8.戦後処理
反応こそ鈍いが意識もあると思う。
腕を掴んで引けば、田所さんも自力で歩いてくれた。
「様子がおかしい」
臼杵さんの下へ辿り着き、まず田所さんの事情を説明した。
その後は手洗い。ザックに詰めてある水を取ろうにも、私の両手は血塗れ。血には脂分も含まれているため、ヌルヌルしている。
「小坂さん、手を出してください」
「ありがとう、助かるよ」
佐藤さんが自身が用意していた水をじゃぶじゃぶと掛けてくれる。
二リットル入りのペットボトルの水は、私も今は意識が薄弱となっている田所さんも、各自が背負うザックに数本収納されている。監督役の臼杵さんも例外ではない。
収納されている物品は各自で詰め込んだ物も割合も異なる。
私の場合は二リットルの飲料水が六本と新品のタオルが三十枚。水は結構重い。膂力に劣る佐藤さんでは二本くらいしか持ち込めていないだろうに、その大切な水を私のために行使してくれている。
「あんた、普段は賢そうなのに……鳥頭なの? サキュバスは稀にだけど、精神に干渉する魔法を使うと言ったでしょう?」
「そんなことは百も承知だ。だから強めに揺すってる。でもこの調子なんだ」
意識がまともにない人間を殴るのには抵抗がある。だから両肩を持って強めに揺すったのだが、全く改善の余地も見られなかった。
「こんなのはこうすりゃいいのよ!」
パチン! と景気の良い音を響かせる平手打ち。
「待て待て待て待て、ここでは拙い。まず距離を置いて身を潜めないと」
「そういうことはもっと早く言いなさいよ!」
臼杵さんと佐藤さんが隠れていたのは見通しの良い通路でもなければ、拓けた空間でもない。田所さんが平然と入っていく、ショートカットの木々で出来た障害の中。
隠れてはいても安全とは言い切れない。ここはサキュバスとの戦闘領域のすぐ隣にあって危険に過ぎる。今も続々と血の臭いに誘われたモンスターが集まりつつある。
あちらもそれなりに騒がしくなっているため、多少大きな音を立てても恐らくは気付かれもしないだろうが万全を期したい。
「臼杵さん、血を拭い終わったら少し移動します」
「そうね。急ぎなさいよ」
お湯があるに越したことはないがそんなものはない。冷水ではないにしても脂分は落ちにくい。そこはタオルで強引に拭うとして、血と脂を拭ったタオルはビニール袋に入れ、全探連印のナマモノ専用の強力な消臭剤を放り込んだら固く口を閉じてザックに押し込む。
まずは移動が最優先。
田所さんは筋肉の付き方は立派でも、私に比べれば小柄ではある。先程は腕を引いて歩いてもらったが、ここでは足場が悪い。小脇に抱えて運ぶことにした。
移動を終えると即座に、私が汚してしまった田所さんの肩と返り血を浴びた箇所をタオルで抑え叩く。染み抜きだ。
少しでも血の臭いを抑える必要がある。でなければ、移動した意味がなくなる。
臼杵さんは、先程の続きを田所さんに処す。
田所さんの頬に、パチン、パチンと往復ビンタが加えられる。
「どういうことよ? 何で意識が戻らないの?」
私だってガクガクと勢いよく揺すったのに、田所さんの意識は戻らなかった。なのでサキュバスどうこうではなく、別の要因があるのではないか? と思ったのだ。
それでも臼杵さんの往復ビンタは止まない。止めない。
田所さんの瞳に再び光が宿り始めたのは、田所さんの頬が赤く腫れてきた頃合い。
「…………よもや人を斬れるとは……」
「あれは人間じゃない! モンスター、間違えてはいけない!
これは弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂だね。気が緩んだ瞬間に精神干渉を受けたんだ。サキュバス側としちゃ最期の抵抗だろうけど……見事に嵌ったもんだよ」
普段の田所さんの力強い意志の宿る眼力はなく、儚く揺れる瞳。
人間を斬ったのだと宣う田所さんを臼杵さんが即座に否定する。臼杵さんを含め、全探連の講師陣は二足歩行モンスターを人類ではないと否定している。当然、全探連という組織も。
平和な世の中にあって武術の維持は難しい。
日々の生活に余裕のある者と、その関係者でなければ生活に不必要な技術を重要視しはしない。結果、個人経営の道場経営は苦しい生活を余儀なくされる時代だ。
私の師範も大手空手道場の看板を掲げつつ、師範の家が代々独自に培ってきたであろう技術を私に伝授してくれたと思っている。
だから人間のようなモノを斬った試しもないし、斬れるとも思っていなかった。それをメイズという特殊な環境が現実のものとしてしまった。
田所さんの気持ちになって考えれば、そういうことなのだろう。
「あんた、人斬りに堕ちるつもりかい? まだ元気な嫁さんや家業を継いだばかりの息子もいるのにかい?」
「…………儂は……儂は……堕ちはせん!」
「じゃ、しっかりしな! 小坂さんがらしくもなく、心配してるよ?」
「……すまん」
「いやぁ、田所さんにも人間らしい部分が残っているんですね。私はてっきり妖怪変化の親戚かと思っていましたよ」
実際に田所さんが有する技術は、臼杵さんが言うように異常極まりない。あれだけの技術を得るために、何をどれだけ犠牲にしたかもわからないが。
「お前さんこそ、破壊神や技芸神の従兄でもおるじゃろ。なんじゃ、あの動きは?」
アクロバティックな踵落としは、重量物に振り回されることを前提にした対処法だ。どうせ振り回されるのならば、その反動を利用してやろうと思ったまでだ。
ただし、今のところ可能なのは縦回転の反動を利用したもののみ。横回転の反動の利用は非常に難しく、四苦八苦しながら取り組んでいるが今のところは成功した試しがない。当然のように斜め方向もまだ無理。無理やり縦回転に軌道修正するにもハンマーヘッドが重すぎる。
「調子が戻ってきたのならば何よりです。長々と呆けたまま戻って来ないようなら、私がぶん殴るところでした」
「お前さんに殴られたら儂の首が捥げてしまうわ」
意識を取り戻した田所さんだが、どこか無理をしているように感じられる。普段に比べ、やや口数が多いのも空元気のように見える。
しかしまあ、ここで私が何を言っても恐らく効果は薄いか、或いは皆無だろう。
しばらくはこのまま様子を見るしかないか。
「佐藤さんの出番はなかったね」
「はい、残念です」
「でも水は助かったよ」
「いえいえ」
水は全員が荷物として持ち込んではいるが数は有限だ。飲料水は元より、先程のように魔石採取後の洗浄にも利用する。とても利用頻度の高い物資のひとつ。
それを他人のために惜しげもなく提供してくれる。それだけで十分に有難い。その気持ちは正直に伝えておく。
佐藤さん自身が何も為せていないなどと、勘違いされた挙句に暴走されては困る。田所さんがおかしくなっているため、私一人ではカバーしきれない可能性すらある。
私たちのエゴに強引に付き合わせている以上、佐藤さんの安全は必ず確保しなければならない。なので暴走の兆候は出来得る限り排除しておきたい。
「サキュバスの下半身を放置したままなのと、盛大に撒き散らした血液の影響が出ているのでしょう。結構な数のモンスターが集まって来ています」
先程移動したのも木々の障害の内部ではあるが、確実に距離は離れた。
それでも木々の隙間から先程までの戦闘区域は目視できる距離にある。その様子を指摘しながら、田所さんにお願いする。
「意識が戻ったばかりで申し訳ありませんが、現在地の把握と進路の選定をお願いします」
「わかっておる。そう急くな」
ザックの肩ベルトに固定してあるコンパスでは、移動した際に南進した覚えもなのに現在地から見える先程の戦闘区域は北東に位置していた。最初は迂回しながらも真東を目指していたものだが、随分とズレ込んだようだ。
田所さんも本調子でないので、地図から現在位置の把握する作業や進路の決定には今少し時間を要するだろうか。
私は地図は読めても何気に方向音痴なので、このような仕事は向かない。
こういう特殊な技術が絡むことは出来る人、得意な人、やりたい人にやってもらうのが一番。
私はやれと言われれば出来なくはないが原則やりたくない。自信がないので、間違っていた場合の責任を負いたくない。
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「現在地は恐らくこの辺りじゃ。一度、南南東のこの辺りまで抜ける」
このメイズの地図はほぼ網羅されたものが全探連から支給されている。
〝ほぼ〟という理由は南西部分が埋まっていないため。チームの進路が東に向かっているのも、それが主たる理由だ。
「大きく迂回する、と。確かに、今更帰還するよりは進んだ方が楽そうです」
「目指す出口は変わらず東じゃ。直進した後に今一度進路を検討しようぞ」
進むも地獄退くも地獄ならば、進んで結果を出した方がいい。
もう少し東に進めば、地図上では中域を抜け出る。現在地の把握が正解であればの話だが、そこは田所さんを信頼するしかない。
「現在、放置してきたサキュバスの下半身争奪戦が起こっている模様。この喧騒に乗じて姿を晦ましましょう」
「うむ」
「はい」
「はいはい。あたしは何でもいいよ」
田所さんの言葉通りに現在地から南南東へ移動する。
移動の際に発生する物音には今回あまり拘らない。血臭に寄ってきたモンスター同士の争いが決着する前に、この場から逃走することが大前提だからだ。
どうせモンスターたちの関心は、サキュバスの下半身争奪戦が行われている領域に固定されるはずだ。
「ここからは東北東を目指す。急げば、移動しているモンスターにも気付かれまい」
「鼻先を掠めるつもりですか? 私と田所さんだけじゃないんだ。博打は止めましょうよ」
「いんや、もう少々猶予はある。急ぐぞ」
私と田所さんに監督役の臼杵さんまでは問題ない。
田所さんの体力は年齢を感じさせないお化けだし、私もこの程度の運動で息切れしてしまうほど軟弱な鍛え方をしていない。臼杵さんはそもそも移動しかしていない。
しかし、このチームには佐藤さんがいる。佐藤さんはもう息も絶え絶えだ。このまま走らせれば、どこかの段階で身動きが取れなくなる。
仕方ない。
深呼吸を繰り返し、息を整えていた佐藤さんの眼前に私は背を向け屈んだ。
「ど、どうしたんですか?」
「抱っこの方が良かった? でも抱っこだと私が走り難いから背負わせてね」
私は筋肉質であるものの、身長が百八十を超えている。相対的に細く見えてしまうが力はそれなりにある。背負う予定の佐藤さんは身長が百五十強、体重も五十キロくらいだと思われる。
ザックを前に抱えるの都合で、最初から佐藤さんを抱っこすることはできない。ザックよりは重いであろう佐藤さんには、背負うという選択肢しか与えられない。
重いものは抱えるよりも背負った方が楽なのだ。
しかしお姫様抱っこを夢見る女性は、私の人生経験上でもそれなりの数が存在した。ただし、それらは過去にお付き合いした女性の総数ではなく、友人知人同僚を多く含む。
それに、夢を見せることは何も悪いことではないだろう。
佐藤さんくらいの年頃であれば、そういった考え方があっても不思議ではない。
ただし、本当に実現するかは〝神のみぞ知る〟というやつだが。
「悪い男だよ、あんた。そんなだから変な女が寄って来るんだ」
何をおっしゃる、臼杵さん。
私は親切心と少しの遊び心で動いているだけだ。何も黒歴史を刻んでやろうなどという、悪質な悪戯を目論んでいるわけではない。
「お願いします」
ほら、佐藤さんは何の疑いも抱いていない。至って素直なものだ。
純真無垢な佐藤さんはこうして私の背に体を預けてくれた。
「臼杵さんはそんな調子じゃ婚期を逃しますよ?」
「うっさいわ、余計なお世話だよ! あんた、他人の婚期どうこう言える立場じゃないでしょ!」
「仰る通り」
やはり臼杵さんは私に纏わる諸事情を知っているようだ。
鎌を掛けてみれば、ほれこの通り。この人、本当に大丈夫なのだろうか? 守秘義務とか色々と……。
「大声を出すでない」
「ああああん、もう!」
「これ!」
「はい、すみませんねぇ」
「往くぞ」
「了解。あまり揺れないように走るけど、辛いようなら遠慮なく言ってね」
「行くわよ」
そもそも揺れないように走るなんて土台無理な話なので適当に言っておく。要は佐藤さんの限界が判れば、それでいい。
ただまあ、直接的な言葉を女性に向けるのもどうかと思う。
それも〝私の肩に吐かないでね〟などと絶対に言えはしない。
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