第3話 親愛の証3

 ミヅキの秘めたる欲望が、アイアノアに向けられていた。

 勇者の願いを受け容れ、麗しのエルフは甘んじてその身を差し出した。

 妹のエルトゥリンに見守られながら、ミヅキは行為を続行させる。


 その行為とは、──耳かきである。


「あの、ミヅキ様……。そろそろ次へお願い致します……」


 耳の中が毛深いと言われ、アイアノアは居心地悪そうにしている。

 そんな彼女の様子にとうとう気付かず、耳の毛切りを終えたミヅキはナイトテーブルにはさみを置き、代わりに次なる耳かき道具へ手を伸ばす。


「うん、任せて。次は仕上げの──」


 グラスに複数本が収納されているそれは、この世界には存在しない品物である。

 街で材料を揃え、太陽の加護の力を借りて地平の加護の権能で作り出した。


『三次元印刷機能実行・素材を選択・《天然木てんねんぼく及び、綿花めんか実綿みわた》』

『《木軸型もじくがたベビー綿棒めんぼう》・作成完了』


 それは木製軸の棒の先端に綿を取り付けた、いわゆる綿棒であった。

 紙は高価だそうなので軸には木材を使用し、白い毛状の綿花の実綿を素材とした、通常のものよりも細い赤ちゃん用の綿棒だ。


 綿棒が登場したのは20世紀に入ってからで、外国のとある主婦が爪楊枝つまようじの先端に脱脂綿だっしめんを巻き付けて使用していたのを見て、商品化したのが始まりである。


「あっ、それ好きです……」


 アイアノアは綿棒と、さらにミヅキが持ち出した物を見て表情緩ませた。

 綿棒と合わせて、小さなガラス瓶も一緒に取り上げている。


 小瓶の中にはとろみのある透明な液体が入っていて、弾力性に富む樹皮の木栓もくせんをきゅぽんっ、と開けると植物性の青い香りがした。


「流石はアイアノア先生、お目が高い。トウガラシエキス入りの特性化粧水けしょうすいだよ。こっち側の耳掃除の仕上げにも使っていくね」


 微笑みをこぼすアイアノアにミヅキはにやりと笑った。


 化粧水、又はローションはアルコールを含む、栄養や美容効果のある液体の総称で、これも綿棒と同じく地平の加護で合成を行い、作成したものであった。


 パンがあるから酵母こうぼがあり、トウモロコシの近似種があるからエタノールがあり、ペッパー類があるから唐辛子だってこの世界に存在している。


 材料さえあればミヅキの記憶を太陽の加護が完全に補正して、非常にクオリティと完成度の高い品物を作り上げることができるのである。


「いくよぉ……」


 綿棒にその耳かき用化粧水をちょんと浸し、耳の毛を除去したアイアノアの耳の中へと満を持して滑り込ませる。

 外耳道の奥まで正確に挿入そうにゅうされた綿棒に、堪らず彼女は甘い声をあげた。


「ふぁぁんっ……。これっ、気持ちいいです……!」


「この、じわぁっていう感じがたまらないよな」


 鼓膜こまく付近の耳壁に化粧水で湿らせた綿棒が触れると、じょりじょり、と心地よい音と感触がアイアノアの神経に染み渡った。


 鼓膜の周りの皮膚は毛細血管が透けるほど肌が薄くピンク色をしている。

 傷をつけないように力加減に気をつけて慎重に指を動かし、綿棒に滲む化粧水で耳垢をふやかしながら除去していく。

 汚れを落とすだけでなく、外耳道内の保湿性を高める美容効果のおまけ付き。


 ミヅキはまたも押し黙り、真剣そのものな表情になっている。

 繊細かつ大胆な手つきで綿棒を前後させては耳の壁をこすりこすり、魅惑と快感の抽送ちゅうそう運動を繰り返した。


「ふぁんっ、あっ……。ふわぁぁぁん……」


 口許に手をやり、眉をひそめた切なげな表情で断続的な喘ぎ声をあげるアイアノアに対して、ただ黙々と耳掃除に夢中になっているミヅキの姿。

 それは何というか言葉にできないシュールさを醸し出すおかしな光景であった。


「姉様っ、姉様ぁっ……!」


 そして、またそんな必要も無いのに悲壮感を露わにするエルトゥリンの様子もそれに拍車を掛けている。

 唇を噛みしめ、姉の乱れる姿を潤んだ瞳で凝視していた。


──大事な姉様を目の前でいいようにされてるのに、ただ見てるだけしかできないだなんてっ……! 胸が締め付けられる、悔しいっ……!


 なんていうことでも思っているのかもしれない。

 いたたまれないエルトゥリンを差し置き、ミヅキの独壇場どくだんじょうは続いている。


「アイアノアの耳垢はどっちかっていうとしっとりしてるな。普通、耳垢みみあかってのは自然に出てくるもんなんだけど、水分と油分ゆぶんを含んで奥で乾燥してしまうと耳の壁にこびりついてなかなか頑固な汚れになっちゃうんだ。──ほら、こんな感じ」


 いつから居座っていたのか、ミヅキはアイアノアの耳奥から大きな成果物を持ち帰ってきて、綿棒の先のそれを彼女の目の前に差し出して見せた。

 無頓着に突きつけられた自分の恥ずかしい老廃物に悲鳴があがる。


「あぁっ、いやぁんっ……。そっ、そのようなものを見せないで下さいましっ! エルトゥリンの前で私の汚い物を見せびらかすのだけはどうかご堪忍をっ! 私、もう恥ずかし過ぎてどうにかなってしまいそうですっ! ああっ、穴があったら今すぐ入りたいっ……!」


 耳の穴だけに、などとつまらないことを思い浮かべるミヅキ。

 恥ずかしさと気持ちよさに悶えるアイアノアを見て苦笑いである。


 限界が近そうな彼女を楽にさせてやろうとラストスパートを掛け、耳掃除はもういよいよとクライマックスを迎えていた。

 しゅっしゅっと綿棒を絶え間なく前後させ、残らず耳垢をこそぎとってしまう。


「ふぁぁぁぁんっ、ミヅキ様、もっとお強くなさって下さいましぃ……。触れ方がお優しすぎてとっても切ないのですっ……。私っ、もどかしくってぇ……」


「物足りないんだな、わかるよ。アイアノアはこしょこしょされるよりも奥をごりごりされるのが気持ちいいんだな」


「そうですぅー! もっと、もっと奥をごりごりして下さいましぃー! 私は強くされるのが大好きな我慢のできない女なんですぅー! ふわぁぁぁぁぁんっ!」


「アイアノア、声大きいって……」


 ひときわ大きな声をあげてぐったりとしてしまったアイアノア。

 時折、ぴくんぴくんと肩を揺らしている。


 そんな寝姿を満足そうに見下ろし、ミヅキはとうとう念願だったエルフの耳かきを完遂させた。

 思い残すことなく仕事をやり切った達成感のある顔でミヅキは深く頷いている。


「……」


 そして、ここまでの成り行きを見届けたエルトゥリンは呆然としていた。

 怒ったらいいのか悲しんだらいいのかもわからずに我を忘れてしまっている。

 ドキドキする彼女の胸に去来するのは激しい戸惑いの気持ち。


──な、何なの……? わ、私はいったい何を見せられているの……?


 言い知れない脱力感やら喪失感めいた何かをエルトゥリンが感じている傍ら。

 まだミヅキの耳掃除には最後の締めくくりが控えていた。


「はぁ、はぁ……。ふぅ、ふぅ……」


 放心状態のアイアノアの豊かな胸が上下し、乱れた呼吸を繰り返している。

 先ほど右耳にも同じことをされたのに彼女はそれを忘れていた。


 そんなアイアノアにミヅキは──。


 迷いの無い動作でアイアノアの耳元に顔を寄せる。

 そして、長い耳にゆっくりとした息を吹きかけた。


「ふぅぅぅぅぅぅぅっ……!」


 耳奥の毛をすっきり除去し、トウガラシエキス入りのローションで敏感になった耳の中に向かって優しく長い息を吹き掛けた。


「……んぁッ……!?」


 瞬間、アイアノアの身体は電気が走ったかのようにびくんっと震え、全身を駆け巡るぞくぞく感に肌があわ立ち、背筋をぴーんと弓なりに反らした。


「ふわあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーんっ!!」


 そうして、再び宿中を震撼しんかんさせるあの物凄い絶叫をあげたのであった。

 エルトゥリンが宿に戻ってきた直後に聞いた声はこの声だったのだ。


「きゃぁぁぁぁぁぁっ、ミヅキッ! は、破廉恥はれんちよっ! なんてことをするのっ! 姉様の耳にそんなことをしちゃ駄目ぇっ!」


 目の前でまさにそれが再現されてしまい、エルトゥリンは驚いて悲鳴をあげた。

 椅子から後ろ向きに転げ落ちて、腰を抜かしたみたいに尻餅をついてしまう。


「えぇっ? 普通、最後はこれやるだろ」


 予想もしなかった強い抗議を受け、ミヅキはミヅキで驚いている。


「うぅぅ……! ミヅキぃ……!」


 まくれ上がったスカートの格好を気に留めず、涙目に睨み付けてくるエルトゥリンの恨めしい視線には戦々恐々せんせんきょうきょうしつつ──。

 今度こそ本当に、ミヅキの耳掃除劇場は終わりを告げたのだった。


「──あぁ、本当に気持ちよかったですっ! ミヅキ様、素敵なひとときをどうもありがとうございましたっ」


 耳掃除が終わり、上体を起こしてベッドに腰掛け、長い耳をぱたぱたっと動かしながらアイアノアは振り返る。


 ミヅキを見つめるその顔には感謝の他に、別の感情も浮かんでいた。

 ぽっと顔を赤くしながら恥ずかしそうに懇願こんがんをする。


「あの、ミヅキ様……。もしよろしければ、またこういった耳かきをやって頂けると嬉しいです……。私、こんなに気持ちのいい耳の掃除は初めてで……」


 すっかりミヅキの耳かきのとりこになってしまったアイアノアはもじもじして、早速とまたの機会をおねだりしている。

 しかし、それを受けるミヅキの態度は毅然きぜんとしていた。


「駄目駄目、耳の中は繊細だからね。これだけ本格的なのは一ヶ月に一回くらいが丁度いいんだ。やり過ぎは耳の中を傷つけてしまって、外耳炎がいじえんっていう病気のもとになってしまう。だから、いくら気持ち良くても節度は守らないとね」


「はぁ、それは残念です……。でもミヅキ様ったら、仰られてることが何だかお医者様みたいですね。くすくすっ」


 耳掃除をおろそかにした結果の耳垢栓塞じこうせんそくも厄介だが、逆にやり過ぎて炎症を起こしてしまうのも本末転倒でよろしくない。


 耳かきに精通していると自負するミヅキにとって、拘り強くやっている耳かきのせいで悪い影響が出てしまうのはまさにポリシーに反するのである。


 さらに言えば、エルフの基礎代謝きそたいしゃが緩やかなのも確認済みであった。

 今回は長らく耳掃除をしていなかったため、結構な量の耳垢が溜まっていたみたいだが、次回も同じくらい汚れているとは限らない。


 果たして人間と同じ感覚で耳掃除していいものかどうか、また次の機会にやってみないとわからない。


「アイアノアさえよければまたやってあげるよ。一か月後をお楽しみに」


「はっ、はいっ! 是非にっ! よろしくお願い致しますっ!」


 自信を持って披露した耳掃除を気に入ってもらえてミヅキはやっぱり嬉しそうで、快くまた耳掃除をしてもらえるアイアノアも嬉しそう。


──また耳掃除をして頂けるということは、ミヅキ様は私たちとこの先も長く一緒に居てくれるということだわ。運命の袋小路に立たされていた私たちだったけれど、ミヅキ様の存在は本当に希望ね。嬉しいなぁ、心が安らぐわ……。


 このいこいの時間をまた味わえるのももちろん嬉しかった。

 それと同時に、ミヅキの存在が自分にとっての掛け替えのない道しるべとなっていることに心が満たされる。


 機嫌がこのうえなく上々なアイアノアは、微笑んだまま最初の疑問を口にした。


「そういえば、ミヅキ様はどうして急に私どもエルフの耳掃除をされたくなったのですか? 耳掃除がとてもお好きなのだろうな、とはお見受け致しますけれど」


 そんな素朴な質問へのミヅキの答えは、耳かき好きの最もらしい答えだった。

 それは、下心無く純粋にその行為を愛し、ある種の変人と言えなくもない特殊な趣味性癖の成せるわざなのであった。


「最初は自分の耳かきをしたかったんだけど、ちゃんとした耳かき道具がなかなか見つからなくてさ。だったらいっそのこと、材料を揃えて自分で作ってしまおうと思ったんだ。──そしたら、途中で俺の長年の夢を思い出してね」


 自分が好きで気持ちいいと感じる行為を他人にも理解してもらいたい。

 そうした布教活動にも似た、分かち合いたい気持ちがミヅキを突き動かす。


「もしもエルフに出会えたら、その長い耳を手入れしてみたい。俺の耳かき技術を気に入ってもらえるかを試してみたかったんだ」


「だから、パンドラの帰りに街で色々とお買い物をされていたのですね。何に使うのかと気になっておりましたが、これで謎が解けましたっ。──それで、長年の夢をお叶えになられてご感想はいかがでしたか?」


 アイアノアのにこにことした質問にミヅキは満面の笑顔を浮かべた。


「もう最高だったよっ! エルフの耳の手入れなんて、普通に生きてたら絶対できなかったからね! 貴重な体験をさせてくれてありがとう、アイアノア!」


 と、子供みたいに浮かれた声で答えたのであった。


「うふふっ、どういたしまして」


 アイアノアもそんなミヅキに優しげな笑みを返した。


「あっ、そうだ。エルトゥリン」


 気分を良くしたミヅキはくるっと振り返り、エルトゥリンに声を掛ける。

 彼女はまだ床にぺたんと尻餅をついたままだ。


「エルトゥリンもついでに耳かきやるか? 部屋に入ってくるとき、やるなら私にやって、って言ってたよな。だったらほら、ここおいで」


 膝をぽんぽん叩いて言うと、呆然としていたエルトゥリンははたと我に返った。

 飛び上がるように立ち上がると、顔を真っ赤にして大声で叫ぶ。


「私はやらないっ! 絶ッ対にいやッ! ミヅキの馬鹿ッ! もう知らないっ!」


 ドアを荒々しく開け放ち、ミヅキの部屋から脱兎だっとの如く逃げ出したのであった。


「エ、エルトゥリン……?」


 あまりの剣幕にそんなに嫌だったのかとショックを受けるミヅキに、アイアノアはドアの向こうに消えていなくなった妹を見送ってから言った。


「うふふっ。あの子はまだ恥ずかしがっているようですね。心の準備をする暇をお許し下さい。そしてミヅキ様、今更ですけれど黙っていたことがあります。先に謝らせて下さいまし。この通り、申し訳ありませんでした」


 立ち上がってミヅキに向き直り、正した姿勢で深くお辞儀をする。

 訳がわからずぽかんとする間もなく、アイアノアはエルフの事情を告白した。

 顔を上げ、自分の耳を触れながらミヅキの知らない不文律ふぶんりつを明かす。


「私たちエルフには暗黙のおきてがあり、この長い耳に触れても良いと許すのは親愛な相手だけだと定められているのです。そうでなくとも耳は繊細で重要な器官です。エルフだけでなく獣人や他の種族の方々も、気安く耳を触れられるのは嫌がられるかと思いますので、ミヅキ様もくれぐれもご注意下さいまし」


 そう言われて真っ先に思い当たったのは、可愛いからと気安くキッキの猫の耳を触り、見事に怒りの引っかきを食らってしまったときのことだった。

 反省すると同時に目の前のアイアノアにもそれは当てはまり、何ともばつが悪い。


「えっ、そうだったのか……。悪いね、知らんかったとはいえ、アイアノアの大事な耳を触りまくっちまったな……。嫌じゃなかった?」


「──いいえ、全然嫌じゃありませんでしたよ」


 間を置かず、即答でアイアノアは柔らかな笑顔で答えた。


「最初は親愛の証を立てられるかをお試しになられているのかと思い、少々構えてしまいましたけれど、ミヅキ様によこしまな気持ちが無いのは途中からわかりましたから。あんなにも真面目なお顔をされて、私の耳を丁寧に手入れして下さるミヅキ様にならいくら触れられても構いませんとも」


 傍目はためには、ミヅキの押しに負けたアイアノアがなし崩しにわがままを聞いてくれた格好だった。


 しかし、その実は彼女が身と心を少し許し、受け入れてくれていたというだけのことだったのである。

 もしかしたら、逆に試されていたのはミヅキのほうだったのかもしれない。


 その証拠に、アイアノアは後ろ手を組み、ずいっとミヅキに顔を寄せてくる。

 そして笑顔のまま、きっちりと自分の要求を伝えてきたのだった。


「但し、こうして私はミヅキ様にこの耳を触れさせ、親愛の証を余すことなく立てました。ですので、ミヅキ様もパンドラの地下迷宮を踏破する使命のことのほうも、何卒何卒なにとぞなにとぞよろしくお願いいたしますね」


「ちゃっかりしてるなぁ。でもわかった。アイアノアにそこまでしてもらったんだ。もちろん使命も頑張るよ。だからこれからもよろしくね!」


 早速、エルフの耳かきの代償とばかりに見返りを求めてくるしたたかなアイアノアにたじろぎながらも、ミヅキもその思いに応えようとしっかり握手をした。


 そうして心を通わせ、親密な関係を築いた二人はこの後、パンドラの地下迷宮にて雪男と遭遇するあの日を迎えるに至り、より仲を深めることになるのである。


 ミヅキは長年の夢のエルフの耳の手入れをしたくて。

 アイアノアはエルフの大事な耳を差し出すことで親愛の証を立てようとして。

 エルトゥリンは姉が拷問を受けていると勘違いをして。


 これは三者三様の思惑が絡み合った喜劇めいた幕間の出来事。

 ただ、この物語にはまだ続きがあった。


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