第3話 七国峠を目指して
三人はレンタサイクルで西の方角を目指し走り始めていた。そこは丁度八国山の峠当たり、そこそこ急な坂がダラダラと続いており三人のうち約二名は既に疲弊しながらも自転車をこぎ続けていた。
「ちょっと…これ…いつまでつづくの…?」
栞が独り言ではない大きさの声でそう呟いた。
「あと数メートルくらいの筈…」
美咲がそう答えた。二人のそんな疲弊しきった様子を見てユマが鼓舞しているのかマウントをとっているのかよく分からない顔で、振り向きながら
「ちょっとちょっと〜まだまだ始まったばかりなんだからそう疲れてもいられないよ〜!私なんてまだまだ余裕〜」
と涼しい顔で言っていた。
はっきり言ってむかつく言い方である。
二人としてはもう少し言い方を選んでほしかったという感情であったが、そんなことを言う気力も、ともすると思う気力さえも既に麓に置いてきたのかもしれない。そんな疲れようである。
「自転車通学じゃなかったの〜?」
山道を登っているわけではないので、こう傾斜がダラダラと何百メートルもつづくと息も切れてくる。
「頂上だぁ〜」
そんなことを聴いたり聴かなかったり、はたまた聞けなかったりしているうちに三人は八国山の峠についた。後は下りるだけである。
そのときふと周りを見てみると、一面に水田が広がっていた。いわゆる大谷田んぼと呼ばれる地域である。この風景はとっくに見慣れているはずの美咲と栞もこの景色は何度見ても美しく思い、うざったい暑さや湿度の高さすら一瞬忘れてしまいそうになる。
「いやぁ、いつ見てもきれいだね」
と美咲。
「それな」
と栞。
対してユマは田園風景から目は離さないものの、特にこれと言ったコメントもなく、目を異常なまでに細め、甚く遠くを眺めてるようであった。そんなに田んぼが珍しいのだろうか。
「あれは…」
ユマは聞こえるか聞こえないか程度の小さく且つ細い声でそう発した。明らかな独り言であり、栞と美咲の耳には届きはしたが、何を言っているのか聞こえなかったし、更に小さな独り言を一々拾っていたらきりが無いので特に聞き直そうという意思はプランク定数ほどもなかった。
「なぁ」
ユマが言う。
その言葉は明らかに独り言の大きさではなかったし、そんな独り言を突如として発する人間はまずいないので美咲と栞の両人はほとんど同時にユマの方に目線を向けた。
「どうしました?」
「ちょっとあっちの方に寄り道をしても良いか?」
言ってユマは水田の方を指差した。正確にどの位置を指差しているのかは無論不明であったが水田の方角を差していることは明らかであった。美咲はそんなに水田を間近で見たいのかと疑問に思いその疑問をぶつけてみる。
「そんなに水田が珍しいですか?」
ユマは若干呆れた顔を見せた。
「そんな訳ないだろ。あれが見えないのか?」
ユマは何かを指差す。あんまり遠すぎて見えない。それは栞も同じだったらしく
「どれですか?」
と質問していた。
ユマは若干呆れた顔を崩さずに少々面倒くさそうに荷物を弄ると小型の望遠鏡を栞に差し出した。出されるがまま、ひとまず望遠鏡で水田の方角を眺めてみる。
畑仕事に従事する夫婦や親子
農家の敷地に植えられた柿の木や椿の木
植物の種や小動物などをつつきにきた鳥
遊ぶ子供
そして
水田の真ん中で、何やら微笑を浮かべつつ集落の方角へ歩みを進める右目が飛び出た半裸の男性
を確認できた。そして、明らかに異質な存在に栞も気付く。流石に気づかない訳がなかった。
「うぇ…!?」
栞は思わずそんな声を出す。
その栞を見て美咲は栞から単眼で小型の望遠鏡を奪い取り、自身も栞が見ていたであろう方向を覗いてみる。無論、その異質な存在に数秒で気付くことが出来た。
「あの人は何ですか…?」
美咲が訊ねる。栞はもう一度美咲から望遠鏡を貸してもらうと再び覗き始めた。どういう心理か不明だが少しばかり楽しそうに望遠鏡の向こうを覗いている。
美咲の質問に対しユマは一瞬悩んだ様な表情を見せたあと話し始めた。
「私の推測だが、恐らくあれは元人間だ」
その言葉に栞も望遠鏡から目を離し、ユマの方にその視線を合わした。
「元…とは?」
栞が聞く。
「何かに取り憑かれたあとで、飢餓か感染症で死んだんだろう。その後も取り憑いた原因の何かが宿主に憑き続けている。」
その言葉に栞と美咲は驚いてみせた。その後美咲は何かを考えるような仕草と表情を数秒間見せたあと、お目当てのものを思い出したのか「あ!」と大きな声を発したあと、少し恥ずかしそうにしていた。
「どうしたの?」
栞が訊ねた。
「それってつまり、その取り憑いた幽霊みたいなもの、仮にこれを甲としましょう、甲があの元人間の体を乗っ取った後、乗っ取られた側は飯を食べることも出来ませんし、非常に衛生状態も悪化していた。その中で元人間が死んだ、つまり身体だけでなく精神も、即ち魂をも甲が乗っ取ったということですか?」
美咲はこの様な小難しい持論を交えながらユマに訊ねた。当然ながら栞は美咲が一体何を言っているのか、どういう意味なのか些少も汲み取れていない様子で、頭の上にハテナマークが五つほど浮かび上がっているのが目に見えそうですらあった。
「大体そんな感じだな」
ユマはそう答えた。栞は分かりやすく説明してくれという表情を浮かべたまま美咲の方をずっと見つめている。
「…」
美咲はひとまずだんまりとしてみる。
ユマにその視線を送りそうもないので取り敢えず美咲が咀嚼して説明することにした。
「なるほど!」
説明後なんとか理解したように見えたが、実際問題本当に理解できたかは不明である。
「まぁ、そういうわけであっちの方面へ一度行きたいんだが」
ユマはそう言いながら目を水田の方へやった。
ここまで特殊な事情があるのであれば、それはただの水田探索ではないようなので付き合う他あるまい。実際問題、栞と美咲もその異変とも怪異とも言える現象に多少なりとも興味を持っている。
「それじゃあ、取り敢えず向かおう!」
栞が景気よくそう言うと、その言葉を美咲が遮る形で発言した。
「でも、行ったところでどうするんですか?何かあるんですか?」
甚く健全な疑問をユマにぶつけてみせた。この発言に対してユマは、無論何の計画もなしにやるほど無謀な人間ではないので自身の計画について話し始めた。
「あの元人間は確かに人間としては既に死んでいる、その意味ではゾンビの類に似ているかも知れないし、殺すことは中々できないと思うかもしれない。否、実際もしかしたら本当はそうなのかも知れない。」
美咲は理解した上で首を縦に振り、栞は何にも理解してなどいないかもしれないが取り敢えず空気を読むような形で首を縦に振っておく。
「しかしながら、私の経験上あの類は人間を殺すのとほとんど同じ手続きによって殺害できることが多い。」
「というと?」
美咲が訊ねる。
「つまりは、確かに宿主は人間としては死亡し取り憑いた側が乗っ取っている形にはなっているが、言い方を変えれば魂を他の魂に入れ替えただけだ。とても極端な言い方をすればある意味でまだ生きている。」
「なるほど」
美咲が相槌を打った。
「な、なるほ…ど」
栞も相槌を打った。栞は恐らくユマの話の内容はほとんど理解していないといっても過言ではないだろう。
「人間から魂を引っこ抜く、即ち人間を殺害する手っ取り早い方法は何か分かるか?」
ユマが二人に対して訊ねた。
「刺す、絞める、落とすなどですかね」
美咲が答える。栞は完全に一歩どころか数万歩遅れた。
「そうだな。飢えや感染症などの一部のものを除けば、取り憑いかれた元人間であっても殺害、即ち取り憑いたものを引っこ抜くことが可能であることが多い。」
「なるほど」
美咲が理解した感じで言う。
「じゃああの人を自転車でもって轢き殺せば良いんですね?」
栞が訊ねる。栞の質問は少しばかり論点がズレていたが特にそこは誰も指摘しようとしなかった。あるいは、一々指摘していたのではあまりに面倒臭いので敢えて指摘をしなかったのかもしれない。
「轢き殺すのはやや大変だから、これで殺ろう」
言ってユマは庖丁を見せてきた。刃渡り30cm程度で見たらわかるくらい切れ味が良さそうだった。これなら本当にギコギコしないでスーッとパンが切断できそうである。
「自転車だと十分な運動エネルギーが出せない可能性がある。故にここは無難にいこう。」
そう言うとユマは庖丁を仕舞うと、自転車に跨り目的の辺りへとこぎ始めた。それに倣って栞と美咲の二人も自転車に跨り自転車を走らせた。
3人は田んぼの間の畦道を自転車で走る。端から見たらこれからどこかへ遊びに向かう田舎の少女達の様にしか見えないが、実際彼女達は遊びとかいう生温いものへ向かっている訳ではない。
下り坂であるので自転車をこぐ力も殆ど要らないのでこのクソ蒸し暑い中では非常に幸いである。ただ、帰りはこのだらだらと続く微妙にきつい坂を自転車で登らないといけないかと思うと美咲、栞は嫌になった。ユマはそんなことは考えてなさそうである。
数分後、3人は目的の場所に到着した。
言うまでもなくそこには例の生きているのか生きていないのかわからないウイルスのような人間がいた。動きは非常に遅く、屍体の臭いがするのかその人の周りにはハエが多く集っていた。
「あれを殺せばいいんですね?」
美咲が確認をとるようにユマに質問した。
その質問に対してユマは何も言わず、目を瞑って首を縦に振った。その後で庖丁を美咲に手渡した。栞でもよかったのかもしれないが、あまりよく理解してなさそうな雰囲気、否、事実まったくもって理解していないので万が一のことを考えて栞に渡す気は毛頭もなかったようである。
「どう…すればいいんですかね」
美咲がユマに訊ねる。
「見た目こそまだ人間の姿を残しているが、魂は人間以外に置き換わっている。そして身体能力や抵抗力なども非常に弱っているように見える。宿主の体が崩壊し、取り憑いている霊が他の人間の魂を食い尽くす前に殺害しないと色々とまずい。一まず正面から行って胸に刺すんだ。」
ユマがそう助言すると美咲はそのウイルス人間の方へ向かった。
実際不安もあったし、よく映画やアニメなどで見るようなゾンビのようにかまれたりしてこっちまでゾンビ的になってしまったり、何か超人的な能力などを持っていて美咲や、或いは栞やユマなどが襲われたり冒されたりしないかなど、相談しておきたいこともあったが、ユマの言葉が本当なのであればどうやら時間がないらしい。美咲はそう思って、善は急げでウイルス人間の方へ向かった。
美咲が正面から少しずつ距離を詰める。ウイルス人間は美咲に気付いているかどうかは不明であるが、今のところ美咲や栞を襲う素振りは微塵も感じられない。もしかしたら襲いたいのかもしれないが、その魂を支えるための体が既に恐ろしく脆くなっているために十分に動くことができないのかもしれない。
美咲とウイルス人間との距離はおよそ1メートル程まで迫った。鼻がひん曲がりそうなほどの腐った人間の屍体の臭いがきつく、嘔気さえもよおしている。いや、既に鼻は90度ほどひん曲がり、胃の内容物の幾つかを嘔吐していたかもしれない。
庖丁を刺すのに十分なまでに距離を詰めると、腐りきったおにぎりをつまむような手つきでウイルス人間の肩を左手で押さえると、利き手である右手で胸、腹、眼球を複数回にわたって刺した。すでに死んでいることもあって血は一切出なかったが、すぐにウイルス人間は倒れると、全く動かなくなってしまった。
文字通り、その人間は二回死んだ。
「こ、これで大丈夫ですか?」
美咲が後ろを振り向き、ユマに確認をとる。
「おそらく」
とだけ答えた。その後、その屍体は崩壊していった。魂は目に見えないが、どこか空のかなたへと飛んで行ったことを願うばかりである。
一まずの大きな仕事を終えた三人、いや実際に行動を起こしたのは美咲ただ一人だが一応三人と言っておこう、この三人はクソ暑い中自転車で坂を上っていた。色々なことが発生し、今は夕方である。いつもならまだしも、これだけ沢山の異変や怪異が発生している状況の中、夜中に山を越えるのは危険と判断したユマは、まだ美咲と栞は家も近いこともあって一旦帰宅したのち、明日から本格的に七国峠に向かうよう指示した。
一方のユマはというと、再び坂道を引き返し先ほどウイルス人間を殺めた地点までもどった。
なにやら屍体と話している。気色が悪い。
数分間屍体と話したのち、崩壊した屍体の一部から何やら真珠のような丸く美しい玉をとりだし、にやにやしながらそれを眺めている余計に気色が悪い。
その後、ユマも近くにあったホテルに向かい、翌日のために休息をとることにした。
「明日が楽しみだな」
ユマはホテルの中のベッドでそう小さくつぶやくと眠りに落ちた。
明日、三人は七国峠へと向かう。
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