第2話 親愛の証2

 アイアノアに耳かきをするミヅキの元に、エルトゥリンが飛んできた。


 拷問ごうもんでもされているのかと、姉の危機だと思って急いで駆け付けたのに、とんだ勘違いだったのを恥じ入っている。

 顔を赤くして部屋のすみっこの椅子に座り、肩を縮こまらせていた。


 そんな彼女の姿を何だか微笑ましく思いながら、ミヅキは自らの長年の夢の続きを意気揚々いきようようと再開していく。


「じゃあ、気を取り直して、と。アイアノア、さっきと同じで左の耳を細かい泡で洗っていくねー。耳介じかいの部分を丹念たんねんに──」


「はぁい、よろしくお願いします」


 右耳の掃除はもう終わったようで、折り返しで今度は左耳からやっていく。


 アイアノアの心はずむ返事に機嫌を良くするミヅキは、あぐらをかいて座るベッドの脇のナイトテーブルに手を伸ばした。

 そこにはすでにナイフで削った褐色の石鹸せっけんの欠片があり、ミヅキは指先でそれらをいくらかをつまんで取った。


 石鹸の歴史はとても古く、遥か紀元前の昔から人類の生活を助けていた。

 植物性油脂ゆしからつくられた石鹸はもちろんこの異世界でも愛用されていて、多少の値が張るものの、ダンジョン探索生活で小金持ちになっていたミヅキたちにとってはもう手が出せない品物ではない。


 ナイトテーブルには木造りのおけもあり、温かいお湯がなみなみと入っていた。

 ミヅキが石鹸の欠片をお湯の中にさっとくぐらせると、不思議なことにミヅキの手にきめの細かいふわふわの泡が瞬時に発生する。


 ミヅキはアイアノアの耳掃除に地平の加護の権能を駆使していた。

 与えられた超常の権能はこんな使い方もできる。

 ぞわりと光の回路模様が身体中を走り抜けた。


『三次元印刷機能実行・素材を選択・《石鹸の欠片と温かいお湯》』

『《柔らかな泡、フォーム》・印刷完了』


「あっ、姉様の加護……」


 ふと顔を上げるエルトゥリンの見る先には、いつの間にか呼び出され、天井付近をふよふよと漂っている光の球体、太陽の加護があった。


 ミヅキの加護の力を思いのまま完成された状態へと昇華させる。

 現代の石鹸に比べると粗末な品物であっても、充分にもこもこの白い泡が立つのであった。


「はぁ、耳元でしゅわしゅわする音が心地いいです」


 アイアノアの耳の長い耳介を柔らかな泡で包み込み、揉みほぐすようマッサージも兼ねて洗浄していく。

 ぱちぱちと泡が弾ける微小な音がして、彼女の耳を楽しませているようだ。


 エルフの耳は見た目よりも耳介の軟骨が柔軟で、ミヅキの手の中でくすぐったそうにぐりぐりと動いていた。


「よし、それじゃ、温かい布で泡を拭き取るから、熱かったら言ってくれよ」


 そう言うと、ミヅキは厚手の布を取り出して、お湯の桶の上にかざした。

 次なる地平の加護の権能を発動させる。


『対象選択・《厚手の布巾》・効験付与・《適度な温度と水分》』


 乾燥した布地に桶の中の湯の水分を取り込み、人肌に優しい温度を付与する。

 すると、それは瞬く間に温かい水分を含んだ綿布めんぷへと変じた。

 付与対象が意思を持たない物体であっても、効験を与えられる奇跡の技である。


「ふわぁぁ、温かくて気持ちいいです……」


 耳に付いた泡を優しく撫でるように拭き取っていくと、アイアノアはふんわりした表情でため息を漏らした。


 泡を除去するだけでなく、耳介部分のくぼんだり、浮かび上がったりしている部分をきゅっきゅっと拭って、表面に付着している汚れも落としていく。

 その手つきは相当に手慣れていて、熟練度の高さをうかがわせた。


「耳がさっぱりしたところで、耳かきを始めていくねー」


「お手柔らかにお願いします……」


 ミヅキはいよいよ耳かき棒を取り出し、手の中で器用にくるくると回している。

 それを見ながら、アイアノアは肩をすくめて困った風の顔で笑っていた。


 見慣れない耳掃除の道具を自在に操るミヅキの腕は確かだ。

 反対側の耳にさっきまでされていたことを思い出すと笑みも浮かぶ。


「まずは耳かき棒のへらの裏を使って、耳のつぼを押していくよ」


 耳介の上側にある浮き上がりの部分に、神門しんもんと呼ばれるつぼがある。

 つぼとは経穴けいけつのことで、重要な神経や血管、筋肉に沿って位置しており、これらを刺激に与えると体調を調整したり、様々な症状を緩和したりできる。


「あっ、そこはじんじんと痛みます。他のところは痛くありませんのに」


 神門のつぼをぐっぐっと耳かき棒のへらで押さえると、アイアノアは少しの痛みを感じて眉をひそめた。


「この神門のつぼが痛いってことは、自律神経に乱れがあるってことだ。疲労回復の効果もあるから念入りに押しておくね」


「ふわぁぁ、この痛た気持ちいい感じが何ともたまりませぇん……」


 閉じたまぶたをぴくぴく震わせて、アイアノアが耳から身体に伝わる感覚を感じていると、ミヅキもそれに納得したように頷いていた。


「やっぱりアイアノアはお疲れみたいだね。毎日ダンジョン探索なんてやってるから当たり前かぁ。いつも助けてもらって感謝してるよ、ありがとね」


「あっ、そんな……。私も自分の使命を果たしているだけですから……」


 お礼を言われて照れているアイアノア。


 そんな彼女の神経が感じている感覚は、ミヅキには手に取るようにわかった。

 それもまた地平の加護の権能で、洞察済み対象のことは何でもお見通しなのだ。


 ミヅキはその能力を耳掃除にも応用させて使っていた。

 耳かき棒を持つ指先と、ミヅキの目が青白い光を放っている。


『洞察済み対象・《エルフ、アイアノア》・感覚共有・同期完了』

『対象選択・《勇者ミヅキ》・効験付与・《精密動作せいみつどうさ》』


「よし、感度良好。こっちの耳の中も細かいところが隅々すみずみまで見えるぞ」


「あんまりまじまじと見ないで下さいまし……。そのようなところを奥まで覗かれてしまっては、このうえなく恥じ入ってしまいますので……」


 恥ずかしがるアイアノアの声をそっちのけで、ミヅキはエルフの耳奥を覗くことができてすっかり興奮気味だ。


 感覚を共有し、肌に触れる触覚はもちろん、ミヅキの視神経を通して本来は見えづらい外耳道がいじどうの奥までを見通すことが可能となっている。

 さながら内視鏡ないしきょうに映る拡大映像を見ているような状態となっていた。


「エルフは人間に比べて耳が長いけど、構造自体はそんなに変わらないみたいだな。つぼの場所だって大体同じだし、外耳道から鼓膜こまくまでの間もほとんど同じだ」


「はぁ、そうなんですか? ……ふぁんっ!?」


 小さく悲鳴みたいな声をあげるアイアノアの耳のあなへと耳かき棒を差し入れる。


 まずは入り口から少し奥を、へらの部分を使って肌をなぞった。

 すっ、すっ、と触れるか触れないかの絶妙な力加減だ。


 痛覚等の感覚を同期させているだけではない。

 手振れを一切排し、機械そのものな超精密な動作を実現させている。

 これにより、決して痛いと感じさせることなく耳掃除を行うことが可能だ。


 異世界渡りのための能力を大げさにも耳掃除に応用させ、もしかしたら後で加護のナビゲーターである雛月ひなつきにどやされてしまうかもしれない。


「ふわぁぁ、気持ちいいですけど……。くすぐったいですっ……」


「ちょっとくらい動いても全然危なくないけど、できるだけじっとしててね」


 細かい動きの耳かき棒でこしょこしょと掃除され、たまらずアイアノアはくすぐったそうに身をよじった。


 そのわずかな動きに合わせ、ミヅキの指先は力を入れたり抜いたりと調節する。

 まさに今のミヅキは超高性能な耳かきマシーンと化していた。


「……」


 こそりこそり、とゆっくりと確実に耳かき棒で耳の中の壁をいて、入り口付近の汚れを除去していくミヅキの顔は真剣そのもの。

 何ならパンドラの地下迷宮で、慣れない戦闘行為に及んでいるときよりも真剣さは上かもしれない。


「うふふふっ」


 そんな顔を見つめて、アイアノアは思わず笑みをこぼした。


「ん、何かおかしなことでもあった?」


「いいえ、耳掃除をされるミヅキ様があまりにも引き締まった真剣なお顔をされていたものですから、それでつい」


「そりゃあ、真剣にもなるよ。耳かきにはこだわりがあるからってのもあるけど、何よりアイアノアの大事な耳を傷つける訳にはいかないからな」


「お気遣いありがとうございます。耳掃除にミヅキ様のお優しさを感じます」


 アイアノアの上目遣いの微笑みに、そっか、と答えるミヅキも嬉しそう。

 何とも仲睦まじい関係にしか見えない二人の耳かき模様。


「うぅぅ、姉様……」


 エルトゥリンは膝の上で力んだ拳をぶるぶると震わせていた。

 座ったまま、何かに必死に耐え忍ぶように二人を睨みつけている。


「ミヅキィ……。姉様の大切な耳を……。うぅぅ……」


 不機嫌そう、だなんて表現は生易しいほどに激しい感情を燃やしている。

 恐ろしい目に浮かぶのはどう見ても嫉妬しっとの炎だ。


 但し、荒ぶる妹は蚊帳かやの外で、和やかに耳掃除は続行されている。


「耳の入り口の掃除は一旦このあたりにしといて、次は梵天ぼんてんを使って細かい耳垢みみあかを払っていくね」


「はぁい。その白いふわふわの綿毛わたげって、ぼんてんって名前なんですね」


 ミヅキは耳かき棒をくるりと反転させると、へら部分とは逆の白い綿のポンポン、梵天をアイアノアの目の前に差し出した。


 水鳥みずどりの羽毛などを束ね、耳かき棒の反対に付けられたそれは、へら部分では取り切れなかった細やかを耳垢を取り払うために使われるものである。

 しかし、そのふわふわの感触は掃除以外の扱い方をされる場合も多い。


「エルフの耳は大きいから梵天のし甲斐があるなぁ。こうやってくるくるされるの気持ちいいでしょ? くーるくる」


「ふわんっ、耳の中にすっぽり入れられるのはくすぐったいですぅ……」


 長い耳介の凹凸おうとつに合わせて撫でつけるように梵天の綿を這わせる。

 そのまま耳のあなに直接入れてくるくる回すと、アイアノアは身体をびくびくと揺らした。


 その度に彼女の豊満な胸がぶるんぶるんと派手に揺れている。

 少し視線を外せばその色っぽい光景が見られるというのに、ミヅキときたら耳掃除に没頭してしまいそれどころではない。


 耳かき行為にこだわりがある、と自ら豪語するのは伊達だてではないのである。


「耳介のくぼんで陰になってるところ、もうちょっと念入りに掃除するね」


「ふぁ……。あぁ、そこもっとカリカリして下さいましぃ……」


 元々、耳垢は自然排出されるのがほとんどで、耳掃除を必要としない場合もあるものの、適切な方法で耳を綺麗にしておくことで清潔さを保ったり、外耳部がいじぶの環境を整えたりもできる。


 耳掃除をしなくていいからと放置し、耳垢で外耳道がいじどうが詰まればそれはもう立派な病気で、耳垢栓塞じこうせんそくという状態に陥ってしまうのである。


 ただそういった事情抜きで、ミヅキのように単に耳かきという行為が趣味の持ち主も少なからず存在する。


 耳の中には迷走神経めいそうしんけいが走っており、ここを刺激されると快感を感じる場合があるため耳かきを好む愛好家は多い。


「どう? 気持ちいい? そういや、せきが出そうになったりしない?」


「はい、気持ちいいです……。あっ、咳は大丈夫みたいです」


 自分の耳かきをするだけでは飽き足らず、他人の耳までお世話したがるミヅキは一般的には変わった趣味の持ち主だと映るかもしれない。


 とはいえ、耳かき自体を生業なりわいとするほど人類の耳掃除に対する需要は高く、一定の界隈かいわいを賑わせているのも事実なのである。


「ああ、エルフの耳を耳かきできるなんて、ほんとに夢みたいだなぁ……」


「もう、ミヅキ様ったら。これはそれほどのことなのですか?」


 エルフという長い耳が特徴的な種族の、しかも美女のものともなれば、ミヅキでなくとも手入れしてみたいと思う者だってきっといるに違いない。

 と、梵天のわしゃわしゃとした感触を共有しながら二人は世間話に興じている。


「もしかしてエルフの耳ってさ、冬場は辛かったりする? これだけ耳介の軟骨が大きくて長いと、先っちょが冷たくなりそうだ」


「はい、お察しの通り、寒くなり過ぎると先端が凍傷になりやすいんです。だから、両手で挟んでごしごしこすったり、長い耳の種族用の耳あてを使ったりします」


「エルフの長い耳は可愛いけど、それだけじゃなくて色々と苦労もあるんだなぁ」


「可愛いだなんてそんな……。ミヅキ様だけです、そのように仰って下さるのは。エルフの長い耳はどちらかといえば、気味悪がられるものですから」


「ふーん、そっか。種族間の問題は難しいもんだねぇ。っと、梵天終わり」


「ありがとうございまーす」


 出番が終わり、ベッド脇のナイトテーブル上に引っ込んでいく耳かき棒。

 それを名残惜しそうに見送るアイアノアはにこにこ笑っていた。


「さて、次は……」


 と、ミヅキが出し抜けに取り上げた道具は銀色の細いはさみだった。

 通常の物に比べて先端の刃の部分が小さく、刃先は丸みを帯びている。


 何度かちょきちょきと動作を確認すると、ミヅキは迷いなく鋏の先をアイアノアの耳に近付けていく。

 これにはエルトゥリンは黙っておれず、すぐに声を荒げて立ち上がった。


「ちょっと、ミヅキ! 姉様の大事な耳に何をするつもりっ!?」


 百歩譲って耳掃除は許せても、アイアノアに危害を加えようものなら話は別だ。

 今にも飛び掛かってきそうなエルトゥリンを見てミヅキはまた苦笑い。


「はは……。いちいち大きな声出さないでくれよ。心配しなくてもアイアノアの耳を傷つけるようなことはしないって」


 反対側の耳ですでに同じことをされ、事情のわかっているアイアノアはくすくすと微笑んで二人の様子を眺めていた。


 鋏の歴史も古く、遥か昔の羊飼いが羊毛を刈り取るために作ったものが始まりと言われており、中世を背景にしているこの異世界にも当然存在している。


 但し、ミヅキが耳掃除に使いたいと思うような小型の精密な鋏は見つけられず、結局は地平の加護で作成することになったのであった。


「この小さな鋏は耳の中の毛を切るための道具なんだ。あんまり知られてないけど、耳の中にはびっしりと細くて小さい毛が生えてて、奥の掃除をしやすくするために先に切っておきたいんだ。気を付けてやるから俺を信じて任せてくれよ」


「私はミヅキ様のことを心より信じております。何も心配などしておりませんとも。どうぞ、御心のままミヅキ様のなさりたいようにして下さいまし」


 鋏を持つミヅキに自分の耳を預け、全幅ぜんぷくの信頼を寄せている様子のアイアノア。

 そう言われてしまっては、もうエルトゥリンには何も言うことができない。


「もうっ、姉様はもっと警戒するってことを覚えてよね……」


 ぶつぶつと文句を言いながら、エルトゥリンは椅子に座り直した。

 せっかく心配をしているのにずっと仲間外れである。


 ミヅキは胸のときめく台詞を言われてしまい、年甲斐もなく赤面していた。

 神秘的で純粋なエルフの彼女の真心は、三十路近い自分には何とも眩し過ぎる。


「だ、大丈夫っ。一ヵ月もすれば、切った毛は元通り生え揃うから切っちゃっても特に不具合はないよ。毛自体も汚れてるし、いつもは洗えない場所だから衛生的な意味でもたまには切るのもいいのかもね。うんうん、きっとそう!」


 照れ隠しか早口でまくしたてると、ミヅキはそそくさと仕事を開始する。


「んっ……」


 引き続きの精密な手の動作で、細く小さい鋏の刃を耳に入れていく。

 アイアノアは金属のひんやりとした冷たさに、ぴくっと首をすくませた。


 マイクロスコープを覗いているかのような地平の加護のサポートと合わせ、ミヅキは自分の指先とアイアノアの耳の奥に神経を集中させる。


 細心の注意を払い、微細な毛をちょきりちょきりと切り始めた。

 わずかに切っては鋏を取り出し、刃先を綺麗に拭ってまた差し入れる。


「ふわぁ、耳の奥がすーすーします。耳の中の毛を切るのなんて初めてで、凄く新鮮な感覚です」


 アイアノアは不思議そうにミヅキに向ける目をぱちぱちと瞬かせた。


 外耳道の毛が除去されていき、鼓膜付近がじかに外気に触れている。

 本来、耳の中の毛は微細で、切られても何の感覚も感じないものだがアイアノアにはわかるらしい。


「エルフは人間に比べて耳の中が毛深くて、皮膚も敏感だから毛が無くなると尚更さっぱり感じるみたいだ。また一つ明かされるエルフの神秘だなこれは」


「うぅ……。毛深い、ですか……」


「うん、びっしりのぼうぼうだ」


「ふわぁんっ……。改めて仰るのはおやめ下さいましぃ……」


 共有する感覚と新たなる発見に興味津々きょうみしんしんのミヅキに、何気なくも毛深いと言われてアイアノアは恥ずかしさに顔を赤らめて喚いた。


 彼女の耳を気遣う一方で、耳かき行為と異世界への探求に夢中になっているときは途端に配慮とデリカシーに欠けてしまう。

 それは何とも、ミヅキの困った性分なのであった。


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