清川絵里という女の子
(どうしても、パイに言葉が負けちゃう……)
祝日の図書館、午後。
キッズスペース近くの椅子に座り、いくつかの本と膝の上に置いたノートPCでバイト先の新商品であるアップルパイの画像を見比べつつ、考えこんでいる。
時折唇を尖らせて、ぴよんぴよん、と指で弾く絵里を見た図書館のスタッフや閲覧に来た人々は、その愛らしい仕草を見ては微笑む。
が、懸命に思案する絵里は気付かない。
●
去年の事である。
バイト先のカフェ、『プチ=フラン』でホールスタッフをしている絵里が、新作のパスタのPOPを任され、その時の売れ行きが良かった為にオーナーの
今ではそのパスタがカフェの看板メニューになっているという経緯があり、『新しいメニューのPOP、またお願いしてもいいかな?』と新デザートである手作りアップルパイの宣伝を任される事になった。
去年の新メニューとして考案されたパスタは、ふんだんに使われた高品質のクリームにほうれん草と厚切りのベーコンを絡ませ、大橋が考案した独自の配合の黒胡椒が更に食欲を掻き立てるような出来となった。
味も彩りも申し分なく、量に合わせた細かい値段設定により、がっつり食べる派から味わい重視派まで幅広く楽しめるメニューだと評判になり、瞬く間に人気メニューとなっていったのだ。
もっとも。
自分が関わったとはいえ、絵里は自分の力だけで去年の新メニューだったパスタが看板メニューになったとは全く思っていない。
●
宣伝を任されてからの絵里は、厨房に頼み込んでは試作のパスタを作ってもらい、他のホールスタッフにも声を掛けて何度か試食させてもらってはPOPやキャッチコピーを考えた。
そして大橋に途中経過を報告する際は、毎回こうである。
「香菜ちゃんのこの言葉、フラン愛が詰まってませんかっ?!」
「達也さんが作ったお料理はホントに無敵ですよね! 試食させてもらった新メニューが美味しすぎてみんなでハマっちゃって! ううう、体重があ……」
「みんなで頑張ってますので、期待しててくださいね! 私だって、食べてばっかりじゃないですから……あれ、食べてるだけ?」
などと口に出しては唇を尖らせ、頭を抱ええては周りを笑わせていた絵里だったが、大橋だけは予想通りの結果であった事に笑みを溢していた。
大橋が絵里をバイトに採用してまだ数か月であったが、いつもニコニコと笑顔を浮かべては誰よりも一生懸命仕事をこなし、分け隔てなく人と接する絵里を中心に持ってくる事で、どんな相乗効果があるのかを見たかったのである。
結果。
スタッフ間のコミュニケーションが増したという事だけではなく、尊敬の目で自分達を見つめ、何かにつけて教えを請う絵里の力になりたい、良い所を見せたい、と頑張ったスタッフ達の姿があった。
そして口コミやSNSから広がった評判は、地元の人々のみならず、遠方からも客を呼び寄せていったのだった。
●
そんな中。
新たな集客の原動力となった絵里の仕事ぶりはいつもと変わらない。
ニコニコふわふわと来店した客に笑いかけ、注文は『聞き逃しません!』という雰囲気で気合を入れては聞き終わってまた笑顔。
料理を運んだ時も。
水やドリンクのお替りの時も。
皿やグラスを客が割ってしまった時も。
満席で、修羅場のような雰囲気でも。
泣き続ける赤ん坊や子供の前でも。
お会計の時も。
見送りの時も。
零れそうなほどの優しい笑顔を絶やすことなく。
そして、時折はにかんで。
悩んだり落ち込んだりする客も、絵里の笑顔を見て思わずつられて笑ってしまう。何故だか照れくさくなって、顔をそむけてしまう。そしてまたその笑顔を見たくなってしまう。
それが清川絵里という女の子だった。
もっとも。
そんな絵里はといえば。
『プチ=フラン』の人気に自分自身が一役買っている事など全く気付かずに、自分のアルバイト先が評判のカフェとして賑わっている事を、嬉しげに家族や友達に話すばかりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。