第2話 副作用
対戦が終了してからというもの、社会情勢としては、社会主義陣営と、民主主義陣営の間で、
「冷たい戦争」
つまり、
「冷戦」
というものが起こってくる。
これは何かというと、大東亜戦争や、ヨーロッパ戦線が過激になってきた頃、某国は核兵器お開発を行っていた。
それを使用してしまったことで、戦争は終結したのだ。これが、
「パンドラの匣」
だったのだ。
核兵器というのは、
「抑止力」
として使うもので、それを使ってしまえば、
「相手も破壊できるが、自分のところも終わりなのだ」
ということになる。
つまりは、
「両陣営で持ってしまうと、核の均衡によって、お互いに睨みを利かせて戦争になることはない」
そういう意味での抑止力ということだが、
「核による均衡」
というものは、
「お互いに直接対決はないが、代理戦争というものは、大いにありえる」
ということである。
それが、
「朝鮮戦争」
であり、
「ベトナム戦争」
だったのだ。
他にも、アフガンであったりイラクの問題もあるが、このあたりは冷戦終結後の新たな世界情勢ということが絡んでくるので、ちょっと変わってくる。
社会主義国という、民主主義とは隔絶した主義は、
「共産主義」
という考えに基づいたものだ。
要するに、
「民主主義の限界を超えた、理想の国家主義」
というのが、社会主義というわけだ。
民主主義の基本原則として、
「多数決」
と、
「自由競争」
である。
そうなると、何が起こるかというと、
「少数派が切られる」
ということであったり、
「貧富の差が激しくなるばかりだ」
ということになるのだ。
それを解消するために考えられたのが、
「社会主義」
であり。
「国家が国民をすべて管理し、貧富のない社会にして、少数派も受け入れる」
というものであったが、社会体制が大きくなるとそうもいかない。
一人一人考え方が違うのに、従わせるだけだから、個人の自由など、あってないようなものだ。
つまりは、
「国民を統一した考え方に洗脳する」
「すべての産業を国営にして、貧富の差をなくす」
などということである。
ただ、このやり方は。大日本帝国時代の日本に似ている。
「国民の総意として、国家体制が整っていないと、戦争の遂行などできなかった」
ということであろう。
それを考えると、
「治安維持法」
などに代表されるように、
「国家体制に逆らったり、別の思想や、戦争遂行に異を唱える連中を抑えつけるための、特高警察」
などというものの配備が必要になったりするというのだ。
そんな政治体制になると、政府は疑心暗鬼に駆られる。
被害妄想もひどくなり、そのため、自分以外は信じられないということで、国家権力を使っての、
「粛清」
というのが行われるのだ。
それがどういうことかというと、
「国家に対して、不安分子をのさばらせておくと、国家転覆のクーデターが起こらないとも限らない」
ということだ。
それが、大日本帝国であり、社会主義国家だ。
この二つは、主義自体は違い、敵対するものだが、
「独裁」
という意味では変わりなく、行動パターンも似ていると言っていいだろう。
もっとも、戦争中であれば、有事として、
「国民の権利を少し削って、国家のために尽くす」
というのが、
「君主国」
における。
「臣民」
というものであった。
社会主義において国家体制がどのようなものなのかということを考えると、民主主義の人間には分からないだろう。
しかし、民主主義も、正直ロクなものではない。
政府として、一党独裁で来た体制も、
「贈収賄」
であったり、
「汚職事件」
などであったりと、国家体制は、
「政府の私物化」
ということになっている。
しかも、国民が、自分たちの老後の貯えとして、国家がその運営を任されているにも関わらず、10年以上に渡って、ずさんな管理をしていたために、ほとんどの年金の所在が分からないという、
「言語道断」
であり、
「空前絶後」
の状態になっているというものだ。
さて、そんな国家だが、
「民主国家がいいのか?」
それとも、
「社会主義がいいのか?」
という問題であるが、そもそも、
「民主主義の欠点を補いながらの新しい国家体制」
ということで、まるで、
「理想の国家体制」
ということで考えられた社会主義国家というのがこれでは、どうしようもないというものだ。
「では、どういう国家がいいのか?」
ということになると難しい。
今までの民主主義国家が悪いということで社会主義にすると、これまた行き過ぎる。
「加減を知らない」
というのが、国家体制というものに対しての発想になるというのか、実に問題と言ってもいいだろう。
そんな社会主義と民主主義の間に置かれた、
「パンドラの匣」
に入っているのは、
「核兵器」
という、
「地球消滅」
のリスクを背負ったものになることが恐ろしいのだった。
我々の住んでいる国家において、
「自由がなくなることは、容認できない」
というのが基本だとすれば、
「治安をどう維持するかということであるが、抑えつけようとすると、ダメなことは、歴史が証明している」
と言っていいだろう。
社会主義という国は、世界でも数個になってしまった。
今の時代は、国家を超えた個人が集まっただけで、国を動かせると信じて疑わない民族がある。
今でも内戦が続いている国であったり、アラブとイスラエルのような、一触即発で、
「いつ戦争になるか分からない」
と思われているが、戦争にならなくても、ゲリラ戦がいくつもの世界で無数に確認されているというのが、今の社会である。
それが、某国における、
「同時多発テロ」
と呼ばれるものだったのだ。
世情は、そうやって、ゲリラ化した戦闘が繰り広げられることとなったのだが、戦闘を続けるだけの力が、今度は国家から、一企業の、
「死の商人」
という形で武器を提供するやり方が多いという。
ひょっとすると、そのバックに国家が関わっているのかも知れないが、それはそれで、
「国家間の紛争」
にならないということで、うまくいくということかも知れない。
最近では、もう一つ気になるのが、
「独裁的な国家が多い」
ということも気になるところだ。
元々、そんな気があったが、それよりもさらに国家間において、ずっと続いている紛争もあったりする。
地理的な問題、さらに、それによる、開発に必要な物資獲得のための侵略など、横行している時代である。
確かに、世界紛争解決の期間として、
「国際連合」
というものがあるが、議長国が、その紛争の当事国さったりして、
「満場一致」
というわけにはいかない。
議長国の中には、元々国連を結成したのが、
「さきの大戦」
において、戦勝国であったところが、中心になっての連合の体制なのだ。
だから、あれから、70年以上が経っているのだから、体制としては古いと言ってもいい。
それを思えば、国家体制というものが、どういうものかということも分かってくるというものだった。
ただ、満場一致でないと、決議案が出せないということがネックになっている、なかなか難しいところである。
そういう意味では、かつての戦争に対しての軍を派遣する時も、
「国連軍」
という形での、
「国連からの正式な軍隊」
として送っていることはないだろう。
だから、朝鮮戦争の時も、湾岸戦争の時も、
「多国籍軍」
ということになるのだ。
とにかく、国連の常任理事国というものに、相対する、それぞれの体制の国家があるということが厄介なことであった。
特に、その2大大国というものが、それぞれの体制だから厄介だ。
だからこそ、
「冷戦」
と呼ばれる時代だったのだが、冷戦が終結し、その後に起こってきたのが、ゲリラ戦、今では、ゲリラというわけではなく、れっきとした国家紛争であるが、一歩間違えば、
「核戦争の恐怖」
になりかねないということだ。
この国家間の紛争を考えると、
「もっと、何か平和のうちに、紛争を解決できないか?」
ということを考える人が出てきてもいいのではないだろうか?
ということで、今は、
「兵器としての、化学兵器」
という考え方と、
「平和利用の化学兵器」
というものの両面から考えられているところがあるようだ。
国家間においての考え方や、その問題は、今のところ、
「半永久的なものだ」
という考えになっているようだった。
考えてみれば、
「兵器というのは、毒にもなれば、薬にもなる」
というものだった。
例えば、
「ピクリン酸」
というものがあるが、これは、昔は火薬として使用していて、今では医薬品として利用している。
強力な爆弾である、
「ニトログリセリン」
というものも、
「衝撃に弱い爆弾」
という認識もあれば、
「心臓病の薬」
という認識もある。
このように、
「毒にもなれば薬にもなる」
というものは少なくなく、結構あるものなのかも知れない。
そういう意味で、今開発を急がれているのが、
「伝染病を防ぐ薬」
というものだった。
これには、何段階かあり、特に、いつ、どんな種類の伝染病が流行るか分からない。それを考えると、
「どういう形がいいのか?」
という考えになり、とりあえず、段階を決めて、
「フェーズ分け」
をするのがいいのではないかと考えるのだった。
まずは、最初のフェーズとして、
「伝染病が流行るとすれば、いつ? そしてどのような種類の?」
という予測型である。
今の世の中の伝染病の流行具合から考えると、
「いかに、どの伝染病が流行るか?」
ということが問題となってくるのだった。
これは、正直、一番難しい。
しかし、これができていないと、いきなり伝染病は入ってくるということが分からずに、気が付けば、流行ってしまっていると、一番大切な、
「水際対策」
というものを阻止できないのだ。
そして、さらにいえば、
「その病原菌がどこで発生したものなのか?」
ということを突き止める必要がある。
どこを経由にどのように回ってくるかということが分かれば。水際対策というものをいかに考えればいいのかということが考えられるのかということである。
さらに、伝染病がある程度終息してくれば、
「国際的に、伝染病を流行らせた責任を取らせることになったり、伝染病の発生や、流行のパターン検証にも役立つことになるだろう」
さらにいえば、そこから先の、
「ワクチン」
であったり、
「特効薬の生成」
に役立つことになる。何もかも分かっていなければ、先に進まないということになるのであろう。
世界保健機構と呼ばれるところでは、国連とは違う活動をしているので、同じ機構が、国連にあったとしても、結局何もできないというような形になるに違いない。
要するに、そこに、国家が絡んできたりすると、
「責任の所在」
であったり、
「マウントの取り方」
という意味で、いかに他に先んじた態度が取れるか?
ということが問題になったりするだろう。
それは、伝染病が流行った時に、国家での体制を見た時のことで分かるというものだ。
政府とすれば、新たに、
「伝染病の名前の省庁」
を造り、そこに対策を任せることになるのだが、もちろん、その中になるのか、それとも別の組織にての、
「有識者会議」
というものが存在する。
もっとも、伝染病によって被害を被ったり、問題になるのは、一つではないだろうから、それぞれに窓口や対策室も必要になるだろう。
「医療問題」
「経済問題」
「イベントや学校関係、会社関係の問題」
など、それぞれに解決すべき問題は飾っているに違いないのだ。
しかも有識者会議の医者と、経済関係の関係者は、当然、それぞれの畑の擁護を重ねて、自分たちの意見を勝手に、自分たちの立場からしか言わないだろう。
それはそれで間違いのないことだ。
それぞれの立場で場が紛糾してしまうと、まとまるものもまとまらない。しかも、
「これに、答えなど存在するわけはない」
ということであろう。
答えの、つまり、結論の出ない会議を続けることを、
「小田原評定」
というらしいが、まさにその通りだ。
有識者会議のように、まったく正反対の立場の人で、マウントの取り合いをすれば、結論が出るわけもない。
ただ、それぞれの部門での、
「これは最優先というのがあるだろう」
しかし、
「人の命が大切なのだから、まずは、人の命の医薬の部門を優先させれば、人流を抑えることになるので、経済は滞り、経済が回っていかず、失業者が街に溢れるというわけだった」
いくら対応したとして、国家が、金を出したとしても、その財源にも、限りがある。
さらに、
「誰にいくら出す」
ということを話し合っていると、なかなか決まらない。
一度、
「全国民に10万円」
ということがあったが、それでうまくいくはずもない。
スピード感もあり、その時は最善だったのだろうが、それから何年経っているというのか、本来なら、所得によって決めるべきなのだろうが、
「子供のため」
とかいう、わけのわからないことをしているのだ。
「じゃあ、子供がいなくて、今実際に、商売などをしていて困っている人は、どうすればいいというのだろう?」
それを考えると。
「子供だけに支給するというのは、政府の人気取りにすぎないのではないか?」
と思われても仕方がない。
確かに、子育て世代は大変であろうが、もう少し議論があってもいいはずだ。
つまりは、
「議論しなくてもいいところでは、かなりの時間をかけるが、議論をしないといけないところで、簡単にスルーする」
という、安直な考えになっているといってもいいのではないだろうか?
「子供と言ってもいくつまで?」
ということもある。
この国では、結構、
「子供の年齢に対する考え方」
というのが、結構曖昧だったりするのだ。
まず、子供の定義を考えるのだが、
「13歳」
「18歳」
「20歳」
というのが基本だろう、
まず、13歳というと、ちょうどその頃に、思春期がやってきて、女性では、初潮を迎えるなどして、身体が。
「大人」
になっていく。
ということになるのだろう。
では、それ以上の年齢ではどうだろうか?
「18歳」
というのは、高校を卒業して、社会人や大学生になる年齢で、いわゆる成人年齢ということになる。
もっとも、この国では最近まで、成人年齢は、20歳だったようだが、青少年による犯罪の低年齢化などが大きな問題になるのだ。
そもそも、若い年齢にしたのは、
「他の国に合わせる」
というのが基本だったが、この国の青少年は、どこか考えが甘いと言えばいいのか、
「成人の年齢が下がったことを喜んでいる」
ように見えるのだ。
確かに成人になれば、
「親権者の同意がなくとも、契約を結べたり、訴訟を起こしたりもできる」
とは言われるが、逆にいえば、何か犯罪を犯した場合、
「少年法」
なるもののご加護を受けることはできないのだ。
少年法のように、
「犯罪を犯しても、少年刑務所などの施設が違ったり、犯罪者の実名が晒されることはないので、かなり優遇されているのだろうが、それは、若くなるということは、それだけリスクも大きくなる」
ということである。
若年層による凶悪犯が、この国でも、広がっている。
ただ、この国の元々の形成というのが、
「某国による、亡命者をかくまうため」
というものであった。
たとえば、戦争責任者であるが、今後の未来の社会情勢のために、本来なら裁判にかけられるべきなのだろうが、
「このまま処刑されるのは、もったいない」
という考えになるのを恐れてのことだった。
さらに、諜報活動を行った人が握っている、
「社会主義国家の機密」
を知りたいというのもその理由である。
何しろ、
「冷戦」
という時代である。
この時代には、何が問題なのかと言って、
「お互いのスパイ活動の活発化」
である。
特に、核ミサイルなどの開発競争であったり、
「大陸間弾道弾」
というものの開発に不可欠な、ロケットというものを、
「宇宙開発」
ということで、こちらも競争ということになるのだ。
さらに、それらの開発において、
「相手国よりも、早く、そして正確に」
ということが求められるので、相手国家への、
「諜報活動」
ということは大切なことになるのだった。
つまり、
「科学開発者と、諜報活動者」
というのは、例えば、大日本帝国や、ナチスドイツには、かなりいたのだろうが、そんな人たちを一気に某国本土に迎えれば目立つし、問題が起こる。
それを解消するという意味で、某国は、
「新しい国を建国し、そこに入植させる」
ということにしたのだ。
しかも、某国の属国ということにするだけではなく、
「新しい国を作って、独立国にしておいて、傀儡にする」
ということで、いわゆる。
「満州国」
のような形であろう。
属国というよりも、さらに、独立国の様相が深いが、実際には、新国では、
「総理大臣や大統領はいるが、あくまでも、
「某国の国際警察というものの配下にある」
という形が取られる。
さらに、国家としての体裁を整えるということで、
「某国からの移民」
を受け入れていた。
某国では、特に、
「ある団体が、住みにくい」
という状態が続いていた。
そのある団体というのは、
「ある宗教」
といってもいいだろう。
いわゆる元は、キリスト教なのだが、某国内で、急に信者が増えだしたのだ。
元々は、兵士を募るということで、利用できたのだが、最近では、国家としての兵士の募集がいらなくなったので、実際の行動部隊として、新たな国にその体制を築かせた。
つまり、
「某国の代表」
であるがごとく、国家を運営している。
それが、新国であり、新国というのは、言い方は悪いが、
「某国の掃きだめ」
であり、
「某国にとっての、流刑地」
のようなところだと言ってもいいだろう。
流刑地というのは、日本でいえば、
「佐渡島」
などのようなところで、金の採掘をさせられたように、ここでも、流刑者は、強制労働をさせられていた。
そもそもここは、
「731部隊」
のような、日本人や。
「ナチスの科学者」
と呼ばれる、
「ドイツ人」
というのが、幅を利かせているということであろう。
だから、国家とはいいながら、ここは、少なくとも、5民族くらいが暮らしているという、
「他民族国家」
なのだ。
そういう意味で、国家体制をいかに組みたてていくかということは大いに問題だった。
法律や、モラル。さらに、風俗習慣などの違いをいかに合わせていくかによって、治安や生産性がなくなってしまう。
何といっても、彼らは元々プロフェッショナル。本来なら、流人などと一緒にするのはいけないことなのだろうが、これ以外に方法はなかったのだ。
せめて、
「日本人とドイツ人を隠したい」
ということからここに入ったのだから、彼らとしては、
「他に行くところがないのだから、居心地悪くても、いるしかないんだ」
ということである。
何と言っても、彼らは、
「敗戦国出身者」
なのである。
敗戦国出身者ということは、
「第一次大戦が終わった時の、ベルサイユ体制を考えれば、どういうことなのか?」
ということは、分かるというものである。
何と言っても、
「あの時のドイツを締め付けたことが、ナチスの台頭に繋がったのだ」
ということだからである。
そんな新国で、何をやっているかというと、今の一番は、
「新薬の開発」
というものであった。
やはり、
「元731部隊」
と呼ばれる連中の子孫が活躍しているという。
ただ、もう一つ大きな言われ方をしているのだが、これは、ウソか本当か、どちらにしても恐ろしい発想であった。
「彼らの死んですぐの脳を電極水の中に浸けて、そこで活性化しながら、まるで、人工知能のような働きをさせる」
というものであった。
確かに、脳の機能は死んでいない。
そして、脳が身体を伝わる時の周波数のようなものを解読できれば、彼らの頭の中にあるものをいくらでも利用できるのではないかという考え方なのだった。
つまり、一つとしては、
「俺の考え方として、まだまだ自分たちの頭脳が、今後も生き続ける」
ということだ。
何しろ、
「今の時代でも、いや、今の時代だから、人体実験などできやしないんだ。だが、俺たちは、それを目の当たりにしてきたのだ」
という自負のようなものがあるというのだ。
彼らには、まったくの、
「悪かった」
という気持ちはない。
「戦争というものが、自分たちの気持ちをマヒさせて、何でもできるという感覚にしたことで、今でも、人体実験が、正しかったと思っている」
と考えているのではないだろうか?
「祖国のため、自分たちの名誉欲のため。それが本当に正しいのか、間違いなのかなどということは、まったく考えていないということである」
と思っているのだろう。
しかし、今は、世界的に平和やモラルを叫ばれている。
これも正しいのかどうかということも、何とも言えないといっていいだろう。
実際に、昔のアニメや特撮などでは、簡単に人間の脳をロボットの中に入れ込んで、それを使っているというのもあった。
あの特撮では、二つの利点があったのだ。
というのも、助けたい博士がいて、その、
「悪のアンドロイド」
の頭の中にある脳は、生きている、博士の脳だったのだ。
つまり、
「相手のアンドロイドに勝つということは、相手を破壊するということになり、博士の脳もろとも、破壊する」
ということになってしまうというのだ。
それは、やってはいけないことだった。
何とか脳を取り外し、本人の頭に据え付ける手術をしないといけない。
ちょっと考えれば、一度切断した脳を、くっつけたとして、前のように、簡単に動くかどうかという方が問題であるが、そのことについては、言及されていなかった。
やはり、
「子供相手だ」
ということに終始していたのだろう。
それを思うと、
「脳をロボットの頭に付ける」
という発想のインパクトが強ければ強いほど、疑問に感じることはないと言ってもいいのではないだろうか?
それは、拒否反応を示すものであって、一種の
「副作用のようなものではないだろうか?」
血液の輸血であったり、臓器移植などにおいても、ドナーとどんなに相性が合うといっても、実際にいれてみなければ、本当に合うものかどうか分からないだろう。
それを思うと、
「副作用というものと、医療の関係は、切っても切り離せないものとなるのだろう」
ということであった。
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