幻日アビス゛の神々へ

島原大知

幻日アビス゛の神々へ

我、ハセノオ・ハヤテは、天空界の一角で黙々と世界創造の槍を大壺の中を走らせていた。

天空界は、まるで桃源郷のように美しく幻想的な雰囲気に包まれていた。


輝く太陽の光が、神々の住まう空間を優しく照らし、至る所に咲き乱れる花々が、その美しさを引き立てている。

その中で、神々は各々の領域を与えられ、大壺と槍を手に心豊かに国生みに励んでいた。

天空界の中心には、純白の大理石でできた荘厳な御殿が鎮座している。


その御殿の玉座に座す者こそが、この天空界を導く慈愛に満ちた存在。

神々は、御殿から発せられる温かく優しい声に導かれ、国生みの道を歩んでいくのだ。

天空界の地には、至る所に美しい泉が湧き出し、命を終えた者の魂が安らぎを得ると言われている。

そこでは、現世界の生から解き放たれた魂が、新たな世界への希望に満ちた転生を待っているのだという。

神々は、その魂を慈しみ、新たな国の民として送り出す役目も担っているのだ。


天空界を彷徨う魂の歌声は、絶え間なく聞こえてくる。

まるで、神々を励まし、国生みへの情熱を駆り立てているかのようだ。

天空界には実に多彩な神々が集い、各々が其々の大壺と槍で独自の世界を紡ぎ出していた。

大壺の中を漂っている神聖な浮遊物を槍で纏め、広げたり、時には新たな形に変えたりと多種多様な手法が織りなされていた。

多種多様な神々が共存し、交流や互いに刺激を受けたりする理想郷だ。


だが、私は敢えて孤高を選んだ。

自らの理想を追求するためには、他者の影響を遮断する必要があると信じていたのだ。

天空界の美しさに心奪われながらも、私は己の道を突き進むことを選んだのである。


神々の間では、青い羽を持つ鳩を通じて交流が行われていた。

だが、私は鳩を寄せ付けない。

他者との関わりは、創造活動の妨げにしかならないと考えていたのだ。

時折、我の許に飛来する鳩を見送りながら、自分の選択に疑問を抱くこともあった。

果たして、この孤独な道が正しいのだろうか。だが、我は思い悩むことなく槍を握り直す。

自分の信念を貫くことが、真の神の在り方なのだと信じて。


ある日、一通の鳩便が私の元に届いた。

差出人は、下界である現世界に降りたという旧友の神イブキ達からだった。

彼らとは、かつて国生みの技を磨き合った仲間だ。

便りには、満月の夜に境間界で宴を催すから来ないかと誘いが記されていた。

我は迷った。長らく他者と関わることを避けてきた身には、宴への参加は躊躇われた。

だが、かつての友情に惹かれる自分もいた。

そう思い至った我は、境間界への参加を決意した。久方ぶりの旧友との再会に、胸が高鳴る。


満月の夜、私は天空界と現世界の狭間である境間界(きょうかんかい)に足を踏み入れた。

そこは、地面が鏡のように滑らかな空間だった。

足下には、天空界と現世界が見事に反射し、二つの世界が重なり合う幻想的な光景が広がっていた。

頭上には、天空界の神々の住まう雄大な景色が広がる。

神々が紡ぎ出す多彩な世界の姿が、まるで手を伸ばせば触れることができそうなほど、鮮明に浮かび上がっている。

対照的に、地面に映る現世界は、人間たちの営みが微かに見える。


都市の喧騒や、人々の笑顔、悲しみ、喜びなど、様々な感情が渦巻く世界が、境間界の地に映し出されていた。

そして、満月が天空界と現世界の狭間で輝いていた。

月明かりが鏡面に反射し、境間界全体を優しく照らし出す。


まるで、二つの世界を繋ぐ架け橋のようだ。

私は、その美しくも不思議な情景に圧倒されながら、ゆっくりと境間界を歩んだ。

二つの世界が交錯するこの空間には、言葉にできない神秘的な雰囲気が漂っている。

まるで、時間の流れさえも止まってしまったかのようだ。


そこには、旧友の神々が集っていた。

ツクヨミ・イブキ、アマテラス・ミカ、オオクニヌシ・ハルト。

それぞれの顔を見た瞬間、遠い昔に共に過ごした日々が走馬灯のように蘇った。

「ハヤテ、久しぶりだな」イブキが笑顔で声をかけてくる。

「あいつらとは違う道を歩んでいると聞いたが、元気そうで何よりだ」

我は曖昧に頷いた。

確かに、我だけが天空界に留まり、孤高の道を選んだ。

対して彼らは、現世界で活躍する道を選んだのだ。

その違いが、今の我々の立ち位置を分けたのかもしれない。


「ハヤテは相変わらず頑固だからな。私たちと一緒に現世界で活動すれば良いのに」

ミカが冗談めかして言う。その言葉に、我は思わず眉をひそめた。自分の信念を曲げてまで、現世界に赴くつもりはない。

「ハヤテには、ハヤテの道があるさ」ハルトが、宥めるように言葉を挟んだ。

「そうだろう?」

我は、ハルトの言葉に救われるような思いがした。

今夜は、久方ぶりの再会を楽しもう。

国生みをめぐる議論は、またの機会に譲ろう。

そう心に決め、我は宴の席に着いた。


宴は、神々の現状報告と創造論議で盛り上がっていた。

イブキは、現世界での人々に語っている物語をが好評を博していると誇らしげに語る。

ミカは、自らの絵巻が多くの人々に愛されていると喜びを隠さない。

ハルトに至っては、現世界の人々の欲望を巧みに取り入れた作品で、隠れた人気を集めているという。


彼らの話を聞くにつけ、我の胸中には複雑な感情が渦巻いていた。

現世界の人間に認められることが、神としての喜びなのだろうか。

私は、むしろ自らの理想を貫くことに喜びを感じるタイプだった。

下界である現世界の評価に左右されることなく、自分の創造を追求する。

それが、我の国生みのスタイルなのだ。

「ハヤテよ、お前はどうなんだ?」イブキが問いかける。

「まだ、天空界に篭って創作を続けているのか?」

「ああ、そうだ」私は即答した。

「我は、自分の理想を追求することが何より大切だと思っている。たとえ、それが下界に受け入れられなくてもな」

「理想を追求するのは良いが、人間を知ることも大切だぞ」ミカが口を挟んだ。

「現世界の人々と触れ合うことで、新しい発見があるはずだ」

「我には、国生みの神としての信念がある」

我は言い切った。

「他者に流されるつもりはない」

その言葉に、神々は一様に苦笑したが、深くは追及しなかった。

我の頑なさを知っているからだろう。

だが、彼らの言葉は意外な形で私の胸に突き刺さっていた。

下界を知ることの大切さ。果たして、我はそれを軽んじ過ぎてはいないだろうか。


宴も終盤に差し掛かった頃、現世の話題が持ち上がった。イブキが、現世界特有の現象について語り始めたのだ。

「現世界には、天空界では見られない『幻日』という現象があるんだ」

イブキは真剣な面持ちで言う。

「太陽のように眩く輝く光が、大地を焦がすような熱を放つ。それが幻日だ」

「幻日…」我は聞き慣れない言葉に眉をひそめた。

「下界の人々は、そんな過酷な環境で生きているのか?」

「ああ」ミカが頷く。

「幻日は、現世の人々にとって避けられない現象なんだ。それを受け入れ、時には自分の意に沿わないことも呑み込んで生きていかなければならない」

「自意に沿わないことを受け入れろだと?」

我は思わず声を荒げた。

「国産みの神たるもの、自らの信念を曲げてはならないはずだ」

「理想を追求するのは良いが、現世界を見つめることも必要だ」ハルトが諭すように言う。

「現世界の人々は、過酷な環境の中で懸命に生きているんだ」

我は、もやもやとした感情を抱えながら、神々の話に耳を傾けた。

『幻日』という現象。それを受け入れることの難しさ。

孤高の神である私にとって、それはあまりに大きな冗談に思えた。


神々の話を聞くにつけ、我の中の違和感は募っていった。

彼らは、それらを受け入れ下界の人間に迎合することを是としているように思えたのだ。

「我は、自分の理想郷を創造するために槍を使っている」

我は切り出した。

「他者に媚びるようなマネは御免被る」

「ハヤテ、それは傲慢というものだ」

ミカが眉をひそめる。「創造者である前に、私たちは現世の一員なのよ」

「違う!」我は感情を抑えきれずに叫んだ。

「神たるもの、自らの世界観を貫くべきだ。他者の評価に惑わされてはならない」

「お前の言うことも分かる」イブキが間に入った。

「だが、頑なに現世界の人々を拒絶していては、いつか行き詰まるぞ」

我は反論の言葉を探したが、適切な言葉が見つからない。

理想を貫く決意は揺るがなかったが、彼らの言葉には一理あるようにも感じられた。

だが、我にはまだ、自分の道を譲る気はなかった。


我の言動に業を煮やしたのか、他の神々は一斉に私へ批判の矛先を向けた。

「ハヤテ、お前は現世界に一度足を付けるべきだ」

「理想ばかり追い求めていては、いつか挫折する」

「人間に恵みを。それが神の宿命というものだ」

次々と浴びせられる言葉に、私は言葉を失った。彼らは我を理解しようとしない。

否、理解する気さえないのだ。我は、自分の孤独が深まるのを感じた。

「お前たちには、我が気持ちは分からないだろう」我は諦観を込めて呟いた。

「我には、我の道がある」

そう言い残し、我は宴の席を立った。どこまでも自分の理想を貫く。それが、我の選んだ道なのだ。


我が席を立とうとしたとき、イブキが私を呼び止めた。

「ハヤテ、待ってくれ」イブキは申し訳なさそうに言う。「俺たちは、お前を責めているわけじゃない」

我は足を止め、イブキを振り返った。

彼の言葉に、かすかな理解の灯火を感じた。

だが、今の我には、その言葉を受け入れる余裕はなかった。

「イブキ、気持ちは嬉しいが、今は独りでいさせてくれ」そう告げ、我は再び歩き出した。


境間界を後にした我は、一路天空界へと戻った。頭の中は、神々との議論でいっぱいだった。

幻日のこと。下界である現世界の人間との事。私には、まだその意味が飲み込めない。

「我は、我の道を行くしかないんだ」自分に言い聞かせるように呟いた。

今はただ、国生み活動に没頭することで、己の道を模索するしかない。

そう決意し、我輩は再び大壺の前で槍を構えた。


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長谷川隼人(はせがわ はやて)は、頭痛に襲われながら目を覚ました。

昨夜の飲み会の記憶がぼんやりとよみがえる。
杉山伊吹(すぎやま いぶき)、青山美佳(あおやま みか)、松永春人(まつなが はると)との作家仲間との久々の会合は、つい飲み過ぎてしまったようだ。

隼人は唸るように呻き、ベッドから体を起こしてタバコに火を付けた。

普段酒を飲まない隼人が飲み会に駆り立てられたは、日頃の鬱屈した思いを発散するためだった。

プロの漫画家として成功を夢見ながらも、現実は甘くない。

商業誌でのデビューに失敗し、実家に居候する日々が続いている。

タバコは、そんな現実から逃れる手段だった。

親にはお金が減るし、健康に良くないし、臭いしだとかで、タバコを止める様に毎日の様に言われているが、そんな事は喫煙者は皆知っている。

だが、吸ってる時は気持ちが良いし漠然と何かが許されている。そんな気になってしまうのだ。

そんな中でも二日酔いの頭痛は、現実逃避の代償だと隼人に突きつける。

「こんなことしてる場合じゃないのに…」隼人は自嘲気味につぶやき、痛む頭を押さえながら立ち上がった。


今日も、本屋でのバイトが待っている。


隼人は、両親の冷ややかな視線を感じながら、家を出た。

両親は、息子が安定した職に就くことを望んでいた。

だが、隼人は漫画家になる夢を捨てられずにいる。そのことが家族との溝を生んでいた。

本屋に向かう途中の駅のホームの端っこで、通過列車の風を浴びた。

隼人は自らの境遇を嘆いた。

「こんなはずじゃなかった…」

デビュー当時の希望に満ちた自分を思い出し、隼人は溜息をつく。

先ほどの通過列車は見る見る小さくなり、視線を下ろすとレールのポイントはゆっくりと切り替わっていた。
ホームのスピーカーからアナウンスが流れ、各駅停車の列車がホームに滑り込んできた。

夢と現実のギャップに、いつしか埋めがたい溝ができていた。

バイト先に着くと、隼人は慣れた手つきで店内に入った。レジに立ち、接客の笑顔を作る。

この仮面の下に、漫画家としての理想を抱く自分がいることを、客は知る由もない。隼人は、自分の中の二つの顔に苦笑した。


本屋での一日は、隼人にとって苦悩との戦いだった。

客の要望に笑顔で応えながらも、心の中では自らの創作への情熱と現実のギャップに苦しんでいた。

「このラノベ面白いですよね」客が手にしたライトノベルを見せながら話しかけてくる。

隼人は、そのライトノベルの表紙が作家仲間の美佳の絵柄だと直ぐに気づいた。

「ええ、面白いですよね」隼人は曖昧な笑みを浮かべる。

心の中では、複雑な感情が渦巻いていた。


本当はその作品を読んだ事すらないのに。
隼人は客に嘘を吐いてる事を悟られないように視線を逸らした。

客とのやり取りを終え、隼人は再びレジに立った。

夢を追いかける難しさを、どれだけの人が理解してくれるだろう。

夢と現実の狭間で揺れ動く自分。

その姿が、今日も続いている。


本屋の棚を整理していると、隼人は見覚えのある漫画を手にした。大学からの付き合いの漫画家仲間、伊吹の漫画だ。

隼人は、伊吹の活躍ぶりを知っていた。

アニメ化も決定したと聞く。

対照的に、自分はデビュー作の打ち切りを機に、商業漫画家の道から遠ざかってしまった。

「俺も、こうなりたかったんだけどな…」隼人は呟き、伊吹の漫画を棚に戻した。

今さら、そんなことを言っても仕方ない。自分には、才能がなかったのかもしれない。

隼人の脳裏に、デビュー作の打ち切りを告げられた日の記憶がよみがえる。編集者の冷ややかな視線。売り上げの低迷。

そして、次の原稿を描く意欲の喪失。あの日から、隼人の漫画家としての夢は、徐々に色褪せていったのだった。


バイトを終えた隼人は、いつもの喫煙スペースに向かった。

タバコに火をつけ、深く煙を吸い込む。ニコチンが体に回ると、わずかに頭がクラクラした。

隼人の脳裏に、再びデビュー作の記憶が蘇る。

あの頃の自分は、もっと輝いていたはずだ。編集者との打ち合わせでは、自分の作品への情熱を語り、読者を魅了する漫画を描くことを誓った。

しかし、現実は甘くなかった。

連載が始まっても、売り上げは伸びない。

編集者からは、もっと読者受けを意識するようにと注文が入る。

だが、隼人にはそれができなかった。

愚かにも自分の描きたい漫画を描くことが、漫画家としての誇りだと思っていたからだ。

結局、隼人の漫画は2巻で打ち切りとなった。

連載漫画の映像化などの検討は最低限でも3巻以上の発売とされている。

夢に破れた隼人は、商業漫画家の道を諦めざるを得なかった。今思えば、あの頃の自分は傲慢だったのかもしれない。

読者の声に耳を傾けることを拒み、自分の理想ばかりを追い求めていた。

「俺は、漫画家として失格だったんだ…」隼人は呟き、タバコの煙を吐き出した。

理想と現実のギャップに、自分は耐えられなかった。それが、今の自分を作り上げたのだ。

タバコを吸い終えた隼人は、くしゃくしゃに丸めた空箱を灰皿に押し込んだ。

灰皿の中の吸殻を見つめながら、隼人は自分の人生を重ねていた。燃え尽きた夢。散らばった理想。そして、掴みどころのない世界。


喫煙所を後にした隼人は、家路を急ぐ。

日が沈み、辺りは徐々に暗くなってきた。

道行く人々の笑顔が、隼人の目には皮肉に映る。

彼らには、隼人の抱える悩みなど、きっと理解できないだろう。

家に着くと、隼人は力なく玄関のドアを開けた。

靴を脱ぎ、リビングに向かう。

両親は、既に夕食の準備で忙しそうだ。

「お帰り」母親が振り返り、隼人に声をかける。「今日は遅かったのね」

「ああ、バイトが長引いてな」隼人は素っ気なく答え、自室に向かった。

両親との会話も、最小限に済ませたい。

自室に入ると、隼人はベッドに倒れ込んだ。天井を見上げながら、今日一日を振り返る。

バイト先での客とのやり取り。伊吹の漫画。

そして、デビュー作の打ち切りの記憶。

「俺の人生、どうなっちまうんだろう…」隼人は呟いた。

漫画家としての夢を諦めた今、自分には何が残っているのだろう。


理想と現実のギャップ。

それは、隼人にとって越えられない壁のように思えた。今の自分には、その壁を乗り越える力がない。

ただ、壁にもたれかかり、立ち尽くすことしかできないのだ。

「もう、漫画なんて描けないのかもしれない」隼人は自嘲気味に呟いた。描きたい漫画を描けない以上、漫画家を続ける意味はない。

そう思えば、今の自分も受け入れられるような気がした。

隼人は、目を閉じた。自分はどこへ向かえばいいのか。答えの見えない問いを胸に、隼人は深い眠りについた。


夢の中で、隼人は大学時代にタイムスリップしていた。

漫画サークルの部室で、相棒の伊吹と二人、夜遅くまで原稿に没頭している。

ページをめくる音とペンの走る音だけが、静寂の中に響いていた。


その時、部室の窓から突然強烈な光が差し込んできた。

隼人が顔を上げると、そこには三つの眩い光点が浮かんでいる。

まるで三つ子の太陽のように並んだその光は、次第に輝きを増していった。

「幻日だ…」目を見開いて伊吹が呟く。


アッと声も出す暇もなく光はやがて燃えるような熱を放ち始め、部室の中は一瞬にして灼熱の炎に包まれた。

窓の外からは、眼下に広がっていた街々の建造物が一瞬にして瓦礫となって空中を舞っているのが見える。

隼人は、全身を焼かれるような苦痛に襲われ、悲鳴を上げながらもがき苦しむ。


「隼人!大丈夫か!」

そんな隼人の姿を見て、伊吹が駆け寄ってくる。

炎の中で、伊吹は必死に隼人の手を掴もうとする。だが、不思議なことに、伊吹の身体は炎に触れても何ともないようだった。

「伊吹…助けてくれ…」

隼人が掠れた声で呟くと、伊吹はさらに手を伸ばし、力強く隼人の腕を掴んだ。


その瞬間、隼人の意識は夢から現実へと引き戻された。


目覚めた隼人は、ベッドの上で一人佇んでいた。先の夢が、頭の中で鮮明によみがえる。

心が引き裂かれそうだった。

「俺は、本当に漫画家を諦めるべきなのか…?」隼人は呟いた。心の奥底では、まだ創作への情熱が燻っている。絵を描くこと。

物語を紡ぐこと。それが、隼人の生きがいだったはずだ。


デビュー作の失敗は、自分の才能不足を突きつける。読者に受け入れられる漫画を描けなかった自分に、漫画家を続ける資格はあるのだろうか。

「夢を追いかけることと、現実を生きること。どちらが正解なんだ…」隼人は自問する。

夢を追い求め、理想に生きることは、とても魅力的だ。

かといって、理想を追い求めると遅かれ早かれ何処かで非情にも現実に流されてしまう。

自分の人生を、自分らしく生きることの大切さを、隼人は信じていた。


「答えなんて、誰も教えてくれないのかもしれない」隼人は苦笑した。

理想と現実の間で揺れ動く自分。その答えは、自分で見つけるしかないのだ。

隼人は、机に向かった。久しぶりに、ペンを手に取る。

まだ心は決まらないが、絵を描くことだけは止めたくない。

漫画家としてではなく、個人として、絵を描こうとする事。

それが、今の隼人にできる精一杯のことだった。


ペンを握りながら、隼人の脳裏には様々な思いが去来していた。

漫画家として再起を図るべきか。

それとも、夢を諦め、就職して地に足つけた生活を受け入れるべきか。


かつて描いた漫画の原稿が、机の引き出しから顔を覗かせている。

隼人は、その原稿を手に取った。自分の描いた絵。自分の紡いだ物語。それらは今でも、隼人の心を熱くする。

「これが、俺の描きたかった漫画なんだ」隼人は呟いた。

たとえ世に認められなくても、自分の信じる漫画を描き続けることに、意味があるのかもしれない。


しかし、理想を追求するだけでは、現世を生き抜くことはできない。

売れない漫画を描き続けることは、経済的には厳しい。家族にも迷惑をかけてしまう。

「夢を追い続けることはできないんだ」

隼人は自らに言い聞かせるように呟いた。

だが、かといって夢を完全に諦めてしまうのは、あまりに悲しい。

漫画を通して世界を描くことは、隼人にとって生きることと同義なのだ。

「俺にできる精一杯のことは何なんだろうか」

ペンを置いた隼人は、原稿を丁寧に引き出しにしまった。

夢への想いを胸に秘めながら、もう一度自分と向き合う。

それが、今の隼人にできる精一杯のことだった。


スマートフォンを手に取った隼人は、ワイヤレスイヤホンを耳に装着して適当な音楽を流した。

音楽のリズムに隼人は思索の海に浸っていく。


頭の中を駆け巡るのは、解決の見えない問題ばかりだ。

ふと、イヤホンから流れる曲が変わる。

聴き覚えのあるメロディに、隼人の心は揺さぶられた。

伊吹、美佳、春人との4人で初めて会った時に鑑賞したアニメ映画があった。
あの時の映画のエンディング曲だ。


鑑賞後、みんなで感想や続編の考察を夜遅くまで語り合い続編であり完結編である作品が公開される時も一緒に見ようと言っていたのを思い出した。


あの頃は、みんな同じ夢を抱いていた。

プロの漫画家、イラストレーターになること。自分の作品で世界を感動させること。

純粋で、まぶしいほどの情熱に満ちていた日々。

今の自分からは遠く感じられる。
イヤホンからの曲は今も変わらず、世界の美しさを唄っているのに世界は変わってしまった。

結局、続編が公開されるまでに9年が経っており、他の3人とは多忙で都合が合わず結局自分一人で観に行った。

あの時は何とも思わなかったが今となって胸に重く突き刺さる。


ふと気になってtwitterを開いた。

トップページには、旧友たちの投稿が並んでいる。

伊吹の投稿には、出版社からの公式アカウントのツイートを引用して自分の漫画の好調ぶりが綴られていた。

「皆さんの応援のおかげです!」そう綴られた文章の端々からは、充実感が滲み出ている。


美佳の投稿を見ると、彼女がますますイラストレーターとして活躍している様子が分かった。

「最近はお仕事の依頼が増えて、嬉しい悲鳴をあげています」そんな彼女の言葉からは、仕事への情熱と喜びが感じられる。

そして、春人の投稿には、娘とのやり取りを彼なりのユーモアたっぷりに言語化したツイートが並んでいた。

家族と過ごす春人の笑顔が見えそうであった。


隼人は、スマートフォンの画面を見つめながら、深い溜息をついた。旧友たちは皆、充実した日々を送っているようだ。

対照的に、自分の人生は停滞している。このギャップに、隼人は言いようのない焦燥感を覚えた。

「俺は、何のために生きているんだろう…」隼人は自問した。


創作者として生きることと、社会の一員として生きること。

その両立の難しさを、隼人は痛感していた。

伊吹や美佳のように、創作活動で成功を収めることができれば、充実した人生を送れるのかもしれない。

だが同時に、春人のような家族との時間も、とても大切なものに思えた。

創作に生きることと、家族や周りの人達を大切にすること。それらをどう両立させればいいのか。

隼人には、答えが見えなかった。


スマートフォンを置いた隼人は、窓の外を見やった。

夕暮れ時の街並みが、オレンジ色に染まっている。日々は確実に流れ、世界は移り変わっていく。

その中で、自分の人生の意味を見出すことの難しさを、隼人は噛みしめていた。


窓の外を見つめながら、隼人は自らの人生について考え込んでいた。

「幸せって、一体何なんだろう…」


その問いは、隼人の脳裏に深く刻み込まれていた。

漫画家やクリエイターとしての成功。

家族との充実した時間。旧友たちのように、輝かしい人生を歩むこと。

一見すると、それらが幸せの形のようにも思える。


だが、本当にそうなのだろうか。隼人は、自問を繰り返した。

「人によって、幸せの形は違うはずだ」

隼人にとっての幸せ。それは、漫画を描くことなのかもしれない。

たとえ世に認められなくても、自分の信じる作品を生み出し続けること。

その喜びは、他のどんなものにも代えがたかった。


同時に、隼人は社会とのつながりも大切にしたいと思っていた。家族や友人との絆。

創作を通じて、人々の心に何かを残すこと。

それもまた、隼人にとっての幸せなのだ。


隼人は、ポケットからタバコを取り出した。

部屋の窓を開け、夕暮れ時の風を肌に浴びる。

そして、そっとタバコに火を点けた。

タバコの煙を吐き出しながら、今後の人生について考えてみる。

人生100年時代とも言われる世の中、それは果てしない旅のようなものかもしれない。

旅の途中では、幾度となく挫折や失望に出会うだろう。


現実と言う名の深穴の底でも自分を信じ、時には他人の力も借りながら自分の人生を切り拓いていくこと。
「人生は長い」

タバコを吸い終えた隼人は、そっと煙を吐き出し、火を消した。


もしかしたら漫画家としての道に固執する必要はないのかもしれない。

夢を追い求めることは大切だが、そのために自分の可能性を狭めてはいけない。

漫画以外にも、自分の想いを表現できる手段はたくさんあるはずだ。

描きたい物語や世界は、星の数ほどあると気づいた隼人は、これまでとは違った視点で自分の人生を見つめ直していた。

もし、漫画でない手段で創作するならと考えを巡らせと最初に描きたい物語は自ずと最初から決まっていた気がした。


そして、深いため息とともにイヤホンを外すと都会の夕暮れ時の特有の雑多な音が一気に耳に飛び込んできた。


遠くから聞こえる救急車のサイレン、帰宅ラッシュで混雑する道路を走る車のエンジン音。


近所の公園では、遊び疲れた子供たちの嬌声が弾けるように響き、飼い主に連れられた犬の吠え声もその合間に混じっている。


隣家では、夕食の支度に勤しむ主婦が、包丁でまな板を叩く音とともに鼻歌を歌っている。


通りすがりの学生たちは、弾むようなステップで歩きながら楽しげに会話を弾ませている。


そんな彼らを追い抜くようにして、疲れ切ったサラリーマンが重たげな足取りで歩道を行く。


日常を構成するありとあらゆる音が、隼人の鼓膜を叩いた。

それらの雑音は、まるで隼人に人間世界の確かさと豊かさを突きつけているかのようだった。

希望と諦念、喜びと悲しみ、孤独と連帯。

様々な感情が交錯する世界の只中に、隼人はいま立っているのだ。


夕暮れ時の風が隼人の体を撫でる。

明日から再び現実を浴びる一日が始まる。

そんな予感がした。

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