歪みの顕在化

文字が、溶けていく。


長谷川隼人の目の前で、本の背表紙に刻まれた文字たちが、まるで夏の陽炎にかかったように揺らめき、やがて液体となって棚を伝い落ちていく。それは黒いインクの滝となって、本屋の床に広がっていった。


「ここはどこだ」


隼人は呟いた。しかし、その言葉さえも空中で歪み、意味をなさない音の連なりとなって消えていく。


此処。此処とは何処か。本の匂い。紙の質感。インクの香り。それらが混濁して鼻腔を刺激する。ああ、そうか。本屋だ。今はバイト中だ。俺は此処に在る。


長谷川隼人。28歳。元漫画家志望。今は本屋のバイト。その存在は薄れゆく影のよう。


棚を整理する手が止まる。視線の先に並ぶ本たち。杉山伊吹。青山美佳。松永春人。かつての仲間たちの名が、背表紙から蠢く蛆虫のように這い出てくる。それらは俺の脳裏に食い込み、存在の根幹を蝕んでいく。


「俺だけが...」


言葉が喉元で凝固する。存在が希薄化していく感覚。空気中の塵芥と化して、風に舞い散るような錯覚。自我の輪郭が曖昧になり、周囲の景色に溶け込んでいく。


「長谷川君」


声が虚空を切り裂く。振り返る。店長の姿。しかし、その輪郭もまた、霞んで見える。


「新刊の準備を頼む」


「はい」


答える口が他者のもの。意識と肉体の乖離。自動人形のように体が動く。新刊コーナーへ向かう足が重い。まるで沼地を歩くかのよう。


明日も、明後日も、その先も。変わらない日々が続く。時間という檻の中で、俺は此処に在る。でも、此処に在ることの意味を見失っている。


バイトが終わる。外界は黄昏。喫煙所へ向かう足取り。いつもの場所。いつもの煙。いつもの味。しかし、その「いつも」が、俺を侵食する。


タバコに火をつける。深く吸い込む。吐き出す煙が、不思議な形を作る。まるで、文字のよう。だが、読み取ることはできない。空に溶けていく。俺の存在も、あんな風に霧散してしまえばいいのに。


「俺は此処に在る」


誰に言い聞かせているのか。自己なのか、それとも世界なのか。言葉は空虚に響き、意味を失う。


ポケットを探る手が、一枚の紙切れに触れる。かつて描いた漫画のキャラクター。夢を見ていた頃の自己の残滓。それは今や、色褪せた幻影にすぎない。


「あの頃の俺は...」


言葉が途切れる。しかし、何かが残存している。胸奥に。燻る何か。消えない炎。それは形を持たず、名状しがたい欲求として蠢いている。


帰路に就く。街灯が次々と点灯し始める。俺の影が不自然に伸長する。どこまで伸びるのか。やがて世界を覆い尽くすのか。あるいは、無に帰すのか。


突如として、強烈な光芒が視界を覆う。目蓋を開く。三つの光点。幻日か。それとも、現実が崩壊する予兆か。


灼熱が全身を包む。痛覚が神経を焼き尽くす。苦悶の中で、記憶が走馬灯のように蘇生する。


打ち切られた漫画。編集者の冷徹な眼差し。仲間たちの遠ざかる背中。自己の無力。それらが渦巻き、意識を侵食する。


「隼人、諦めるな!」


伊吹の声?幻聴か。それとも、自己の内なる声か。


現実に還る。街並みは一見して変化していない。しかし、自己の内部で何かが変質した。存在の輪郭が、僅かに鮮明になる。


帰宅。机に向かう。引き出しを開ける。スケッチブック。久方ぶりの触感。それは、失われた自己との再会のよう。


ペンを握る。手の震えは、恐懼ではない。昂揚だ。創造欲求の具現化。


「俺は此処に在る」


今度は異なる。言葉に強固な意志が宿る。


白紙。新たな物語の胚胎。漫画ではない。言葉による世界の再構築。小説?そう呼べるかもしれない。


筆を走らせる。走らせる。走らせる。夜が更けゆく。ペンは停止しない。


俺は此処に在る。此処で物語を紡ぐ。


死しても死に絶えぬ何者か。それが今、蘇生の兆しを見せる。俺の内部で、新たな宇宙が生成されようとしている。それは、言葉という混沌から秩序を紡ぎ出す創造の業。


存在の輪郭が徐々に明確になってゆく。しかし、それは完全な輪郭ではない。むしろ、常に流動し、変容を続ける不定形の存在。


俺は此処に在る。此処とは、創造の淵源。そこから、新たな世界が立ち上がろうとしている。


朝。目覚めた瞬間、意識が現実に引き戻される感覚。まるで深海から一気に浮上するかのよう。昨夜の創作の余韻が、まだ脳裏に残存している。


俺は此処に在る。だが、「此処」の定義が曖昧だ。部屋?世界?それとも、自己の内部か?


起床。鏡に映る自己。しかし、それは本当に「自己」なのか。輪郭が揺らぐ。顔が歪む。まるで、現実が溶解していくかのよう。


「俺は...」


言葉が宙吊りになる。自己同一性の喪失。存在の基盤が崩壊しかけている。


朝食。両親との会話。しかし、言葉が空虚に響く。意味を持たない音の連なり。コミュニケーションの形骸化。


「隼人、今日も本屋?」


母の問いかけ。答えるべきか。答えたところで、何が変わるのか。


「ああ」


単音節の返答。それで十分だ。これ以上の言葉は、ただ現実を固定化するだけ。


出勤。街路を歩く。周囲の人々の存在が希薄に感じられる。彼らもまた、自己の輪郭を失っているのではないか。皆、透明な影絵のよう。


本屋に到着。書架の間を縫うように歩く。本の背表紙が、無数の目となって俺を見つめる。批評的な眼差し。あるいは、憐憫の情?


「長谷川君、今日は新刊の陳列を頼む」


店長の声。しかし、その声もまた現実感を欠いている。まるで、別次元から漏れ聞こえてくるかのよう。


新刊を手に取る。表紙の文字が踊る。意味を成さない記号の羅列。そこに、昨夜の自分の創作が重なる。


「俺の言葉も、こんな風に見えるのか」


自嘲気味に呟く。しかし、その自嘲すら虚しい。


昼休憩。喫煙所へ。タバコの煙が立ち昇る。その形状が、俺の存在そのもののように思える。形而上的実体のない、儚い存在。


「おい、隼人」


声がする。振り返ると、そこには伊吹の姿。幻影か現実か。境界が曖昧だ。


「久しぶりだな」


伊吹の言葉。しかし、その「久しぶり」という時間感覚も、俺には遠い。時間の流れ自体が歪んでいる。


「ああ...」


返答する口が、砂を噛むよう。


「最近どうだ?まだ描いてるのか?」


伊吹の問いかけ。「描く」という行為。それは、俺にとって何を意味するのか。


「いや、今は...」


言葉が途切れる。昨夜の創作を話すべきか。しかし、それを言語化する自信がない。


「そうか...」


伊吹の表情が曇る。失望?同情?それとも、別の何か?


「俺の新作、読んでくれよ」


伊吹が差し出す単行本。その重みが、俺の存在を圧迫する。


「ああ...」


返事をする口が、他人のもののよう。


伊吹が去った後、再び仕事に戻る。しかし、意識は現実から乖離している。体は機械的に動くが、精神は別の次元を彷徨っている。


夕刻。帰宅の途につく。街路樹の影が、不自然に伸びている。それらは、俺の存在を飲み込もうとしているかのよう。


家に戻る。両親との会話。しかし、言葉が意味を失っている。ただの音の連なり。


「隼人、将来のことを...」


父の言葉が、宙に浮く。「将来」という概念自体が、俺には遠い。


「分かってる」


返答する口が、砂漠のように乾いている。


夜。再び机に向かう。ペンを握る手が震える。昨夜の続きを書こうとするが、言葉が出てこない。


「俺は此処に在る」


呟く。しかし、その「此処」が何処なのか、もはや分からない。


紙の上に、無意味な線を引く。それは、存在の輪郭を描こうとする徒労な試み。


窓の外を見る。月が不気味に輝いている。その光が、現実を歪めているかのよう。


「俺は...」


言葉が宙吊りになる。自己同一性の喪失。存在の基盤が完全に崩壊しかけている。


ペンを置く。紙の上には、意味不明な文字の羅列。それは、俺の存在そのもののよう。解読不能な暗号。


深夜。眠りにつく。しかし、それは現実からの逃避なのか、それとも別の現実への移行なのか。意識が溶解していく。存在の輪郭が、完全に消失する瞬間。


そして、新たな世界が生成される予感。それは、言葉という混沌から紡ぎ出される、未知の宇宙。


俺は此処に在る。此処とは、創造と破壊の境界。そこから、新たな「自己」が立ち上がろうとしている。

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