スーツ姿の男性

 昨年の夏。


 学校帰りの駅のホームで絵里は些細なきっかけから、酔っ払いに絡まれたことがあった。



 うだるような暑さの中、急いで電車に乗った絵里は喉の渇きに耐えかね、乗り換えの駅で降りた際に水を飲んだ。


 そこを、赤ら顔をした酔っ払いに見咎められたのだ。『水が飛び散って床が濡れた、危ないだろう』、と。


 水量を調整したものの、気づかないうちに床を濡らしていたんだ、と動転した絵里は慌てて頭を下げ、ミニタオルで水道の周りの床を拭いた。


 が、それでも酔っ払いの怒りは収まらなかった。ろれつの回らない口で同じような文句を言い募る続ける男を目の前にして、周りの乗客達の喧騒の中、絵里は立ちすくんでしまっていた。


 そんな絵里に業を煮やした酔っ払いが一歩二歩と歩き、絵里に手を伸ばした瞬間だった。


 絵里を背中に庇うようにして男性が割って入ったのた。


 そのスーツ姿の男性は、酔っ払いを刺激しないように話を合わせながら絵里をその視線と意識から外しつつ、後ろ手に手を動かした。


 ひらり、ひらり。


 動く事ができない絵里の視線の先で、その動きが早まる。


 ひらひら。

 ひらひら。


 それは、まるで。






 いいから。

 任せて。






 そう告げるように。


 絵里は、心の中で何度も謝りながらその場を離れ、ことなきを得た。



 あの出来事から、一年弱。


 絵里はお礼を言う為に、通学カバンに手作りのお菓子と手紙を忍ばせて、礼の酔っ払いがいないかとビクビクしながらも、今も駅でスーツの男性を探している。


 が。


 後ろ姿しか見ていない為に、似たような男性を見かけても絵里は声が掛けられなかったことがしばしばあった。


 それでも、絵里は探し続ける。


 今でも忘れられない頼りがいのある背中と力強い声を思い出す度に、とくんとくん、と絵里の左胸が反応して、その熱が全身へと広がっていく。


 それが。


 恋心にちかしいものだと、気づかぬままに。



(あの人なら、悲しんでる男の子をきっと放ってはおかない。それで男の子が元気を取り戻したら、何事もなかったように立ち去るんだ……まるで当たり前のように。あの人みたいな私になりたい。だったら、何とかしなきゃ!)


 そっと男性の背中を思い浮かべて、両手を握りしめて、必死で話を考える絵里は、そうして自分の意思で広大イメージの海へと飛び込んだのだった。



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