このまま宿題もせずに、遊びに出る人は、宿題などしないだろう。
ほとんどの場合、遊びに出かけて、終われば、身体のダルさは、尋常ではない。
気力も失せるほどに衰弱しているはずで、
「特に子供というのは、加減を知らない」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、
「手加減して遊ぶくらいだったら、最初に宿題が終ってから、遊びに出る方を選ぶだろうからな」
ということである。
だから、子供が宿題をしないのは、
「本当に宿題が出たことを忘れてしまっているか?」
あるいは、遊びに夢中で、宿題のことを覚えていても、
「自分で動くということができない人なのか?」
ということである。
宿題というものは、確かに、
「やれると思った時にやらないとできないものだ」
と言ってもいいだろう。
「好きなものから先に食べる方なのか?」
あるいは、
「好きなものを後回しにする方なのか?」
ということでも変わってくるだろう。
好きなものを先に食べてしまうと、どういうことになるかというと、
「ある程度お腹が太ってしまってから、好きでもないものを食べることになるので、食いたくなくなる」
ということになるだろう。
逆に、好きなものを後回しにすると、
「好きでもないものであっても、空腹時なら食えなくもない」
ということで、結局すべてを食べ終われるということだ。
つまり、先に遊びに行ってしまうと、たのしかったことでお腹がいっぱいになり、嫌なことをする気力も体力もなくなっているということである。
これが、逆だと最初から、嫌いなことをやるわけなので、好きなことを、腹いっぱい食べれないかも知れないが、少なくとも、宿題を気にすることなく、楽しめるという意味で悪いことだとはいえないだろう。
そうなっていると、
「一体どっちがいいんだ?」
ということを考えると、やはり後半の無難さが一番いいと思えるのではないだろうか?
そういう意味で、
「どっちがいいのか?」
というよりも、結果としては、
「すべてを合わせれば、1になる」
という発想で、片方を満足させると、片方はやらないということになる、
「どちらもやろうと思うと、結果、どっちも中途半端になってしまう。それくらいなら、たのしいことだけをすればいいんだ」
という考え方と、
「嫌なことでも終わらせておけば、安心して遊びに打ち込めるという意味も安心感があるだけで、満足に近づくのではないか?」
ということを考えられるような気がするのだった。
それが、母親が家にいるという場合の、子供の行動パターンであるが、今は、母親が家にいるわけではない。保育園であれば、子供をある程度の時間まで預かってくれるということもあるが、他ではそうもいかない。
このあたりの問題もある。
何よりも、もっと大きな問題としては、
「子供を預けたいと思っている親よりも、保育園の数が圧倒的に少ない」
ということだ。
特に、
「不認可」
と呼ばれる、いわゆる
「もぐり」
と言われるような保育園などでは、確かに募集を掛けているかも知れないが、一歩間違えれば、
「幼稚園バス置き去り死亡事件」
というようなことになりかねないと思うと、ここでの妥協は、一生の不覚となってしまい、人生に大きな悔いを残したまま、永遠に消えない苦しみを背負っていくことになるかも知れないのだ。
そんなことを考えていると、ふと考えることがある。
というのは、
「もっと単純に考えればいいのではないか?」
ということである。
というのは、
「そもそも、子供をつくろうとするから、こんないろいろな問題が出てくるというのだ」
ということである。
子供さえいなければ、保育園の問題を考える必要もないわけで、もちろん、
「子供がほしい」
と願っている人は、考えなければいけないことであり、避けては通れない問題だといえるだろう。
「子供が可愛くて仕方がない」
という人や、
「名門の家族で、子供が絶対にいないといけない」
ということを義務付けられているようなところはしょうがないだろう。
だが、後者のような家庭であれば、基本、お金はあるはずなので、何も保育園に行かなくとも、出張できてくれる、いわゆる、
「家政婦」
のような仕事の人を雇えばいいだろう。
そういう仕事は協会のようなものがあり、登録してあるだろうから、そこに頼めば適切な人が来てくれることだろう。
そうなると、
「待機児童」
などという問題はなくなる。
どちらにしても、無認可の保育園というのは、話に聴いただけで、結構悪質なところもあったりするようで、どこまでが安心できるのかというのも難しい。
今回のような、
「保育園」
という問題でなくとも、
「老人ホームの問題」
というのも結構大きかったりする。
というのも、一度、虐待などということで社会問題になったところがあったが、するとそれから、どんどんと出るわ出るわ。いろいろなところでの虐待が、明かるみになってくる。
一つのところで問題になるというのは、たぶん、内部リークなどであろう。
となると、一つが出てくると、うようよと湧いてくるというもので、
「まるでゴキブリのようではないか?」
ということになるのだ。
そのゴキブリのように湧いてくるのも、実は内部リークなのではないだろうか?
どこの老人ホームも、
「本当はこのことを誰かに告発したい」
と思っても、自分がそれで首になったり、職場で浮いてしまったりするのが嫌だから、何も言えないのだろうが、
「どこか一か所で問題になってくると、俺だって、言っても問題ないんじゃないか?」
と考えることだろう。
ということは、全国で、
「言いたくて悶々している人が、かなりいるということだ」
それを、誰かがたがを外すと、他の人の呪縛も取れて、手かせ足かせが解けてしまい、一気に噴出してくることになるのだろう。
それを思うと、
「ここから先はモラルの問題」
ということになり、
「このモラルの悪さは許せない」
ということになれば、もうあとは、内部リークの嵐になり、一気に社会問題となるのも時間の問題だということであろう。
だから、
「俺たちにとって、ここで言わないことが、後悔することになるのであれば、いうに決まっている」
ということになるのだ。
それを思うと、今まで何もないと思われていたところから、出てきたと思うと、すぐ近くからも、ウワサが本当になり、警察の立ち入り捜索というのもあったりするだろう。
何しろやっていることが、
「身動きできない人を、介護する」
はずの人間が、
「身動きできないのをいいことに、自分のストレスをぶつけるサンドバッグにする」
というのだから、
「これ以上の、理不尽で、本末転倒なことはない」
と言えるのではないだろうか?
それを思うと、老人ホームや介護の仕事というのも、保育園よりもさらにひどい状態だと言っても過言ではないだろう?
保育園も、言語道断であるが、死んだ人間がいて、苦しみを思うと身につまされるが、
「わざとではない」
という部分はある。
しかし、老人ホームの場合は、何といっても、自分のストレスを事もあろうに、自分たちが介護することを仕事としているその相手にぶつけるという点において、
「情状酌量の余地などない」
というものだ。
確かに、きつい仕事で、相手をするのが、時々いやになったとしても、人間なのだから、それは無理もないことなのかも知れない。
しかし、それでも、相手にしていいことと悪いことがあるという意味では、
「あってはならないことだ」
しかも、やっていることは、常軌を逸していて、言葉にも出せないほどである。
何といっても、いくらきついからと言って、何もできない相手に対して、拷問のようなことをするのだから、開いた口が塞がらない。
「そんなに嫌な仕事だったら、辞めればいい。もっと他にできる仕事をすればいいだけではないか?」
というだけのことではないのか?
それができれば、何も被害者が生まれることも、自分が加害者になることもない。できないことを職にした自分が悪いのではないか?
同情の余地があるかと言われると、たぶんないだろう。仕事を辞めるなり、精神が病んでいると思えば、病院に行くなど、いくらでも方法はあったのではないか?
もちろん、企業ぐるみで、ブラックだったのであれば、少しは事情が違ってくるのだろうが、辞めれる余裕があるのであれば、辞めればいいし、病院に行く精神的な余裕があればいけばいいのだ。それすらできないほどひどい状態だったというのであれば、今度は、それを許さなかったまわりが悪いということになる。
そうなると、
「会社ぐるみ」
ということになるが、本人の罪が軽くなるということでもない。
「まわりが悪いからと言って、本人が悪くないというのは、あまりにも安直な考えではないだろうか?」
ということになるのである。
昨年だっただろうか、最初に、
「老人ホームでの虐待事件」
という、衝撃的なニュースが飛び込んできたと思うと、今度は別の地域で、
「またしても、老人ホームでの虐待事件発生」
ということになり、そこから、
「またしても」
という記事が、週刊誌の紙面をにぎわすことになるのだ。
というよりも、事件の多さもそうなのだが、どうも、類似の事件が多いのに、少しビックリする人も多いのではないだろうか?
「まるで、示し合わせたかのような内容」
そのことを考えると、
「それだけ、人間の本性というのは、性癖的には、究極で同じものを求めることになるのだろうか?」
ということを考えさせられてしまう。
だが、そんなこともないだろう。
老人ホームというのは、ある意味、
「隔離された空間」
と言ってもいい。
ただ、それを考えると、もう一つ気になるのは、
「囚人を収監していて、さらに、まわりと隔絶された空間」
ということで、
「刑務所」
というのが頭に浮かぶ。
昔のドラマなどでは、前に入った人が仕切っていて、新入りにはリンチのようなものがあるというような映画が結構あったりしたが、守るべき刑務官が、今回の老人ホームと同じように、
「体罰のようなものを与えている」
ということになっているのかも知れない。
そう感じると、何がなにか、辻褄どころの話ではなくなってしまうのではないだろうか?
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