第19話 幼なじみとの対面 ②


 六月に入り、最初の木曜日。


「じゃあそうだな……七瀬、読んでくれるか?」

「はい。ある日の暮れのことである。一人の下人が、羅生門の下で……」


 教室の隅っこの端の席で窓の外を見る雄也の耳に入ってくるのは、麗奈の音読する声だ。

 女の子らしく、綺麗な声。

 可愛いというよりも、美しいという表現の方が正しいのだろうか。現代文だから、意識してその声を出しているのかもしれない。

 噛むことなく、抑揚をつけてすらすらと音読を進めていく麗奈。

 学校では真面目で、とにかくお手本のような存在で、しっかりしている。

 しかし家に帰れば、絶対に学校では見せないような甘えっぷり。

 まあ、兄妹として関係を深めたいというのが理由なのだろうが、何せ片想い中の雄也からすれば心臓に悪いことだ。勘違いしてしまいそうになる。

 が、雄也は今、そんな麗奈の魅力よりも別の問題で頭をパンパンにさせていた。


「……緊張するなあ」


 来る木曜日。

 そう、今日は麗奈の幼なじみとの、初めての対面の日なのだ。

 16時に学校が終わり、一旦家に帰ってから、18時にファミレスで待ち合わせという予定。

 夕飯も兼ねてということなのでその時間になった。


 正直、最初は軽い緊張程度だったのだが、こうして時が近付くに連れて、どんどんと緊張してくる。

 同い年だし、特に悪い噂も聞いた事が無いので緊張する必要は無いのだが、陰キャの雄也にとって、それは中々にレベルの高いことだった。


「――」


 窓の外を見ながら、見知らぬ幼なじみのイメージ像を考えてみる事にした。


 麗奈は、多分男子の事が嫌いだと思う。

 普段の学校生活を見る限り、男子とは極端に話さないし、話しかけられても素っ気なく返している。

 おちょくり代表に「マドンナ」と言われた時は、若干キレていた程だ。

 まあ、明確な答えは分からないが、「友好的」というのは絶対に無い。

 そんな麗奈が、心を許している、というか普通に接している男子。


「……良いやつだよな。さすがに」


 漠然とした予想を、口にしてみる。

 コンビニ帰りの麗奈との会話を思い出しても、そこまで麗奈は嫌な顔をしていなかった。

 その事からも、幼なじみはきっと良い人なのだろう。

 悪い人だったら、そもそも会わせる予定すら作らない。それが麗奈の性格だ。と、勝手ながら兄として妹の性格を分析してみる。


 しかし、一番の懸念点はそこではなかった。


「……陽キャ、あー、陽キャ……だよな」


 とにかく心配、というか不安材料に食い込んでくるのはそこだ。

 二人きりになるタイミングも絶対に出てくる。

 その際、相手はゴリゴリの陽キャで常に高温のテンションで居た場合、雄也はどうすればいいのか分からなくなってしまう。

「あは、あはは……」と、露骨すぎる愛想笑いをする自分を想像したら、背筋が冷えてしまった。


「はぁ。俺がもっと社交的な人間だったらな……」


 深くため息をついて、そう呟いた。

 考えれば考えるだけ、緊張していく。

 緊張すれば、自ずと不安も比例して増える。

 不安が増えれば、自信が無くなる。

 そんな負のスパイラルを、雄也は抜け出せなかった。


「……おーい、桜木? 第二段落読んでくれるか?」

「あ、はい。広い門の下には……」


 良い緊張なのか、悪い緊張なのかは分からない。

 でも、麗奈に言われた「自信を持って!」という言葉に反している事は、何となく分かってしまった。


 ◇◇◇◇◇


「あ、帰ってきた!」


 雄也よりも一足先に帰宅していた麗奈は、「ガチャ」という音が聞こえた瞬間、嬉しそうにベッドから立ち上がった。

 その気持ちのまま、玄関へと向かった。


「おかえり、雄也くん」


 すっかり慣れた玄関先での挨拶。

 何となく嬉しくなる気持ちを感じながら、笑顔で雄也へと視線を送る。


「た、ただいま」


 返ってきたのは、明らかに覇気のない声だった。


「……え、なんかあった?」

「あ、いやいやごめん。何でもないよ」

「ほんと?」

「大丈夫大丈夫」


 心配して問うてみるも、雄也の答えは一貫して「何も無い」らしい。

 しつこく聞くのも野暮だと判断した麗奈は、それ以上問うことはしなかった。


「そ、そっか。それならいいけど……」

「おう。心配させてごめんな。六時からだっけ?」

「あ、うん。あと一時間くらいしたら一緒に行こ?」

「そうだな。そうしよう」


 尚も少し複雑そうな表情を浮かべる雄也を麗奈は不思議に思いながら、二人はそんな会話を交わした。


 それから麗奈は自室に戻り、再びベッドに寝転がった。


「……まだ緊張してる、雄也くん。そんなの私にバレバレなんだから」


 今日一日、雄也に覇気がなかった理由はそれだ。確信している。

 学校で見ていても、先程の玄関のやり取りでも、明らかに緊張していて、動揺していた。

 初めての事は、誰だって緊張する。

 人付き合いだってそうだし、何かの始まりには、いつだって緊張が付き物だ。

 思えば、麗奈が雄也の家に初めて来た時の自己紹介だってそうだった。


「……お父さんの後ろに居たけど、実はめっちゃ緊張してたなぁ」


 当時の思いを振り返り、麗奈は微笑みながらそう呟く。

 でもいつからだろうか、こうして普通に過ごしているのは。

 何なら、恋までしている。

 家族だから。きっとそれだって大きな理由かもしれない。

 それでも、それでもだ。

 そこまで考えた所で、麗奈の頭の中にはある事が浮かんできた。


「どうしたら、緊張とか取れるのかな」


 それだけ呟いて、麗奈は桜へと電話をかけた。


『ん、もしもし? どしたの?』


 三コールほど鳴った後、癒されるような桜の明るい声が届いた。


「ん、今時間大丈夫?」

『うん! ちょうど休憩中だったから!』

「あ、良かった。でね、聞きたいことがあるんだけど……」

『えーなになに』


 桜の返事を聞き、麗奈は「ふぅ」と息を軽く吐いた。


「あの、その……好きな人を安心させるって、どうすればいい、の?」


 恋愛未経験の女の子から恋愛達者の女の子へと向けられる、あまりにも純粋すぎる質問。

 そんな、麗奈からの可愛すぎる言葉を聞いた桜は、驚きからか少し間を開けてから、答えを口にした。


『そうだねえ、私が麗奈と絡んでて安心するなーって思うのは、後ろから急にハグされたときかなあ』

「……ちょっと、ねえ! そんなの無理!」


 桜からの予想外の言葉を聞き、喜びと羞恥が麗奈の心を駆け巡る。


『キュンキュン大作戦だってまだ終わってないでしょ? だから同時にやっちゃえば?』


 麗奈の反応に「あ!」と、何かを思い出したかと思えば、桜はそう言った。

 そういえば、桜にキュンキュン大作戦のリザルト報告をしていなかった。


「……それ、実はもう終わったの」

『……は、え、嘘でしょ!?』


 麗奈の報告を聞き、桜は驚きの声を出す。

 頬を赤らめている麗奈を見れば、それが本当の事だと分かるのだろうが、生憎と電話越しなのでそれは伝わらない。


「う、嘘じゃない! その……ぎゅーも、ちゃんとしたっていうか、出来ちゃったっていうか……」

『はや!? はやくない!? ええ!?』

「は、早いとか遅いとかあるの……?」

『いやないけど……麗奈って意外と積極的なんだね』

「は、はあ……。積極的なんだ、私って」


 恋愛においての「積極的」が何か分からず、麗奈は桜の言葉に困惑する。

 言われてみれば、コンビニでの行き帰りの途中も、中々に大胆な行動をしていた気がする。

 全て、"妹だから"という名目で、恋愛経験皆無なりにアプローチしてみたのだが、それが積極的ということだろうか。

 はたまた、「キュンキュン大作戦」を終わらせるのが早すぎたのだろうか。

 どちらにせよ、新たに知識が一つ増えた気がした。


「……って、それよりも! 他に方法無い?」

 

 とまあ、そんなことは言えるはずも無いので、自分の心の中だけでそう結論付け、麗奈は話の路線を戻した。


『他の方法かあ……んー』

「その、ハグは出来ない……したいけど、今の私には無理です、恥ずかしいです」

『……って、私は考えてただけなのに、麗奈が自分からハグしたいって言ってるじゃん』

「……あ」


 桜の言葉に、麗奈はぱちくりと目を見開いた。

 確かに今、桜は何も言わずに次の案を考えていただけだった。

 その事実に気付くと同時に、頬が赤に染まった。


『本心が出ちゃってますよお、麗奈さあーん』

「……うるさい」

『もー、可愛いんだから!』

「……いいから! 早く次の案だして!」


 頬を真っ赤に染め上げて、麗奈は次の案を要求する。

 それ聞いた桜は、「はいはい」と嬉しそうな声色で前置きしてから、


『恋愛っていうのは、自分がされて安心することを、相手にしてあげればいいんだよ。あ、私は麗奈からバックハグされるのが一番嬉しいし、安心する! じゃ、休憩時間終わりだからまたね! 頑張って!』


 そう言い残し、電話を切った。


「……んもう、バックハグしか言ってないじゃん!」


 結局、一つの案しか出さずに去っていった桜に、麗奈は頬を赤らめながら怒る。

 とはいえ、一つでも案を出してくれた時点で桜には感謝をするべきだと判断し、すぐにその気持ちは収まった。

 何より――


「自分がされて嬉しいこと、ね」


 桜が言い残していった恋愛の掟。

 それがやけに、腑に落ちた気がした。

 恋愛未経験の麗奈からすれば全てが勉強だ。その上で、やけにすんと、何の雑念も無く、その言葉は心の中に溶け込んだ気がして。


 ハグ作戦の時のハグ。

 時間的には数秒だったかもしれない。

 それでも、安心するには、不安を消す為には、十分すぎる時間だった。

 兄として、好きな男の子として、雄也の存在を再確認するには、むしろ多すぎる程だったかもしれない。


 そんなことを思い出して、麗奈は再び頬を赤らめる。

 そして――


「――やっぱり、頑張ってみよっかな。私、積極的な女の子だし」


 と、小さな決意をポツンと呟いた。


 ◇◇◇◇◇


 可愛いデザインが施されたデジタル時計を見ると、そこには『17:45』の文字。

 待ち合わせ場所のファミレスは徒歩で10分くらいの場所にあるので、出るならば頃合いと言ったところだ。


 決意を固めた麗奈にとって、する事はひとつ。

 緊張を上回る程の安心を、雄也に与えてあげればいい。

 その付随で、不意にバックハグをすればいい。

 気持ちが優先だ。


「いってくるね」


 小さく心の中で意気込んでから、ベッドの傍に置いてある猿の置物へと、微笑みながらそう言った。

 美しい銀髪を備えた制服の美少女は、静かに階段を降りた。


「あ、居たの! 準備出来た?」


 階段を降りると、意外にも既に雄也が玄関に居た。


「お、おう。出来た出来た。呼んだ方がよかったな、ごめん」

「ん、いーよ。私も今準備終わった所だから」

「あはは、そうか。それならよかった」

「緊張してる?」

「あ、いや、してない」

「ふーん」


 やはり、雄也は緊張していた。靴紐がほどけているのがその証拠だ。

 が、今はその方が、決意を固めた麗奈にとっては好都合だ。

 あとはタイミングさえ揃えば。

 少し勇気はいるけど。


「靴紐ほどけてるよ、雄也くん」

「……え、ほんとだ。ありがとう」


 そう言って、雄也は自分の靴に視線をやり、靴紐を結ぶために腰を落とす――落とさなかった。


「あ、そういえば財布忘れたわ。麗奈、先に靴履いて待ってて」

「え、あ、うん。分かった」


「靴紐を結ぶ瞬間にバックハグ作戦」のプランが崩れてしまい、少々驚きながら麗奈は返事をする。

 その返事を聞いて、雄也が「ごめん」と苦笑しながらリビングへと向かうと、麗奈は空いた玄関へと向かった。

 そして、靴を履こうと、腰を下ろそうとした時だった。


「――え?」


 唐突に体が動かない感覚に襲われ、麗奈は目を丸くする。

 そして、少しずつ背中側の体温が上がっていくのを感じた。


「……ごめん、こうしたかったから嘘ついた」


 その声は、耳元のすぐ側で聞こえた。

 そして、首あたりに違和感を感じ、麗奈はそこへ視線を送る。

 すると、そこにあったのは――


「ゆ、雄也くん……?」


 もうすっかり見慣れた雄也の、男の子らしい腕だ。

 その腕は首と胸の間あたりを、ぐるっと一周巻いている。

 ――いわゆる、バックハグの形で。


「……ごめん、やっぱり不安。時間が経つにつれて、麗奈を取られたくないって思っちゃう」

「……え、あ、そ」


 あまりの衝撃に言葉が出ない麗奈を傍目に、弱々しい声で雄也が言った。


「……悪いな。麗奈にも『自信持って』って言われたけど……やっぱり無理だ」

「ゆ、雄也くん……?」

「……少しだけ、こうさせてくれ」


 それは、今にも崩れそうな程に脆弱な声で、麗奈の耳元へと届く。

 自分の頬を真っ赤に赤らめて、その言葉を受け入れる。

 が、キュンキュンが収まらない。


「……分かりまし、た」

「……」


 胸が程よくついていて、良かったと思う。

 心臓のドキドキがバレない体の形で良かったと、心から思う。

 対して雄也のドキドキは、背中を介して伝わってくる。でも、それは麗奈とは違うベクトルのドキドキだ。 

 きっと今、雄也は不安で仕方ないからこうしている。緊張の原因だって、「陰キャだから」なんて理由では無い。そんな事は、コンビニの帰りの時点でも確信していた。

 だから、安心させる為に、『お兄ちゃんだけの妹だよ』と言外で伝える為に、決意を固めたのに。

 ――結局、またキュン返しされてしまった。


「……ごめんな、情けないお兄ちゃんで」

「……い、いいです、はい。私も……取られたくない、から」


 また、よそよそしくなってしまう。

 でも、雄也のせいだ、こればっかりは。キュンを感じないなんて無理すぎるのだ。

 そうして、麗奈はおもむろに、自分の首あたりに巻かれた雄也の腕に、自分の手を添えた。

 そして――


「――もう少しだけ、してよっか。そしたら、二人で一緒に行きましょ......じゃなくて、行こっか」


 何とか羞恥を抑えて、優しく、ただ優しく微笑みながら、雄也へとそう伝えた。

ひとつ分かったことは、すごく、すごーく安心した。

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