第1話 初めての不思議
その日は梅雨時期ということもあって、異常にジメジメとした体感と高い温度、どんよりした空に気象痛と寝技中に蹴りを極められた様に身体中をあらゆる嫌な気象現象が襲いまくっており、もう朝7時を10分程も過ぎたというのにも拘わらず、身体がだるく起き上がる気力も、いや起き上がろうとする気持ちさえ、入間美咲は持っていなかった。
しかし、遅刻などという下らない理由で教師に叱責されるのも、はたまた内申を下げられるのも全く望んではいないので、仕方なく身体を起こし、支度をすることにした。
これが爽やかな春の朝であれば一緒に鼻歌でも歌ってやる気分になるシジュウカラやスズメの歌声も、単に痛く重い頭を痛烈に刺激する厄介者でしかなかった。
カーテンを開け、全く眩しくもない外を見ると、重く暗い雲が空を覆う中、遠く八国山などの山々を眺望することが出来た。
しかし、今の美咲に景色を風流に眺め、歌でも一句捻る暇など蟻の涙ほどもなく、急いで顔を洗い、制服に着替え、パンを喰い、水を一杯飲むと、まるで絶起した入社1日目の新入社員の様に急ぎ家を出ていった。
「やばい、遅刻する」
そう言って自転車の鍵を解錠し、今にも転びそうな未舗装の道を高校へこぎ出した。
どうにかこうにか始業の時間には間にあった。セーフ。
学校に付くと、小学生時代からの幼馴染の高麗栞が声を掛けてきた。
「やぁ、おはよう、この時期になるといつも遅刻ギリギリになるのは中学時代から変わらないね。遅刻しないように早起きとかはしないのか?」
自分が一番よくわかっていることを真正面から指摘され、心底不機嫌な美咲であるが、栞の何でも思ったことを口に出す性格は何もここ数日で始まったことではないので、多少頬を膨らませた後で直ぐに平常の表情を取り戻した。
「うるさいなぁ、そんなこと分かってるよ」
軽く栞の頭をポカッと叩きながらそう返す美咲。そして、始業を告げるウェストミンスターの鐘が頭に重くのしかかった。
その後何の問題もなく授業は続き昼休み。美咲と栞は適当に開いてる他の生徒の席を発見すると、我が物顔で座り、互いに親がこさえた弁当を開けて昼食を摂り始めた。
「そういやさ」
と栞。急に何だというキョトンとした表情で美咲は栞を見つめたあと、何?と一言発声した。
「今度久しぶりに八国山に行かない?」
栞は確かに美咲にそう提案した。八国山へは中学2年の夏休み、自由研究課題を乗り越えるために適当に植物を観察した以来赴いていなかった。栞と二人でとなればもう小学6年生以来である。
「この梅雨時期に何で?行くなら夏とか秋とかで良くない?」
尤もな返答である。
「ほら、ちょうど今週の日曜梅雨の中休み的な感じで晴れるらしいからさ、良いでしょ」
と栞は美咲に言った。美咲は日曜には塾などの習い事もなければ、特にどこかへ行く約束も友達と会う約束もしてはいない。即ち断る理由を探そうにも、そんなものそもそも存在していないのだから、断ることは出来なかった。
しかし、何故突然そんなことを言い出すのかという疑問が、当然の如く心の中に沸々とわき出し栞に訊ねてみる。
「いや、特に意味はないんだけどさ。久々に行きたいな〜って」
はっきり言って意味がわからない。しかし、嫌という訳でもないので美咲は栞と共に日曜日に八国山へ行くことを決定した。ちょうどそれくらいの頃に昼休みの終わりを告げる鐘が重い頭を、ちょうど吊鐘を撞く橦木の様に鈍く刺激した。
その後、午后の授業も何事もなく終了し、そして数日間の授業やその他暇な時間も何の事件や事故もなく、寒気がする程に平和に終了した。いや、いつも何もなく平和に過ごしていたので、その平穏さに何の気味悪さも疑いも覚えなかった。
数日後の日曜日、気象予報通り梅雨とは思えないほどよく晴れた蒸し暑い日、現代の気象予報技術に心から感謝しつつ家を出発した。
「それにしても暑いな」
美咲は小さくそう呟くと、二人で会うときのいつもの集合場所へ向かった。
いつもの集合場所というのは美咲の家から徒歩約2分程、栞の家から徒歩約5分程の場所にある、細く未舗装の2つの道路がちょうど十字に直交する辻に寂し気に立っている庚申塔である。ちょうどこの当たりでは一番目立つものであり、渋谷の例の犬の像のようなものだと二人は勝手に想像しているが、これを目印に待ち合わせを行う人間は、所沢市どころか神の山地区に居住している人間を探してもこの二人くらいで、例の犬の銅像と比較したら太陽と水素原子くらいのあまりに大きすぎる違いがあった。
美咲が待ち合わせ場所に向かう途中、蒸し暑いながらも晴れ渡っているせいかどこか清々しい気持ちを持って歩いていた。
向かう途中の道は、細く左側には渓流である柳瀬川が連日の雨のせいか少しばかりの濁りと速い流れを抱きながら流れ、右を向けば神の山が聳え立ち、久しぶりの青空に喜びを隠せないシジュウカラやスズメ、ヒヨドリなどの野鳥の囀りが爽やかに聞こえてきた。とても気持ちの良い朝の10時前だった。
同時刻、栞も同じく集合場所として指定されるでもなく自動的に決定される庚申塔へ向かっていた。栞は家を出発すると、所沢駅へ向かう少し大きめの道には目もくれず、庚申塔へ続く未舗装かつ獣道のような細い道を歩き出した。
「やっぱり晴れたか。こりゃ散策日和だな」
そう少し嬉しそうに小さく呟きながら細い道を歩いていく。
庚申塔へと続く道は、右側に柳瀬川がいつもより速く濁った表情を見せながら流れ、左側には茶畑が広がっている。道や空き地には虫やら木の実やらを探しているのか、ムクドリやハクセキレイなどがちょこまかと走りながらツンツンと地面を頻りに啄いているのが平和な空間を感じさせながら、その甚く可愛らしい姿に自然と唇の両端が上に上がる。ちょうどアルカイックスマイルの様な唇の形である。
数分程歩いた所で、遠くの方で美咲が庚申塔の隣で待っているのが見えた。動きやすさを重要視してか、パンツスタイルで上は長袖である。虫やダニ対策だろう。
「おはよ」
と栞。
「うん、おはよ」
と美咲。
簡素化された挨拶を終えると、二人は八国山の方向、凡そ栞の家のある方角へと歩き始めた。どのみち栞の家の前を通過することになるのだから集合場所は安易に決定しないでほしいと思う栞だったが、その気持ちは胸に仕舞っておいた。
歩き始めて数秒のところで、栞が美咲に対して話しかける。
「しかし、二人で出かける何て久しぶりだね〜」
「そうだね。いつぶりだろうか」
と美咲。
それもそう、最近は学校では顔を合わせたり、日によっては一緒に途中まで帰るくらいはするものの、祝日は栞は高校で知り合った他の友達らと電車で遊びに行ったり、趣味のギターをポロロンと弾いたりしているし、美咲はといえば塾へ行ったり、趣味のプログラミングをしたりとそれぞれが思い思いに過ごす日が多く、仮に二人で出かけたとしても、二人きりということはまずなく、高校の友人が二・三人必ずと言って良いほどくっついてくる。八国山へいくとなれば、最後に行った日はもっと遡る。
「でも、何で八国山なの?池袋とかで良くない
?」
と当然の疑問を美咲がぶつけると
「いや、何か分からないんだけど行きたくなっちゃってさ〜というか、何だろう…(数秒の沈黙)…行かなきゃいけない気がしたんだよね」
と答える。全く解答になっていない。というか、行かなきゃいけない訳があるわけないだろ。美咲はそう思った。当たり前の感想である。
「でも、ほら、虫の知らせ的な?何かお宝とかあるかもよ〜」
何の宝があるというのだ。美咲はそう思いながらひとまず笑顔を作っておく。確かに八国山の近辺には、市や専門家の調査によれば、数基の古墳や住居跡などの遺跡が確認されているとのことらしいが、お宝があるとは思えなかった。
しかし、実際はお宝よりもまだ珍しく面白いものを見つけることになるのだが、それはもう少し先のお話である。
そこから十数分、彼女らは特に意味もないようなことを喋りながら八国山へ向かった。実際問題、本当に意味がないので割愛する。
そして、二人は八国山の登山道入口へと到着した。登山道入口と言っても何か大きな鳥居があったり、『登山道』やら『八国山』などと書かれた大きい角柱の石像があったりする訳ではない。鬱蒼とした雑木林に繋がる細い獣道のような山道が続いており、薄暗く、しかし気味悪さはなく寧ろ人を惹きつける雰囲気さえ感じる。
しかし、美咲はその山道を前にいつも以上に内心わくわくしていた。
「ねぇ、何かいつもより…何だろう、この山の奥に何か面白いものがある気がするんだよね」
と美咲。
「それな」
と栞。言い出しっぺの栞も勿論同じ様な感情を抱いていた。
「やっぱり、この山に行かなきゃいけない気がする」
と栞が続けた。
そして二人、山道へ入っていく。
元から特に重要な用事があって山へ入った訳ではないので、ただ単に昔のことを思い出しながら2人、山の奥へと歩みを進める。
道は狭く、道の両側にはシノダケやクマザサなどの植物や大小も形状も様々な蜘蛛の巣が張られており、時々手や顔に掛かる糸や網が煩わしい。
そんな中、栞が何かを見つけたようで
「あ、見て」
と言うと、美咲の左肩をポンポンと叩く。
「どうした」
「これ、珍しい花じゃない?最初はよくある雑草かと思ったけど、背が高くて色も紫でとっても可愛いよ」
「ふ〜ん」
興味なさげにそう返事をする美咲。すこししゃがみこんでその花と目線を合わせて見てみると、なるほど確かに見たことがなかった。特に植物に強い興味もない美咲だったが、その可憐さに、一目惚れした少女漫画の女子中学生の様な感情を少しばかり抱いていた。
「興味ないか…」
栞は少し残念そうに美咲にそう言うと
「いや、そうでもない」
と答えた。
そう応答したとき、二人を軽い眩暈が襲った。朝ご飯もちゃんと食べてきたし、お月の物ではなさそうと二人は思ったが、数秒も経たない内にその症状はなくなった。
「今何か眩暈がした」
と美咲が言うと、「私も〜」と栞が返す。
しかし、二人は凡そ同時にしゃがみこんだという状況もあり、特に不審に思わず何か立ち眩み的なものだと考え、全く気にしなかった。その後、二人がゆっくりと腰を上げると、その珍しい花が道の両側にちらほらと咲いているのが確認できた。
「さっきもこんなに咲いてたっけ?」
栞が訊ねる。
「いや、特に覚えてないけど。急にこんなに咲くことはないし咲いてたんでしょ、多分」
「ふ〜ん」
特に不審に思わず、ただその花を、ホッキョクグマの赤ちゃんを見るような優しい目で見ながら道を進んでいく。
進んでいくと、確かに道は幼い頃の記憶と競合させても対して変わらないと思われるが、道端に生えている珍しい花の密度が、山道を進んでいくに従って高くなっていった。十数分程度歩くと、ちらほらというより、ドクダミの繁茂する如くモシャモシャと生えまくっているのが分かった。
「ねぇ美咲、へんじゃない…?」
「何が?」
「いや、だってさ、いくら何でもこんなに生えてるのおかしいよ。だって初めて見た様な珍しい花だよ?」
「そうだな」
「だったら道端にたくさん生えててもおかしくないじゃん?」
栞はそう言われたあと、本の数秒間黙って何かを考えるように顎に手を当てて目を瞑ってみると、何か思いついたように目を突然見開いた。
「何かわかったの?」
「確かに」
解答になっていない。
「いや、言われてみたら確かにと思ったんだよ」
美咲は無表情のまま、何も言わずに栞の言葉が熟すのを待機している。
「でも、これって結構不思議なことじゃない」
「そりゃそうだ。だからさっき栞に疑問をぶつけたんじゃんか」
そう美咲に言われた後で、栞は一瞬考えるふりをして
「何でこんな事になっているのか答えを探索しましょ」
そういうと、遠足当日の幼稚園児のようにルンルンとした足取りで勝手に山道を進んでいった。ひとまず追いかけるしかないと考えた美咲は、栞のあとを少しばかりかったるそうについていく。答えなんて見つかるはずもないし、仮に見つかったとしてどうするんだ、論文でも発表するのか。美咲は心のなかではそんなことを考えていた。
そこから学校でのことや愚痴やら、恋バナやら、近所の犬がどうやらなど適当なことを駄弁りながら十数分程度歩いていた。
ちょうどそこはY字路になっており、珍しい紫の花がもじゃもじゃと繁茂していた。
「これは…」
Y字路を左に抜けるとちょっとした広場あり、地元の子どもたちが遠足をするときはここでレジャーシートを広げてお昼ご飯を食べたりするような所なのだが、足の踏み場もないくらいにその花が一面に広がっていた。はっきり言って気味が悪い。
更に美咲らが上を見上げると、朝は爽やかに晴れていたはずの空が、いつの間にか曇天に切り替わっていた。それも、この山から見えるところどこまでも雲が聯綿と広がっているのが見てとれた。
「ね、ねぇ、帰ろうよ…」
流石にこの異常とも言える状況を目にして不安になったか、美咲はこの場を一刻も早く離れたくなった。ドクドクと速い鼓動、何か起こるのではないかという漠然とした不安、そして速くここから逃げ出したいという直感、それらが美咲を襲っていた。
「いや、面白い。もうちょっと観察してみようよ」
何かに取り憑かれたようにその場を離れようともせず、それどころかこの状況を楽しんでいる様にも見える栞。
一人来た道を戻るのも不安なので、ひとまず栞の傍に暫くいることに決めた。
そんな中、梅雨独特の生温い風が頬を、そして広場に咲きめくる花たちを優しく撫でた。そのとき、気のせいだったか、美咲は花たちが彼女を睨んでいた気がした。いや、本当は気がしただけだったのかもしれない。
「ハァハァ」
栞は過呼吸になっているようにも見えた。目をいつもより1ミリあるかないかくらい大きく見開き、鼻ではなく明らかに口から呼吸を行い、肩が上下に大きく動いている。
「ね、ねぇ…体調悪い?」
美咲が聞く。
「ハァハァ」
何も答えず、ただ呼吸をするのみ。美咲はこのとき、栞が何か悪いものに憑かれたのではないかと思った。ここ八国山は、今でこそ地元の方々の散歩や遠足コースとして親しまれている平和な場所だが、昔は合戦などが行われたこともあったそうだ。
急に怖くなった美咲は、栞の手を無理やり引っ張り、茂みの中、ちょうど当たりに珍しい花が見えないような所を必死に探しそこに連れ込むと、栞の頬を思いっきり殴った。
「ごめん!栞!」
栞は突然死んだふりをしたオポッサムのように微動だにしなくなり、その数秒後再び目を覚ました。
「いてて…」
と栞。
「何だここ?さっき面白い花を見つけて…ここは?」
どうやら先程の一連の記憶をまるまるなくしているようだ。そこで仕方がないので、先程のことを詳しく話してやった。
「なるほど…これは面白くなってきたな」
と栞。美咲は少しも面白くない。寧ろ今すぐ帰りたいくらいだ。
(いや、まてよ)
美咲はそう心の中で呟いた。何かを閃いたらしい。
「栞」
「何?美咲」
「一回、嘘でも良いから花に持っていた興味をなくしてみて」
「難しいこと言うねぇ美咲は」
「う〜ん…もうこの花見飽きてない?」
「…言われてみれば、そんな気もしなくもない」
「いや、栞は見飽きた筈、うん見飽きた!」
そう二人で話すと、再び先の広場に出て、出口へ向かうことにした。栞は美咲に追われた通り、必要以上の興味を持たないようにする努力をしていた。
そうすると、不思議と何も怒らずに、珍しい花のゾーンを特に何のトラブルもなく抜け、地上に降りることが出来た。いや、それどころか途中から珍しい花が見えなくなっていた。珍しい花が消えてしまったのか、もう珍しいともなんとも思わなくなってしまったのかは不明である。
そして、無事下山後
「やっぱり」
と美咲が独り言にしてはやけに大きいのを吐いた。
「どうしたの?」
と栞。
「きっと、あの花たちは花なんかじゃない」
と美咲が言い終わるのを聞くと、栞は
「いやどっち」
と気持ち良い程の間の良さで突っ込んだ。しかし、明らかに文章に矛盾があるので栞の突っ込みは尤もである。栞の突っ込みを待ってましたとばかりに聞き終えた後にお手本の様なしたり顔を見せると、美咲はこういった。
「恐らく、あの花々は人間の興味を利用して生きているんだ」
栞はキョトンとして、解説を求めている。
「あの謎の花は、我々の興味を吸い取って栄耀を蓄え、そして我々の精神に入り込み最後にはのっとってしまうんだ」
栞は、よくもまぁこんなことを瞬時に思い浮かべられるもんだと感心半分、呆れ半分な表情である。
「よくあれだけから、そこまでの情報を獲得できたな…」
と栞。それに対して
「前に本で読んだんだよ。昔は所沢にも妖怪や幽霊の類が居て、その図鑑みたいなやつに載ってた」
栞はそれを聞いて驚いた表情をしてみせた。何せそんな話しは生まれてから初めて聞いたものだったからである。否、確かに河童伝説や鬼伝説、龍や座敷童などの話は風の声に聞いたことがあるが、どれも本気で信じていなかった。
「て、ことは…ほんとにそういうオカルトなものが居るってこと?…あの八国山には」
美咲は静かに首を縦に振る。
そのリアクションをみると、栞は興奮したようだった。
「すごいすごい!」
栞は幼い子供が近所のおばさんに甘い飴玉をもらったときの様な喜び方をしてみせた。
「面白い!もう一回いこう!」
と栞。
「アホか!」
と冷静にそれを止めるのは美咲だった。無論この調子で再び八国山に分け入るなど自殺行為も良いところである。
「まず、きちんと戦略か何かをたてないと」
美咲がそう提案した。
無論、栞にその提案を拒否する理由はドードー鳥を飼育している動物園がある確率程度もない。
数分間議論を重ねた後、意見が固まった。
「よし、行こう」
栞がそういう。
「分かった」
いつの間にかノリノリの美咲がそう返事をした。
こうして二人は再び八国山へ分け入って行く。この先どうなるかは二人にもわからない。
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