ラヴィリアのためのエチュード

南沼

***

「時間樹と呼ばれています」


 ガイドが額の汗をぬぐいながらそう言って撫でるのは、大人5人が手を繋いでようやく胴をひと回りできる太さの幹だった。高さは、2階建ての私の屋敷をいくらか超えるほどあろうか。

 ごつごつとした荒い表皮の幹から四方八方に延びる枝に、常緑樹特有の肉厚の葉が密集している。

 ただひたすらに大きいことを除けばなんら変哲のない一本の樹木に過ぎないそれが、なぜ時間樹などという名を持つのか。

浅黒い肌のガイドが話す現地訛りの強い英語には、何度も同じことを繰り返して染みついた文章を話すときに特有の滑らかさと、独特の抑揚があった。


「樹齢は250年ほど。記録に登場したときはこの半分くらいの大きさだったようですが、生長するにつれその奇怪な性質が明らかになりました」


 生長の速度が、その年々によって大きく異なるのだという。だがそれだけではない。記録の形がスケッチから写真へと変遷してから、いよいよは明らかなものとして人々の耳目を惹いた。


「信じがたいことにこの木は枝葉を減らしたり、幹の高さを縮めたりします。それも、人がふいと目を逸らしたその隙に、形を変えるのです」


 この木は枝葉を3次元方向のみならず、時間方向に沿って気ままに伸ばしている。そういうことらしい。

 試しにひとところをじっと見つめ、枝の形を目に焼き付けてから何度か瞬きを繰り返したが、何も変化は見られなかった。ガイドが笑う。


「もう少し辛抱強く待っていれば、あるいは」


 私は私たちに影を落とすその木の傍に立って、そのてっぺんを見上げる。

 見上げて、彼女に、ラヴィリアに思いを馳せる。


***


 とはいうが、本当に女性だったのかどうか、私には最後まで分からなかった。人間であったのかどうかすら。

 若々しいオリーブを思わせる艶のある髪とは対照的に、肌は緑がかった茶色をしていて硬く、深い皺がいくつも谷を作っていた。手足には、不自然なほど長い指が6本ずつ。眼はひとところを見据え、どのような感情やニュアンスも表に出すことはなかった。一日にグラス一杯ほどの水だけを飲み、それ以外は黙って座っているか何の目的も感じさせない緩慢な動作で部屋を歩き回っているか、もしくは遊戯室ボールルームでピアノを弾いているかだった。

 そして半年ほどして、忽然と姿を消した。その時も彼女は、ピアノを弾いていた。


***


 もとはといえば、隣の敷地に住む老夫婦が困って相談にやってきたのだった。曰く、知らない女が突然玄関先に現れ、ものもいわずにただ立ち尽くしていているものだから困っていると。

 夫婦はどちらもひどく高齢で物忘れも多く、ために私も最初は聞き流していたのだが、連れてこられた彼女の姿を見て確かにこれは尋常の出来事ではないと思った。


「最初は、ねえ、その……乱暴でもされたかと思ったのよ」


 老婦人はそう言った。現れた時は、まるでぼろ布のような服をまとうばかりだったのだそうだ。身に着けている簡素なドレスは、夫人の若いころのものだという。


「でも魂が抜けたみたいになんにも喋らないし、見た目も普通じゃないし」

「そうですか、彼女はこちらで預かりましょう。あとはよしなに」


 面倒ごとは引き受けるという私の態度に、彼らは目に見えて安堵し、何度も礼をいって去って行った。まあ、田舎貴族の役回りなど、そんなものだ。

 ちらりと彼女に目をやったが、やって来たときそのままの姿勢で、微動だにせず立ち尽くしていた。

 ラヴィリアという名は、その時私が名付けた。


***


 ラヴィリアがたったひとつ、何らかの能動的な動きを見せたのが、ピアノを弾く時だった。ある時、黒く艶光る筐体に注がれる視線に気づいた私が、蓋を開けて彼女を誘った。それが始まりだった。

 最初は右の手で一音ずつ。しかし、へたくそな私の手ほどきを経てすぐ、何かが彼女の中で花開いた。

 運指はでたらめで、ひいき目を入れたとて少しばかり弾けるという程度のものだ。それでも、彼女がただひとつなにがしかの意思とともに打ち込むその行為だけが、私の彼女に対する認識を人間たらしめた。

 一度、売れない作曲家の知り合いに金を払って、彼女の為の曲をひとつ、作ってもらったことがある。30小節にも満たないような短い練習曲エチュードだが、彼女の左右6本ずつの指にしつらえて作ったものだ。私の奇妙な注文に作曲家は幾分訝し気な顔をしていたが、挑戦心をいたく刺激されたとみえて1週間ほどで書き上げて寄越した。

 ラヴィリアはその曲を大層気に入った様子だった。何度も繰り返し弾き、あまつさえ声を載せた。それも、歌ではない。電気信号から変換した音声に乗るノイズのような声。

 あまりに奇妙なそれは、彼女の喉から漏れ出てくる音だとにわかには信じがたかったほどだ。


 いや、やはりそれは歌だったのかもしれない。

 彼女が声を発するのは、そのエチュードを弾く時だけだったから。


***


 そもそもラヴィリアは、早逝した姉の名だ。

 15を迎える前に、病で倒れた。

 良く笑う子供だったが、亡くなる前は薬のために眠っているか痛みに呻いているか、死への恐怖にさめざめと泣いているかのどれかだった。かつてふくよかな丸みを帯びていた頬は痩せこけて不吉に色褪せ、艶やかだった巻き毛は水分を失い乾き果てていた。

 別れを惜しむよう、両親や幼い私にも愛していると事あるごとに繰り返し、その度に両親も私も愛していると応えた。両親のその言葉はきっと真実だろうと思われたが、私についてはそうでもなかった。というのも、姉が息を引き取ったとき彼らはこの世の終わりのように嘆き悲しみ涙を流したが、私は両親の振る舞いを真似る必要があるという幼少期にありがちな直感だけを頼りにそうしたからだ。最も身近な家族の死にいささかも痛痒を覚えない自身の心の在り方を私は遠くから他人を眺めるような心持ちで観測し、それからの人生も変わらずそのように在り続けた。


 私は姉をきっと愛してはいなかったのだと思う。両親も祖父母も友人も、誰一人として。

 自身の欠落をようやく実感として得られたのは、姉の名を付けた異形の女が姿を消してからだった。

 もう一度会いたかった。

 まだ彼女の弾くピアノを聴いていたかった。

 せめて別れの時を惜しみたかった。

 喪失感に耐え切れなくなってただ窓の外を眺めたり、在りし日のささいな出来事を心の中で反芻しては慰めとする時間を、ようやく私は自分の人生に必要とするようになった。


***


 その日も、ラヴィリアはピアノを弾いていた。何度も繰り返して弾くその曲に、私もまた飽くことなく聞き入っていた。正午に差し掛かろうという頃だったのは覚えている。冬場とあって太陽は中天よりはるか低く、それが窓の外から直に差し込む眩しさにたまらずカーテンを閉めようとしたからだ。

 立ち上がって部屋の隅まで歩いた時不自然にピアノの音が途切れ、珍しくったのかと思って振り向いた時にはもう、いなかった。

 途絶した低音の余韻すら残る空間に、ただ私だけが取り残されていた。


***


 時間樹の話を聞きつけ、無理をおして現地まで渡航したのは、もしかしたらという思いがあったからだ。

 任意の時間方向へ移動できる生物。それが、ラヴィリアという奇妙な女の正体ではないか、そう私は直感していた。

 何の突拍子もない思い付きではあった。そもそも時間樹などというものが荒唐無稽な眉唾もの、客寄せのための見世物のような話である。しかしいくつもの論文を取り寄せて読みこみ、それが長い時間をかけた綿密な観測と考察を経た結果としてそう結論せざるを得ない現象であるということがいよいよ理解できるに及んで、私は居ても立ってもいられずトランクに荷物を詰め込んで海を渡った。

 実物を見たものの残念ながら姿かたちを変えるところを見ることは叶わなかったし、ラヴィリアとの再会につながる直接な何かがあった訳ではない。

 しかし、時間を超えることのできる生物は存在しうる。その生物の実存を肌で感じることができただけでも、この旅には大きな価値があった。

 

***


 やはり大洋を隔てる旅は身体への負担が小さくなかったようだ。あれからずっと、臥せりがちの生活を送っている。

 私ももう長くない。母が早くに亡くなったのは心労のためだが、父と姉の寿命を縮めた病は、私にも受け継がれこの身を深く蝕んでいる。

 治療について、医者はもう何も言わなくなった。鎮痛薬モルヒネで痛みを抑えるのが、今の精一杯だ。


 腹の奥がキリキリと痛む。吐き気がして息苦しい。立っていられないほどに体が怠い。

 使用人に命じて、モルヒネを打たせた。「いつもより多めに」という指示に使用人は躊躇っていたが、じっと目を見つめると諦めたように注射器を取り出した。


 そしてベッドに横たわり、私は目を瞑る。


***


 音。私は音について考える。

 それは空気を媒介として伝わる振動だ。時間と共に拡散し、伝播する。

時間。連続にして不可逆。点在や遡行を許さないもの。

 音は、時間の括りに縛られているとも言い換えることが出来る。

 もしラヴィリアが本当に時間の流れを行き来できるのだとしたら、そのような生き物がいるとしたら、彼らにとって音声による会話はひどく不完全で窮屈で、不便なものであるかもしれない。


 本当に?


 時間。我々にしてみれば大河の流れにも等しいもの。音は、音楽は、ただ流れにそって下ることをしか許されていないのだろうか。不連続に存在すること、遡ることは、本当に不可能なのだろうか。

 出来ないのであれば、なぜ私の耳にあのエチュードが届くのか。

 今、まさに今だ。

 時を隔て、場所を隔てて、伝わる音。

 確かに聞こえる。ラヴィリアの十二指が奏でる、あの曲が。電気的なノイズにも似た、彼女の歌声が。

 それだけではない、歌声も聞こえる。女の、高い声。忘れようもない、姉の声が、重なる。

 何を歌っているのかは分からない、聞き取ることが出来ない。ただそれを、それらの音の重なりと連なりを、私は美しいものとして認識する。

 ラヴィリア。私が愛した女。死んだ私の姉。

 私の前から消えた2人。私に美しい音色を届ける2人。

 ラヴィリアは死んだ。ラヴィリアはどこかへ行った。

 私は死ぬ。私はどこへ行く?


***


 思考は千々に飛び、乱れる。

 意識が途切れる。

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ラヴィリアのためのエチュード 南沼 @Numa_ebi

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