第5話 お目覚めは、マドンナの声で
五月の気温は、何とも心地良い。
暑くもなければ寒くもない、まさに理想の気温だ。
掛け布団一枚を身に被り、その心地良い気温を感じながら、雄也は目を覚ます。
「……」
見慣れた天井、見慣れた電気、見慣れた部屋。
普段から生活しているこの家には、今日も今日とて、いつもと変わらない景色が――流れていない。
「――もう……起きてっ。朝だよ」
眼前、制服を着ている麗奈から、拗ねたような声がかかった。
時刻はまだ7時ちょうど。
少し早い気がするが、それでも美しい銀髪と顔面は健在で、いつも学校で会うはずのマドンナがそこにいる。
「……おは、よう」
その新鮮すぎる光景に驚きと緊張を抱えながら、何とか言葉を振り絞ると、麗奈は更に怒ったような顔をした。
「おはよ。って、一回で起きてくれない?」
「はい、すいません」
「もう」
相変わらず良い香りを漂わせながら、頬を膨らませながら怒る麗奈。
その香りのせいで、全く怒りが伝わらない。
しかもわざわざ、起こしに来てくれたらしい。
「……夢、じゃないよな」
麗奈が部屋を去った後、自分の頬を叩き、現実世界に意識があることをしっかり確認する。
寝癖で立った髪の毛にも、しっかりと感触があったので、どうやら本当に夢では無さそうだ。
好きな人から起こされる朝はこんなにも気持ちいい。ドMとかでは無い。
高揚感から、いつもより格段に軽く感じる体を起こすと、「いってきます!」と、1階から麗奈の声が聞こえてきた。
「……早すぎるだろ」
まだ7時を過ぎたばかりだ。
雄也達が通う『
が、麗奈が妹になる前に持っていた『しっかり者』のイメージは、こういう部分から来ているんだろうと結論付け、1階に降りた。
「おはよう、雄也くん」
「おはようございます……」
目を擦りながら、祐介と会話を済ませる。
昨日までは居なかった父親が出来たことに、何とも新鮮な気持ちになった。
「雄也、はやくご飯食べちゃいなさい。麗奈ちゃんはもう行ったわよ」
「はーい」
次にかかるのは、聞き慣れすぎた母親の声だ。
相変わらず耳に響く声で、この声を聞くと本能的に目が覚める気がする。
気がするというか、覚めている。
テーブルには既に朝食が用意されていたので、雄也は着座して食べ始めた。
「祐介さん、麗奈ちゃんって昔からあんなに偉い子だったんですか?」
真理子は洗い物をしながら、コーヒーを嗜む祐介へと質問をした。
「そうだね。僕も『偉すぎる』って思う程には偉いよ」
「ふふ、やっぱりそうなんですね」
「さっきも自分から雄也くんを起こしに行ったし、お世話上手なのかもしれないね」
「あら、良いお嫁さんになれますね。麗奈ちゃんは」
お互いに微笑みながら、両親が会話を交わす。
一つ、聞き逃せないことがあった。
――自分から……だと……?
てっきり、父親か母親に「雄也を起こしに行ってきて」みたいな事を言われたのかと思っていたが、自分からだったとは。
驚きと共に、一気に喜びが込み上げてきた。
「……雄也、なんでニヤけてるの?」
「……え、あ、なんでもない!」
顔に出てしまっていたらしく、真理子に指摘されるも何とか誤魔化す。
多分誤魔化せていない気がするが、祐介が微笑んでいるので大丈夫だろう。
そして、テンションの高い朝ご飯を食べ終えると、朝の最低限の準備を整えてから制服へと着替えた。
◇◇◇◇◇
「よっ、雄也」
「おぉ、おはよう」
教室に到着し席に着くと、すぐに涼太が駆け寄ってきた。
「今日も来てるぜー、うちのマドンナさんは」
そんなことは、誰よりも理解している。
というか、出たタイミングだって分かっているし、何なら朝の目覚まし代わりに麗奈の声を聞いたぐらいだ。
とはいえ、そんなことは口が裂けても言えないので誤魔化すことにした。
「そ、そーだな。確かにいるな」
「……なんだお前、急によそよそしいな」
「え、そうか?」
「昨日はあんだけ熱い視線送ってたんだから、そんくらい気付くぞ」
「熱い視線ってなんだよ……」
「なんか、慣れたって感じがするな。まあ、気のせいか!」
危ない所を言及されそうだったが、何とか自己完結してくれたので「ふぅ」と心の中で深呼吸をした。
「今日も"麗奈っち"の所行こうや!」
「そうだなあ……って、馴れ馴れしく"麗奈っち"って呼ぶなよ!」
雄也のすぐ傍で、クラスメイト達のそんな会話が展開されていた。
マドンナ・麗奈の元には、定期的に男の子が寄っていく。
好印象を与えたい人や会話がしたい人、シンプルに顔が見たい人など、様々な理由が存在しており、それがより一層、マドンナと呼ばれる説得力を増させていた。
無論、陰キャの雄也は、そんな事を一度もしたことが無い。否、出来ない。
「麗奈ちゃんは今日も可愛いねー! さすがマドンナ!」
クラスのおちゃらけ代表が、大きな声で麗奈へと言葉を向けた。
それに続き、周りの男子が「よっ、マドンナ!」と声をかけている。
「……意外と大変そうだよな、あれ」
そんな景色を目の当たりにして、雄也は思わず呟く。
言ったことが無く、見ていることしか無い雄也からすれば、そう感じるのも確かだった。
言われている本人の表情は、こちらからは見えない。
代わりに見えるのは、美しい銀髪と白い首筋だけ。
まあ、「マドンナ」なんて言われたら、普通は嬉しいのだろう。女の子からすれば最大級の褒め言葉だし。
――が、麗奈は違った。
「――ごめん、ちょっと静かにしてほしい」
静かな怒りと、少し落ち込んだような声色を、麗奈は発する。
「嬉しくねーのか……?」
とはいえ、麗奈の表情が見えない為、涼太には、それが分からなかった。
雄也は――何となく、直感で理解している。
昨日、ちょっかいをかけて、軽く怒られた時と同じ雰囲気が漂っているからだ。
「まあ、言われ過ぎるのもしつこいだろうし。七瀬さんの気持ちも分かるよな」
「……んだ雄也、かっこつけてんのかお前」
「ち、ちげーよ。普通にそう思うだけだ」
「ほう。じゃあマドンナに言ってこい」
「……無理だ。それは」
家では無く、ここは学校。
陰キャである自分が、わざわざマドンナを助けたらどうなるかなど分かりきっている。
クラスにはバカにされるし、多分家に帰ったら麗奈にもブチギレられるだろう。
そんなことを考えていると、いつの間にかおちゃらけ代表と麗奈の会話は終わっていた。
◇◇◇◇◇
「じゃあ、また明日な雄也!」
「おう、じゃあね」
帰りのホームルームが終わり、涼太は部活へと向かった。
それを見送ってから、雄也も教室を出る。
麗奈の姿は教室内には無いため、既に帰路についているのだろう。
夕焼け道を一人で歩きながら、麗奈のことについて考えていた。
「……なんで落ち込んでたんだろう」
今日の朝、男子達に「マドンナ」と言われた時、麗奈は少し怒気を含んだ雰囲気と、落ち込んでいるような雰囲気を持っていた。
怒ることについては理解できる。
あれだけしつこく言われれば、多分誰だって嫌な気持ちになるし、腹が立つからだ。
だが、落ち込む理由が分からない。
「可愛い」や、「マドンナ」という言葉は、そもそも負の言葉では無いし、思いっきり褒め言葉だ。
からかっていた男子達も、バカにしている訳では無かったし、本心からその言葉を浴びせていた。
だがそれは、麗奈自身が一番分かっているはず。
なのになぜ――
「……は、え?」
歩きながら頭を巡らせ、曲がり角を曲がろうとした瞬間、衝撃的な光景が目に入った。
――麗奈が、複数の男子に囲まれている。
そして何より、麗奈は帰りたそうにしているのにも関わらず、男子達がその道を塞いでいた。
決して見間違いなどでは無い。
良い意味でも悪い意味でも、その銀髪は目立つし、分かりやすい。
なんせ、麗奈のトレードマークとも言える位だし、その上で目を凝らしても、確実に麗奈だ。
そしてその周りを囲む男達は、ピアスを開け、見るからにチャラい格好をしている。
とはいえ、ただの友達かもしれない。
が、今日の麗奈を見ると、そうとも思えない。
幸いにもこちらには気付いていない為、曲がり角から様子を見ることにした。
「なあ、遊ぼうって。そんなに可愛いんだからさ」
「それな〜。マドンナみたいな顔しちゃって」
「……」
黙り込む麗奈の顔は、恐怖よりも、やはり落ち込みが強かった。
この状況で、恐怖よりも落ち込みが勝つ程の理由があるのだろうか。
……否、そんなことを考えている場合では無い。
――確実に、麗奈はナンパされている。そして、絶対に友達では無い。
「なんで黙るんだよ。行こうよ」
「彼氏とかいないんだろ? じゃあいいじゃん」
「……」
尚も続く男からの言葉に、麗奈は黙り込んでいる。
こういう時、陰キャの雄也には対処法が分からない。
あんなにチャラい男に強く言える訳も無いし、言ったら言ったで、もしかしたら喧嘩になるかもしれない。
もう一度言うが、それは陰キャの雄也が考えることだ。
――"麗奈の兄"としての雄也は、微塵も迷わずに、その男達へと足を進めた。
「おーい、遊ぼ……って誰だよ、あいつ」
チャラ男の一人が、歩いてくる男に向かって言い放つ。
その言葉に釣られ、麗奈もその男に視線を送ると、足を震わせながらこちらに向かってくる――雄也、否、兄がいた。
「……桜木くん」
ポツンと呟く麗奈の言葉は、雄也には全く届いていなかった。否、頭が真っ白な雄也には、聞こえなかった。
とにかく、好きだという気持ちと、麗奈の兄という誇りだけで、その足を進めている。
小刻みに震える膝、指先、手。
ビビり、怯えている――でも、妹を助けるために。
何せ、雄也の兄のイメージ像の中には「妹を守る」というのがあるのだから。
――そして何より、想い人が困っているなら、一人の女の子が困っているなら、助けなけらばならない。
その気持ち一心で、雄也は麗奈の元へと向かった。
――――――――
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