第9話

「蓮、さっきまでおばさん達と何処に行ってきたの?」


穂花は優しい口調で蓮に言う。しかし、蓮は穂花の手をじっと見たまま返事を返さない。

穂花がそのことに気がついたのは、少し答えを待ってからのことだった。


「蓮、お猿さんにご飯あげたいの?」

「うん」

「お姉さん達の前でしてくれるなら、いいよ」

「やった」


穂花のお願いを聞いた蓮は、小さい手で餌入りのカプセルを取る。そして、一目散に目の前の猿山へと駆け寄った。


1人黙々と猿に餌を与える蓮を前に、2人は沈黙の時間を貫く。


少し経って、穂花が葵に尋ねた。


「......須崎君って小さい頃はどんな子だったの?」

「えっ、小さい頃?」

「うん、蓮くらいの歳の頃」


「......あんまり覚えてないな」


「......そう」

「菊地こそ、小さい頃はどんな感じだったんだ?」


「私は普通よ、幼稚園では友達と、家ではお母さんやお父さんと、よく遊んだりお喋りしたり」


「へぇ、羨ましいな」

「羨ましいって......覚えてないだけで、貴方も私と同じように過ごしてるはずよ」


「うん、そうだったかも」

「何よそれ」


葵の曖昧な返事に、穂花は可笑しそうに笑った。


「餌やり終わった!」


二人がしばらく猿山を眺めていた時だった。餌やりを終えた蓮が帰ってきた。


「おかえり、次はどこ行こうかしら」

「そうだな......蓮君はどこ行きたい?」

「ライオンみたい!!」

「ライオンか、良いな!見に行こう」


葵は、蓮の提案に嬉しそうに乗る。


「その前に、私少しお手洗い行くわね」

「あぁ分かった」


「誰かさんが『お手洗い行きたい』って言ってくれたら、私は恥をかくことなく済んだのにね」「えっ?」


恐らく僕は女の子に対する無礼を働いたのだろう。菊地はニッコリと笑うと、いつも通りの言葉の切れ味を僕に突き出した


「蓮、葵お兄ちゃんに迷惑かけたらダメだよ」


穂花は、蓮にそう言うと静かにこの場を後にした


「お兄ちゃん」

「どうしたの?」

「お兄ちゃんって、どうしてお姉ちゃんと一緒にいるの?」

「そうだな......」


この子になら付き合っていない事を言っても良いか?......だけど、この子図手で情報が回ったら、きっと幸代さんにもバレてしまうし......


「僕とお姉ちゃんはね、付き合っているんだ」

「付き合ってる?」

「うん、恋人同士だよ」

「好きなんだ!」


葵の言葉を聞いた蓮は、きゃっきゃっと嬉しそうにはしゃぎだす


「それじゃ、お兄ちゃんはお姉ちゃんと結婚するんだ!」

「えっ?!それは......」

「しないの?」

「うーん、それはねー......」


葵は頭を抱えた。

このくらいの年頃の恋愛に遊びなんて感覚はないだろうし、『恋人=結婚相手』としか思わないもんな......

僕だって、本当はこんな恋愛したくなかったのに


「お兄ちゃん、お姉ちゃんと結婚しないの?」


頭を抱える葵に追い打ちをかけるかの如く、蓮は涙を浮かべながら上目遣いで葵に問いかけた。


可愛い......っ!!

この子の夢を潰すような現実は言うべきじゃないっ!!


「す、するよっ!僕はお姉ちゃんと結婚するよ!」


「本当!?」

「うん、本当!!」

「やったー!」


葵の言葉を聞いた蓮は葵に駆け寄り、足元にしがみつく


「お兄ちゃん、お姉ちゃんと結婚するんだ!」

「うん、そうだよ!」


蓮の可愛さに癒される反面、葵は心を傷めた。

この年の子供に嘘を信じさせて良いのだろうか......いや、この年の子供だからこそ、夢を見せてあげるべきなんじゃないか!



「ねぇ葵君、さっきから蓮と『結婚、結婚』って何の話してるの?」


葵が蓮とはしゃいでいる時だった。2人の横から、何も知らない穂花が現れた。


「あっ、きく......穂花......これは違うんだ」

「違うって何がよ」

「お姉ちゃんお姉ちゃん!!」


蓮は笑顔で穂花に問いかける


「お姉ちゃん結婚するんでしょ!お兄ちゃんが言ってた!」

「けっ結婚?!何言ってるの!?」


驚きを隠せない穂花は勢いよく葵の方を睨みつけた。


「違っこれは蓮君が......「そう、『結婚』したいくらい私のこと好きなんだ」


焦る葵を前に、穂花はニヤリと悪戯に笑って見せた。


「コイツ......結婚したいくらいお前のこと好きなわけ......」

「急に黙りこんで、どうしたの?」


黙り込む葵に、穂花はさっきと変わらぬ表情で話しかける。

夢を見させたばかりの蓮君がいる前で『好きなわけない』なんて言えない......菊池のやつ、それを分かった上で僕をからかってやがるな......!!


「すっ」「す?」

「......好きだよ、結婚したいくらい好きだ」

「......」


他の言い訳が上手く思い浮かばずに行ってしまった......


葵の告白を聞いた穂花は赤くなった顔を隠すように後ろを向いた。


「蓮がいる前で何言ってるの?言われる私の身にもなってほしいわ。ほらっ蓮、お姉ちゃんと手繋ご」


虚言とは言え、勇気を出して言った告白に対し、菊地の口から出てきた言葉はあまりにも酷じゃないか?


「ほらっ葵君!」


葵が落ち込んでいると少し離れた所で菊地が葵を呼んだ。


「ボーッとしてないで、ライオンのいる所行きましょ」

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