36.退場してもらう



「ラルフ、もういい離せ」


 と言いつつ、俺を羽交い絞めにしているラルフの左胸に触れる。

 一昔前なら初秋の日差しであったろうが、真夏日が続いていることは好都合。相手が薄着であれば――


「イッ?!」


 それほど痛みはない、と思う。どちらかと言うと、驚かしたに過ぎない。

 肋骨の間に指を這わせ、指の腹でもって軽く押し上げただけ。掴み技、寝技のある競技で嫌がらせとして用いられる小技を駆使してみた。

 相手がラルフだから通じた、とも言える。スチュワートであれば、それとなく防御していても不思議ではない。

 奇妙な痛みに驚いてラルフの手が離れたことで、俺は服装の乱れを正す。



「相も変わらず、君は器用な真似をする」


「闘争を知らぬ者に殺気を当てても意に介さないでしょうし、怒りをトリガーにして言葉に乗せてみました」


 そも、本日の内見に巌長氏がやってくるなど、道長さんからは何も聞かされていない。筆頭秘書である橘氏を指名したのは俺の我儘ではあるが。


 巌長氏は闘争を生業とする人間ではないため、弱い殺気を当てても一切動じてはくれない。かといって、強い殺気を当てるのは危険極まりない。

 齢九十に近い高齢なため、心不全など起こされては堪らない。だから工夫を凝らす必要があった。

 ただ、ここにスチュワートが不在であるのは幸いだった。居たら今頃は大目玉を喰らっていたことだろう。

 というのも、スチュワートからは殺気を制御する訓練を課せられているから。

 殺気というものは何気に探知され易い。俺は殺気以外でも視線を察知することは可能だが、スチュワートやラルフくらいの歴戦ともなれば、その大本を辿ることが可能だと言う。

 隠密行動を旨とするスチュワートが、殺気の制御を重視する理由でもあるだろう。


「失神している?」

「段階を踏んで徐々に強くしてみた」


「その結果がこれですか……失禁してしまっています。これではもう巌長様も戻られるほかありませんね」


 俺は今日橘氏に用があって、この場に同席していただいている。

 橘氏は本来であれば、多忙を極めるような人物である。それを、道長さんに無理を言い、お願いした次第である。余計な人員が附属していては困るのだ。


「気付けは?」

「俺は持ってない。いや――」


 左腕を軽く振る。

 仕組みとしてはスリーブガンと同等。仕込んであるブツがレールをなぞり、手元へと出てくる。

 一見すると扇子。鉄扇に見えなくもないが、これはスローイングナイフの収納デッキだ。そして、扇で言うと要の部分に細工がある。ここに、とある水溶液を内包している。


「それは!?」


「毒ではありませんよ」


 より正確に述べると……ジョロキアの成分を抽出した油。所謂はラー油。

 直接嗅ぐと鼻がやられる。ついでに言うと、目もかなりヤバいことになる。

 ナイフの先端を浸して投げれば、その傷は焼けるような痛みに襲われる。

 銃嫌いな俺が、何かにつけて銃を携帯させようと企むラルフとの心理戦に勝利するため用意した飛び道具。



「待て! 小娘を呼べ」

「ドロシーがアンモニアなんか常備している訳ないだろ」


「悪いことは言わない。叩いて起こせ」

「そうしましょう!」


 ラルフの助言に従った橘氏は、巌長氏の頬を叩く。最初は左の片頬を、次第に両側の頬を……。

 その際、巌長氏が持参した権利書の回収も忘れていない。


 それにしても、橘氏は巌長氏と同等の殺気を浴びた筈なのだが……全く動じる様子もない。まあ彼は要人警護も担う戦闘者なので、別段おかしくはないのかもしれないが。


 左腕の袖を捲り、デッキを元の位置へと戻す。

 捲った袖を元に戻す間、ふいにラルフの視線を感じる。


「何だ?」

「……何も」


 大体、民間人に擬態しているのに銃など携帯していては台無しも好い所だ。その点を理解しようとしないラルフに文句など言わせはしない。



「巌長様は屋敷へお戻りになられるとのことです」

「それはようございました」


「ですが……私の帰りの足が無くなってしまいました」

「安心してください。ちゃんと送りますから」


 アンディが。


「それで、この屋敷の賃貸契約は今も可能ですよね?」

「それはもう、道長様より仰せつかった通りに」


「後日改めて引っ越し作業をするとは思いますが、今日から入居しても?」

「ええ、構いません」


 ホテル住まいは気楽だが、あのホテルは毎度利用している手前、従業員との馴れ合いが面倒でもある。そこそこの役職の人間が、昔の知己というのも問題だ。


「もう住むのか?」

「俺の家の荷物も二トントラックが一台あれば事足りる。それも中を見てからだが、調度品なんかもそのままなんですよね?」

「はい。しかし何分古い物ばかりですから、買い替えを念頭に置かれますよう」


 詩織とドロシーへ向け、手招き。

 ただ、詩織の意識は屋敷へと向いており、こちらに意識を割くことはない。その代わり、常にこちらへと意識を向けていたドロシーは即座に気付いてくれた。



「橘さんにお願いしたいのは、何も屋敷の内見に限った話でもない。……美都さんに繋ぎを取って戴きたい」


「奥様にですか?」

「はい。美都さんへの正式な窓口は橘さんだけのみと伺っています」

「どのような御用でしょう?」


 巌長氏が同席していても変化の無かった橘氏の態度が豹変する。否、緊張を孕んだとでも言うべきか。

 巌長氏は道長さんの実父であり、当然道長さんも現在の当主である。だが、それは表層のこと。裏側は違う。

 西園寺本家を実質的に牛耳っているのは、西園寺美都という女傑。齢七十を過ぎて因子が萌芽した現役探索者であり、寿命の枷が外れた妖怪。

 また、西園寺本家の直系であり、あのサイコ女の母親でもある。


 ただし、俺は西園寺美都という女性に対し、サイコ女に向けるような嫌悪感はない。

 美都さんは、あのサイコ女の治療を試みた過去があると聞いている。婿入りした巌長氏が頑なに反対したことで、それは適わなかったとも聞いた。

 表向きは〝娘が精神異常者のレッテルを貼られることを嫌った〟ということらしい。それが建前でしかなく、巌長氏の種で生まれたサイコ女ともなれば、彼の立場が危うくなる。実際に、美都さんのご両親が存命の頃には幾つかの問題があったと、道長さんから聞かされている。


 そんな事実もあり、俺は巌長氏をあまり好いてはいない。

 今回のようにおかしなこと発言や行動を伴わない限りは、こちらから干渉したくない相手。


「娘を美都さんに会わせておきたいんです。コネは幾らあっても困るものでもないでしょう」


「娘さん?」

「はい、あの娘です。父親鑑定の結果、俺の子で間違いない。……この歳になって、父親になるとは思いも寄りませんでしたけどね」


「左様でございますか。ですが、何故今回に限り私を介して?」


 俺は今まで道長さんを介し、美都さんへのアポを取っていた。それを今回改めるに至った経緯は、誠に勝手ながら私事である。

 主に時間的な理由で。俺と詩織は探索者の実地訓練が控えており、今後剛が組み立てる計画に由っては暇な時間を捻出するのが難しい。

 ならば、俺たちの側と美都さんの側で、都合を擦り合わせる必要がある。一度会えば、それで終わりという関係にはしたくない。だから正規の窓口である橘氏を通すことに決めた。


「俺も娘も探索者見習いとなったのですよ。なので今後も良い関係が続けば、と思った次第ですね」


「わかりました。奥様へお伝えします。……しかし羨ましいですな。奥様や美咲様と同じ時を歩めるのですか」


 そう、あのサイコ女もまた現役の探索者なのだ。

 サイコ女の娘。西園寺クレアという名の、俺の一つ下の高校の後輩。

 クレアとサイコ女の見た目年齢は、もはや逆転している。

 出生に秘密のあるクレアは外国人の血が入っているため、そう老けては見えないのだが。それでも、どちらが娘か判らない程度にサイコ女は年齢不詳である。



「お父さーん! 中、見れるの?」


「ああ。これから案内してもらうよ。お願いします」


「ええ、お任せください」

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