第3話 長い帰路の出発点


……

………『ん』


『あ、海か…』


 少年は目を覚ました。


 体が包まれるように温かい。降り注ぐ光が線状に、彼の辺りを照らす。海藻が、脈動する水流に合わせてゆらゆらと、カーテンのように揺れていた。


 ケングンは海面を、裏から見ていた。


『こぽこぽ』


 気泡でも作って遊んでやろうかと口を動かす。しかし、口はただ上下するだけで面白みも無く、舌に強烈な塩味を浴びせて働いた。

 『うげ』 ケングンは急いで口を閉じる。そして海底に寝転ぶと、ゆらりと考えを巡らせた。


『光が届いてるってことは、そんなに深いトコロじゃないな。でも水中なのに、全然苦しくない』


 まさかあのジェントルマン、転移だのなんだの言っていたが、間違ってケングンを魚類にでも転生させたのではないか?

 ところがその疑いに反して、ケングンの足は流れるままに海ではためいていた。腕もある。頭もある。疑ったことへの申し訳なさは、ままある。


 色々考えていると、水面の向こうから声が聞こえた。


「おい! 誰か溺れてんぞ」


 男性が叫ぶ。その声に反応して、辺りは途端に騒がしくなった。


『あ、何か申し訳ない』


 ケングンは陸に泳いで上がろうとも考えたが、イマイチ何て説明すればいいかも分からなかったので、取り合えず水難者に徹することにした。

 数秒後、『ボシャン!』と、まるで鼓膜に直接水風船をぶつけたような音がして、ケングンはそのまま救助された。


「君! 大丈夫かい?」


 陸に上がると、そこそこの人だかりがケングンを囲んでいた。

 レスキューしてくれた男性が、未だ水難者らしく目を瞑るケングンの頬を叩く。それに合わせて、ケングンはピュッピュッと口から水を吐いて見せた。


「はっ! ここは…」


 高校の授業に演技科目が無くて良かった。有ったら彼は、永劫留年し続けただろう。


「僕は一体」

「溺れてたのよ」


 女性がタオルを差し出して言った。


「おぉ、何てことだ。助けてくれてありがとうございます」

「いいんだよ。しかし、危ないなぁ。気を付けないと」

「へへ、そうします」

「アナタ、ご家族は?」


 『うっ』 ケングンはタオルで顔を拭きながら、そのタオルの向こうで『マズイ…』の表情を隠した。当然この世界に身寄りなど無く、ケングンはただ一人の尾祖家の血筋だった。


「イマセン」


 咄嗟に嘘をこねれるほど器用ではなかったので、彼は本当のことを言った。だが、結果として嘘よりもタチの悪く、場の空気は悪化した。特に質問者の女性はハッとした直後に、気の毒そうに俯いた。


「ごめんなさい」

「ん! いや、そんなつもりじゃあ」


 『そんなつもりじゃあ』は本当の事だった。ケングンが首を横に振ると、髪に貯まっていた水分がまき散った。


「ともかく、水場には気を付けなさい。あと…つらいことがあるんなら、役場に行きなさい。いいね?」


 レスキュー男性の言葉に、ケングンは黙って頷いた。


 このときは何故に役場をオススメされたのか分からなかったが、後から考えてみれば、どうやらケングンは周りから、『家族を失って海に飛び込んだ人』に見えていたらしい。証拠に、周囲の人は去り際、『気を落とさないで』『まだ若いんだから』と、優しい言葉の満漢全席を浴びせ、肩にポンと手を置いて行った。


 こうして、浜には足跡と、ずぶ濡れのケングンだけが残った。


「迷惑かけちゃったなぁ」


 ケングンはため息をつくと、改めて今後の行動について考えた。


 潮の香りが鼻をツき、波の音だけで静かだった。空を見るに、おそらくは昼。雲一つない快晴の青色で、絵具じゃ表しきれない程のグラデーションがかかっていた。それでも、うっかり勘違いしそうになるが、ここは別の世界なのだ。


「あれだけ人がいるってことは、近くに町でもあるのか。さっき言ってた役場に顔を出してもいいな。あと…」


 膝にかかったタオルを見る。


「タオルも返さなきゃね。あの人、見つかるかな?」


 ケングンは大体のことを決めると、ゆっくりと立ち上がった。随分長い間、足を使っていないような気がする。


 彼は新しい世界の海に一礼すると、長い帰路への出発点として、その浜を後にした。

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