第3話 言語化。

 写生が終わると紗季がいつものように話しかけてきたが、紅香はうまくあいづちが打てなかった。


 どうしても声が沈んでしまい、さすがの紗季も「どうしたの?」と心配してきた。


 きちんと言語化できたなら気持ちを伝えたが、できないため「なんでもない」と返すしかない。


 紗季は納得してない表情だったが、追及するのも雰囲気が悪くなると判断したのだろう、


「ちょっと寄るところがあるから」といつもと違う分かれ道で「じゃあまた明日」と手を振って帰っていった。


 とぼとぼと足取りも重いまま家に着き「ただいま」と玄関を開ける。


「おっかえりー! 今日のご飯は餃子だよ!」


 母がキッチンで餃子のタネだろうボウルに入った合いびき肉とニラを混ぜていた。


 今どきの母親で着ている人は他にいないのではないかという昔ながらの割烹着姿だ。


 少しふくよかな体型が定食屋の女将さんっぽい。


「皮包むの手伝おうか?」

「お願いしようかな。手洗ってきな! うがいも忘れずにね!」

「もう。ちっちゃい子じゃないんだからわかってるよ」


 学校では見せない親子ならではの軽快なやりとりのあと、部屋に荷物を置いてから洗面所で手洗いうがいを済ませてキッチンに行く。


 母は既にタネを皮に包む作業を始めていた。

 紅香もスプーンでタネをすくい、皮の上にのせていく。

 もくもくと作業を進めていたが。


「紅香、なにか嫌なことでもあったのかい?」


 さらっとした口調で、いかにも心配していますという重苦しさはなかった。

 だから誤魔化してもよかったのだろうが。


「どう話したらいいかがわかんない」


 母は「そうかい」とだけ寄こして深堀はしてこなかった。


 だからこの話題は終わったのだと紅香は思っていたのだが。


「ただいまー」


 玄関を開けて入って来たのは紅香の兄だった。

 現在高校一年生の十六歳だ。


 小麦色の肌をしていて角刈りのいかにもスポーツ得意ですといった外見をしている。


 だが巷で聞く「脳筋」とは無縁で、毎年最高学府に進学する生徒が何パーセントもいる偏差値七十超えの高校で上位をキープしている「文武両道人間」だ。


「紅香、兄ちゃんに話聞いてもらいな」


 母の言葉に紅香が「えっ」とびっくりしていると、兄は「なんだ? 悩み事か?」と眉間にしわを寄せる。


 紅香は兄が自分を可愛がってくれているのを知っている。

 もしいじめだなんだと誤解したら小学校に突撃してしまうかもしれない。


「そんな、聞いてもらうほどのことじゃないよ」

「そんなこといって。沈んでるの丸わかりだよ」


 さすがに生まれた時から毎日めんどうを見てくれている母にはわかってしまう。


 だが彼女は同時に自分ではフォローできないことも理解しており、兄に。


「紅香、なんかあるけど言語化できないんだってよ。あんたなら上手く引き出せるだろ」


 と託した。

 母は兄を認めている。


 紅香は庇護対象だが、兄は世間の荒波をともに歩む戦友なのだ。

 その事実が紅香はときに歯がゆく感じている。


「餃子もあとは焼くだけだ。手洗って大人しく兄ちゃんから取り調べを受けな」


 母の言葉に兄は「尋問じゃないんだから」とツッコんだ。


 母は「なにがなんでも吐かせなきゃいけないって部分は一緒だろう?」などとうそぶく。


 兄はやれやれと苦笑し、「じゃ、一緒に手洗いに行くか」と洗面所へと紅香の背中を押した。


 つつがなく手洗いを済ませ、兄の部屋で「尋問」を受ける。


「誰かに嫌なことをされたり言われたりしたのか?」


 兄に「いじめられた」などと誤解をさせないよう、紅香は熟考して言葉を吟味する。


「嫌なこと……ではないかな。ただ……こう……悲しかった? ような……」


 口に出して初めて自覚ができた。

 そう、紅香は悲しかったのだ。


「どうして悲しかった?」


 兄の続けての質問に「わかってもらえなかったから」と答える。


「ちゃんと言語化できなかったから説明できなかったってことかな?」


 紅香は「さすがお兄ちゃん。そう、そんな感じ」と勢いづく。


「どんなシチュエーションでどんな会話だったのか、くわしく話せるなら話して欲しい」


 兄の要求に応え、紅香は赤い絵の具が残り少なかったこと。

 それに伴いいろいろな感情が沸き上がってきたことを語った。


「なるほど。紅香は好きな色の絵の具が減ったことで『大切なものがなくなっていく喪失感』や『時の流れの残酷さ』に思いを馳せてしまって切なくなってたんだな。そしてそれを説明しきれず軽く流されたのが悲しかったと」


 兄の言葉に「そう! そうなの! お兄ちゃんスゴイ!」と自分より自分のことを理解している事実を手放しでほめたたえた。


「まあ、紅香より長く生きてるからね。似た経験もあったしなぁ」

「似た経験?」


 紅香が大きくまばたきして兄を見つめる。


「ちょうど紅香と同じ年の頃だったよ。僕は他の男子よりちょっと遅れているというか、幼かった。みんなはクラスの可愛い女子に惹かれたりしていたけど、僕はまだ母さんが一番好きだったんだ」


 紅香は優秀な兄も自分と似たところがあるのだとわかり、少しうれしくなる。

 そんな間にも話は進む。


「その日も母さんと一緒だったんだけど、目の前にチョウチョがひらひら飛んできてね、なんと手の中に閉じ込めるのに成功したんだ。数メートル先を歩いていた母さんの元へ一生懸命走って行って、手の中のチョウチョを見せようとしたけど……途中で転んで逃がしてしまったんだ」


 いかにも子供のやりそうなことだが、兄にもそのような無邪気な頃があったのかと紅香は意外に感じた。

 兄は続ける。


「僕は母さんに『チョウチョいたの!』って必死で伝えたけど、母さんは『そんなことより怪我は?』って聞いてきた。僕はチョウチョを見せたかった気持ちを『そんなこと』呼ばわりされてひどく傷ついてわんわん泣いてしまった。母さんはすりむいた膝が痛かったんだと誤解してたみたいだけどね」


 紅香は「お兄ちゃんも悲しかったんだね。私はこうしてお兄ちゃんに話を聞いてもらえて気持ちが軽くなったけど、お兄ちゃんはどうやってその気持ちを乗り越えたの?」と尋ねた。


 兄はふっと懐かしそうに微笑み。


「ちょうどその頃、教育実習生が来てたんだ。学生らしくない、初々しさのない人だったよ。でも、子供の気持ちはよくわかってた。結局あの人は先生になったのかな」


「え! 教育実習生ってことは先生になるために体験学習してるんじゃないの?」


 紅香は教育実習生は全員先生になるものだとばかり思っていた。


「免許は取れても採用されなかったり、教育実習で現実を見てあきらめたり、とかいろいろあるみたいだよ」


 兄の言葉に「へぇ~」と感心する紅香だったが。


「教育実習生の人はお母さんと何が違ったんだろうね」


 兄は意味が読み取れなかったのか小首をかしげる。


「お母さんがわからなかったお兄ちゃん……子供の気持ちが、なんで教育実習生さんにはわかったのかなって」


 兄は数秒考え込んだ後こう口にした。


「母さんより若かったから……かな。僕とは十歳しか年が離れてなかったし、自分の子供時代を覚えていたんだろう」


「教育実習生さんも同じような体験をしたってこと?」


 紅香は違う地域や時代に育っていながらそんなに似通うことがあるのだろうかと疑問を抱いた。


「そうだね。別にこんな体験は珍しくない。子供のほぼ全員が経験していることだと思うよ」


 紅香は「えっ」と身を乗り出した。


「全員体験してるのに気持ちがわからなくなるの? どうして?」


 兄は紅香が今まで目にしたことのない表情をした。

 なんだかあきらめているような、遠くを見るような、そんな顔だった。


「毎日いろんなことがあるからだよ。おもちゃ箱の中のおもちゃだって、新しいのはよく使うからすぐ取り出せるけど、昔のものは奥底にしまってあって存在すら忘れがちだろう?」


 紅香は滝に打たれたかのような冷たい衝撃を覚える。


「大人になればなるほど今の気持ちが埋もれていくっていうこと……?」

「そうだね」


 兄は若干あわれむような、心配そうな瞳で紅香を見ていたがなぐさめの言葉はついぞかけることはなかった。


 もしかしたら、兄もさきほどまでの紅香同様「言語化できない」気持ちに襲われていたのかもしれない。

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