第4話 七国峠を目指して-2
翌日、昨日とはうってかわって本日は雨模様である。梅雨であることを考えるとこの天気がデフォルトであることは自明なのであるが、やはり雨であるというのは人の心を不安にさせるし、眠気もさそうし、頭も痛くなるし、だるくなるし、関節も痛くなるし…とにかく最悪な天気である。
それは、栞も同じだったらしく、急ぎ七国峠の方面へ向かわなければならないのにも拘わらず気怠さからか、布団から出られずに芋虫のようにうにょうにょと蠢いていた。
「めんどくさい〜でたくない〜」
そう呟くと、枕元においてあったスマートフォンを手に取ると、連絡先の欄から美咲を選択して電話をかけた。
数秒間待つといたって元気そうな美咲が電話に出た。
「もしもし、どした?」
美咲が応答する。
「だるい〜」
「風邪?それとも月のもの?」
美咲とて鬼ではない、風邪を引いていたり月のものがきているのであれば無理に来させることはしない。
「理由によっては取りやめようか?それでも私は一人で行くかもだけど」
少々心配そうな声色がスマホ越しにもよく伝わる。
「天気悪いから行きたくない〜」
栞は嘘がつけないタイプらしい。
「来い」
そうとだけ美咲は告げると電話を切った。「ツーツー」という通話が切断されたことを告げるアラームが無情に且つ冷たく栞の耳に入ってくる。
「つめたいなぁ…」
そう言うと仕方なく栞の全身を包みこんでいた布団とおさらばすると立ち上がる。
その後、腹だけは減っていたので急ぎ朝飯を胃の中へ詰め込むとひとまずいつもの場所へ向かうべく「ちょっと行ってくる」とだけ伝えると急ぎ家を出た。
「そういえば待ち合わせ時間何時なんだろう」
そう小さく呟きながら自転車を押し、いつもの集合場所へ向かう。
道中、未舗装道路の右側の流れる柳瀬川は雨のせいか色は濁り、水量も増し、いつもは見えている中洲なども隠れて見えなくなってしまっている。雨のせいか、はたまた単純に湿度とかの関係で声が届きにくいのか、はたまた雨が地面に叩きつけられる音に揉み消されているのか、鳥の囀りはほとんど耳に入ってこなかった。
一方ほぼ同時刻、美咲もいつもの集合場所へと向かっていた。
「さっき電話したときに時間聞いておけばよかったな」
そう小さく呟くきながらいつもの場所へ向かっていた。どのみち集合場所への距離は数百メートルだし多少無駄足になっても良いかという気でいたし、最悪直ぐに家に帰れるということもあってもしいなかったら家に帰ってもう一度電話しよう程度に思っていた。
遠くの方にいつもの庚申塔が一人寂しく雨に濡れながら立っているのが見えたものの、その周辺には人影は見えなかった。
「仕方ない、暫く待つか」
そう言った刹那、その更に向こうの方に見覚えのある人影が浮かんでいるのが見て取れた。待ち時間がほぼなさそうという安堵感と、待ち合わせ時間の決定もしていないのに時間が待ち合わせ時間が自然にあうことに少しばかりの運命的なものを感じたことにより少しばかり表情が明るくなった。
それは栞も全く同じであったが、その感情を遥かに凌駕する程度に気象病が怠かったので、表情の変化は人間の目ではとても確認できるものではなかった。
「良かった、会えて」
栞がそう言う。
「うん、待ち合わせ時間を決めていなかったけど、ほとんど同時刻に会えたね」
美咲は笑顔で言う。
傘にぶつかり続ける雨粒の奏でる音が激しさを増し、栞は彼女が目下一番の問題としている頭痛も余計に悪くなりそうな予感しか感じていなかった。
「確か、駅前のあのホテルに泊まってるんだよねユマさん」
栞が美咲に確認がてら聞く。
「駅前にあるスパークルホテルに泊まってるって聞いてるよ。ユマさんが出てくるまで暫くあのホテルの中で待たせてもらおうか。」
美咲はそう答えた。
二人はそういったあと、自転車を押しながら傘をさすというかなり煩わしい行動をしながらホテルへと向かった。午前11時前である。
十数分歩くと目的のホテルへと辿り着く。
事情を従業員に話したところ、ホテルのロビーで待たせてもらうことになり二人はホテルロビーのソファに腰掛ける。まだ1日が始まってから半分も経過していないというのに二人、特に栞は恐ろしく疲弊していた。無理もない。
「いやぁ、悪い」
ユマがそういいながらエレベータの扉の向こう側から登場した。顔こそ笑っているが目は少したりとも笑っていない。エレベータの柄-橘の花に鶴の飛ぶ姿-もあいまって、非常に不気味なように感じられた。あの、生気の一切感じられない目の向こう側に若干の殺気を感じ取った美咲は「ねぇ、ほんとに大丈夫かな?」と栞に確認をとった。しかしながら、栞は気象病の影響で酷い倦怠感と頭痛を抱えている。どうやらいちいち真面目に考えている余裕はなかったようで、ソファに凭れ掛かった状態で、「大丈夫でしょ」と面倒くさそうに答えた。まるでやる気がなさそうである。
「本当はもっと早く起きようと思ったんだけどね、とりあえず向かおうか」、ユマは首を約23度傾けて続ける、「七国峠へ」。
如何にも気味の悪い言い方である。気象病も偏頭痛持ちでもないのに美咲は寒気がした。
さて、その後数分が経過し、栞そして美咲は各々の所有している自転車に跨り、少々気怠そうにペダルを何回転もさせながら少なくとも徒歩よりは速い速度で移動していた。ユマはホテルの前に3台ほど止めてあったレンタサイクルのうち一つを取り、それに跨って漕いでいる。
人通りや車通りは甚く疎らで、三人がペダルを回転させるのに合わせて発生するカタカタという音を除けば雨の音しか三人の鼓膜を刺激しない。今の気象状況のこともあって特に自転車をこぎながら話さねばならない話題があるわけでもないのにわざわざ喋ろうとはという気分にはならなかったのか人の話し声さえ、その空間上に伝播されることはなかった。
そんな沈黙が幾分か続いて三人は丁度昨日も通った八国山の峠に差し掛かり、自転車から降り歩いたほうが楽なのではないかとも思えるほど苦しそうに自転車を漕いでいた。
「ここは随分急な坂だね」
ユマが数分ぶりに自転車と雨以外の音で三人の鼓膜を揺らした。「こんなときにはなしかけるなよ」、栞は誰にも聞こえないような小さな声でそう呟くと「そうですね」と普通に会話する程度の大きさの声で相槌をうってやった。
今日は雨こそ降っているものの、梅雨時期の雨ということもあり真夏のゲリラ豪雨のような車軸を流したような雨が降っている訳ではなく、しとしとだらだらと別の意味でまた息が詰まるような雨の降り方なので普通の声量で十分声は聞こえた。先ほどの愚痴ともいえる独り言がユマに聞こえていたのかは不明である。
今我々の順序はユマを先頭にして、その後ろに美咲、そして更にその後ろに栞ということになっている。美咲ははじめこそ栞のことを心配してたまに振り返ってその様子を見ていたが、しかしだんだんと辛そうな表情が緩和されていたのでそれに安心して美咲は後ろを振り返ってみることはほとんどんなくなっていた。特に今は八国山の峠を越え長い下り坂に入ったので自転車をほとんど漕ぐこともないために大丈夫だろうと油断していた。しかし、その油断がいけなかったのだろうと美咲は後に思うことになる。
左手に八国山、右手に広大に広がる水田を眺めることができ、蛙の鳴き声が遠くから聞こえてくる。そんな暢気なことを考えながら三人は八国山の峠を越えた下り坂を降り切り、谷に差し掛かり、再びの上り坂に差し掛かったときだった。
――バタン
後ろから何かが倒れるような音が聞こえた。
この時点では美咲は自身の後ろで何が起こったか分かっていなかったが、しかし嫌な予感というものが美咲の心中において渦巻いていた。それと同時に嫌な予感というものは95%実現しないというどこで聞いたかもよく覚えていない言葉を思い出し、その95%に賭けていた。
しかし、振り向きたくもなくなるような何か不気味な現象を美咲自身が知覚していることは、本人も認めたくはない事実として突きつけられた。
――女性の嗚咽
荒い息遣い
腥い血の匂い
苦しそうな声―今にも消え入りそう
何かが転がる音
藻掻く、そして悶える音
そして、高笑いの声。それは明らかにユマの声帯を震わせて発せられる声だった。
このとき、美咲は、そして恐らく栞も確信したであろう。「ユマは、まるで人の心というものを全く持っていない」
振り向くとユマが非常に愉快な風に笑いながら、倒れた栞を見下しながら立っていた。そして、彼女の足許には何か硝子のような玉が落ちている。何かが転がる音がしたのはこのせいだったかと思いながら、ユマの方を睨みつけ、訊ねる。
「おい、お前がやったのか」
野生のライオンさえ尻尾を巻いて逃げて行きそうな気迫を見せながらユマの方を睨みつける美咲。
「どうしたどうした。随分楽しそうだねぇ」
ユマは笑いながらそう言った。美咲は一発、いやユマの魂魄が地の底まで辿り着くまで殴り続けようかとも思ったが、今のこの状況が不明であり、且つ倒れた栞の治療法も全く分からないこの状況に於いてユマを打ち殺すのは上策とは言えないことから、彼女は爆発的な噴火をするイエローストーンのように湧き上がる殺意をぐっと抑えつけた。
「お前が栞を殺したのかと言っているんだっ」
まだ死んじゃいない栞を殺してしまった。反省。
「さぁ、私は知らないさ。こいつが勝手に斃れただけさ。」ユマはそのアルカイックスマイルを更に不気味に歪めて「私はその引き金を引いたに過ぎないさ」
自分の意思に反して、否意思なんてものは一切介在せずに気がついたらユマの胸座を逆手で掴んでいた。恐らく今の顔はナマハゲのそれよりずっと怖い顔をしているだろう。今の顔ならサイやカバだって尻尾を巻いて逃げていく、そんな自信を彼女は持っていた。
「随分楽しそうだね。でも、あまり楽しみ過ぎない方が良いかもよ」
そういって、ユマは下の方へ目配せをした。その視線の直線と地面との交点、その丁度真上には例の白い玉、まるで竜宮城でしかお目にかかれないのではないかというほど美しい形状をした、真珠のような球が転がっていた。ユマはニンマリとどこかのスパイ一家の幼女を彷彿とさせるような笑顔を作るとこう言った。
「いいかい。この玉はいわば栞の魂そのもの。つまりこれを破壊すれば彼女は文字通り死ぬ。」
その言葉と同時に栞は更に悶え始める。どうやら意識はまだあるらしい。この際意識が吹っ飛んでいる方が当人としてはずっと楽だろうに。
「そして、こいつは君たちの思っている何倍も脆弱でね、一気圧程度でも長時間置いておいたら
ユマの顔は、美咲の顔の文字通り目と鼻の先。恐らく体感的にはクレジットカード一枚分の薄さもないくらいの距離と感じているだろう。はたから見たら百合である。
「そして、皹が少しでも入ってしまったら最後、魂はどこかへ行ってしまうだろうね。」
その言葉を聞いて美咲はまさに怒髪天を衝くように激怒し、ユマの右頬を思いきり殴った。
「おっと。随分と楽しくなってきたね。」囁くように「おじょうちゃん」
そういうとユマはパチンと右手の指をはじいた。
美咲のおよそ半径3メートル以内の空間が、まるで真鯛の鱗を剥がすように剥がれ落ちる。同時に薄暗い教室が現れた。この教室は、美咲の母校、市立北陵小学校3年3組の教室である。
「へぇ、ここが
確かに、3-3の教室だったかどうかはまったくもって覚えてはいないが、北稜小学校で私たちは出逢った訳だ。しかし、何が起こっているのかまったくもって理解、整理できていない美咲はただただ茫然とその場所に立ち尽くすばかりで、ユマのそんな言葉に一言さえも返事ができなかった。
「こんな素晴らしい思い出の地で二人死ねるんだからよかったじゃないか。」
「君、さっき思ったろ?私が人間じゃないって。人心を持ってないって。その予想ご名答だよ。私は文字通り人間なんかじゃぁない。いうなれば『ウイルス人間』ってとこかな。まぁ何だ、立ち話もあまりいいもんじゃないし、第一疲れるだろう。君にも死んでもらうよ。」
少し微笑を含ませて
「いやぁ、何だ、私はこの玉を集めることが殊に好きでね。野良の人間を狩っては集めているんだよ。あ、理由は秘密だよ。
眉をひそめて
「あ、私の方から話過ぎたね、なんか言いたいことはあるかい?」
「いやっ」
外の世界とは何らかの方法で隔絶されたこの狭い空間。ただただ無音という音が鼓膜を刺激し、独特のシーーーンという音が脳内でこだまし続けていた。ユマが人ではないだと。じゃぁなんだ、これも怪奇現象と言うのか。それとも宇宙人?機械人間?妖怪? 何にせ、この状況は私たちにとって非常に不利だ。とっとと、ユマを殺害しないと。
そう決心するともしもの時のためにもってきた、自身の家の外にしばらく野晒しにされていたカッターナイフに手を当てた。
「
美咲は少しばかり迷ったように見せて、何かを決心したように「それで構わない」と言い放った。
「やめてぇぇぇぇぇぇえぇぇ」
およそ絶叫に近い、いやもう絶叫だったのだろう声を栞が挙げたが、意識こそはっきりしているものの体躯の動かない栞は何もできなかった。ただ、自分のために、それに自分も死ぬというのに美咲がある種異常なまでに無意味な生贄として、文字通り人でなしに打ち殺されるのがたまらなかった。何もできない自分が悔しかった。そんな気持ちを抱いてのことだったのだろう。
「まだそんな気力があったとは、これは驚き。さっさ抹殺しないとな。」
「でもその前に、
ユマが美咲の方向へ猛スピードで向かってくる
あと5m…ユマの眼球の位置をしっかりと見定めるんだ。絶対に失敗は許されない
あと4m…ユマが目と鼻の先に到達した時点でポケットに仕込んだカッターナイフを取り出して、あの眼球を貫通させるんだ。
あと3m…瞬きをした瞬間では瞼が障害になってうまく貫通しない可能性がある。瞬きをし終えて瞼が完全に上がりきったその瞬間を狙うんだ。
あと2m…相手は人間ではない、この攻撃が相手にとって致命傷になるかどうかは不明だ。だから、目に刺した瞬間左の方へ避けよう。
あと1m…カッターナイフに手をかける。
あと50cm…カッターナイフを取り出し、それと同時に刃を最大限に出しておく。
あと30cm…よし、そろそろだ。
あと10cm…狙いを定める。
あと5cm…今だ。
勢いよくユマの右眼球に向かってカッターナイフを差し込むと同時に、美咲自身も左へ前回り受け身を取るような形で避ける。
ユマにとっては不意打ちだったのか、一応痛覚はあるらしく、いっちょ前に痛がっている。
「本当に愉快なで楽しいやつだな
そう言い放った瞬間だった。
「デデン」
親の声より聴いたエラー音が響き渡ると同時に、空間全体がブルースクリーンで覆われた。
「
コの閉鎖的空閒上にオいて、予期せぬエラーが發生しました。
タダちに終了し、再起動してクダさい。
現在、原因究明中ですが、コのエラーが表示される原因はデバイスに對しての危險性が檢證されていないウイルスや菌への感染やソのウタガいがオモな原因です。
デバイスの安全性を確保するタメにも、タダちの再起動をオネガいします。
」
「なに?」
「ウイルスへの感染だと。。。」
どうやら、しばらく野晒し雨曝しになっていたあのカッターナイフでは何らかの菌だかウイルスだかが繁殖していたらしい。
「このデバイスを終了したら私は。私は。」
そういいながら、彼女の周りが無数のモザイクで隠れだした。そして、何もなかったように消えていった。
釈然としないが、ユマは死んだらしい。いや、再起動したらまた出てくるかもしれない。その点で斃したとは言えないが、とりあえず今は栞の手当てをせねばならない状況である。
「おい、栞、しっかりしろ!」
「ん、あれ」
栞をよく見ると嘔吐痕や出血痕、傷口、更には白い玉さえ消えていた。更に息も十分に安定しているし、気象病どころか健康なように見える。
「ん?」
栞が目を醒ます。
「なんか、何だったんだろう。なんであんなに苦しかったんだろう。」
きょとんとした表情を見せる栞。
そして、その横で栞の肩を支える美咲。
彼女たちはあの閉鎖的空間が崩れ落ちたのを確認すると、外は夕焼け空だった。
「綺麗」
夕焼けが周囲の田んぼに反射し、美しい景色を映し出している。梅雨とは思えない空だった。
近所の山の不思議探索 豊多磨イナリ @satoshin_novel
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