カマキリ君は食べられたくない

紫乃美怜

カマキリ君は食べられたくない

 俺の名前は鎌木かまき。どこにでもいる普通のカマキリだ。ある時俺は、親友の蒲谷かまたにに呼びだされ、バー「かまいたちの夜」を訪ねた。

 夏はもう終わったというのに、外は未だ蒸し蒸しと暑く。毎年この季節になると、パリピ共が星の下、顔を出してチンチロリンリンスイッチョン。と、何がそんなに面白いのか、夜長騒ぎ鳴き通す。

 俺が店に着いた時、蒲谷は既にカウンター席に座り、一人ぼんやりとグラスを傾けていた。小柄な体躯と甘い童顔とを持つ蒲谷に、大人の社交場という組み合わせは些かアンバランスで、妙に目を引きつける。俺は

「悪ぃ。遅くなった」

 と言いながら蒲谷の右隣、空いたスツールに腰かけた。すぐさまおんな店主がやってきて

「ご注文は?」と尋ねるので、迷わずハイボールを注文する。

 俺はちらと蒲谷のグラスを覗いて言った。

「何飲んでんだ?」

「コニャック」

「珍しいな」

 いつもはカルーアミルクを飲んでいるような奴なのに。今日の蒲谷は一段と落ち着いた、大人の雰囲気を纏っていた。

「そういう気分なんだ……」

 そう言って蒲谷は、グラスに浅く口付けた。カラメル色の液体が傾いて、飲み込む喉仏がごくりと一度上下する。唇に残る艶を舌先で拭い取るその仕草が、やけに色っぽく目に映った。

「お前、もう酔ってるのか?」

 問いかける俺に、蒲谷が濡れた視線をこちらに向ける。無言で、その上意味深な蒲谷の表情に、俺は思わず息を飲んで固まった。困惑に目を瞬かせていれば、丁度その時、店主が戻ってきて、ハイボールの入ったグラスを俺の前にトンと置いた。

「乾杯」

「乾杯」

 空気を変えるように、俺はわざと大袈裟にグラスをぶつけた。冷たい炭酸を一気にあおる。

 営業という職業柄、今日みたいに一日外を歩き回った日の酒は、疲れた体に染みわたるようで気分がいい。爽快を噛みしめ、そうしてほどけた俺の顔を、蒲谷は横目に見上げて言った。

「急に呼び出して悪かったな」

「本当そうだぜ? お前じゃなかったら断ってた」

 俺の台詞に、蒲谷は眉を八の字に、ははと渇いた笑みを零す。

「で、話って?」

「……ああ」

 問いに、蒲谷は途端歯切れ悪くなると、視線はうろうろ、卓上を彷徨わせた。手は直ぐにグラスへと伸びる。どうやら蒲谷が慣れない濃い酒を飲んでいるのは、気分を落ち着かせるためのようだった。

 なにをそんなに思い悩んでいるのか、それは安易に口にはできないような話なのか。

「……なんだよ? 言えよ」

 俺は不安になって、つい冗談めかすような口調で蒲谷を小突いた。蒲谷は乗ってこない。顔色も悪く、唇は固く引き結んで、相変わらず深刻そうに俯いている。

 俺は周囲に聞こえないくらいまで声量を落とすと、もう一度蒲谷に向かって尋ねた。

「……何があった?」

 グラスの中で、溶けかけの氷がカラリと踊る。

「飲まなきゃやってらんねぇようなことか?」

 重ねた問いに、蒲谷はようやくこくりとだけ頷いて――もはや癖になってしまったのか――さっき飲み干したばかりのグラスにまた口付けた。当然、唇には氷塊だけがぶつかり、肝心の酒は雫一滴ほども落ちてこない。それで中身が空だと思い出したらしい。蒲谷は静かにグラスをコースターの上に戻した。

 俺は店主を呼び止めると、気を利かせて水を注文した。直ぐに届いたそれを、ほらと隣に差し出せば、蒲谷はぐびぐびと、流し込むようにそれを飲み干す。強い酒を飲んでいたせいか、余程喉が渇いていたらしい。ふうと息を吐き出す頃には、蒲谷は瞳に僅かばかりの明瞭さを取り戻していた。

 そうしてようやく決心がついたのか、蒲谷は愈々重たい口を開けた。

「お前〝交尾〟ってしたことあるか?」

「え……っと……」

 俺は呆れて言葉を詰まらせた。

 交尾。すなわち生殖行動とは、俺達にとって遺伝子レベルで当たり前のこと。俺達カマキリは、産まれた時から競争社会に生きている。

 生殖できる年齢まで育ったと思えば、今度は生殖相手を見つける戦いを勝ち抜かなければならない。後世に遺伝子を残すこと――繁殖に失敗するようなカマキリは、負け組のレッテルを貼られて、周囲の笑い者となる。

 適齢期の俺達にとって、交尾したか否かは至って真面目な問題……といえばそうなのだが、これについて赤裸々に語るには、今の俺は正気が過ぎた。蒲谷が無茶に酒を飲んでいたのも頷ける。俺は三分の一ほど残っていたハイボールを一気に飲み干して、新しい酒を注文した。

「……まだだ」

 みんな見る目がなくってな、と俺の言葉に

「そうか、まだか」

 蒲谷が、ほっと安心したように息を吐く。

 追加のハイボールにぐいっと口付けて、俺は言った。

「だがまぁ、すぐ見つけるさ」

 プライドから出た台詞だった。

 語り草をみるに蒲谷も、俺と状況はそう変わらないのだろう。とすれば、ここで俺だけが下手に恥じる必要はない。とはいえ、おんな受けの良い蒲谷がこうも悩んでいるとは意外だった。

 俺は昔から体格が良く、彫りも深い髭面で、正直モテるタイプとは言えなかった。対して蒲谷は、今時の柔らかく甘い容姿。いわゆる草食系というやつで、その性格も、見た目にそぐわず優しく穏やかだった。蒲谷に迫られれば、ほとんどの雌は悪い気はしないだろう。

 あえてモテない理由を探すなら、蒲谷は色恋となると硬派、悪く言えば積極性に欠けるところがある。それだから、肝心な場面で躊躇っているうちに、チャンスを逃すということはあるかもしれない。

 付き合うだけなら優しい雄の方が魅力的だが、遺伝子を残すとなれば結局、雌も強く逞しい雄の方が好ましいはずだ。きっと、俺みたいな。いや……多分。

 店主が、新しいグラスを蒲谷の前に置いた。中身は酒に見せかけた甘いジンジャーエールだった。

「実はそのことで、お前に大事な話がある」

 眼差しはじっとグラスの方を向いたまま、蒲谷はゆっくりと言葉を続けた。

「お前、なにか気付かないか?」

「なにかって?」

 首を傾げる俺に、蒲谷は耳を貸せと言って顔を寄せる。一呼吸置いて、それはひそひそと告げられた。

「……仲間が減ってる」

 続けてこうも言った。

「それもおとこばかりだ」

「考え過ぎだろ?」

 俺はすぐさまそう答えたが、蒲谷の表情は真剣そのものだった。

「お前、釜本かまもとって覚えているか?」

「懐かしいな」と、呑気に呟く。

 釜本とは寄宿学校時代の同級生の名前だ。三人同じ剣道部で、卒業してから俺はほとんど関係が切れていたが、蒲谷の方はいまだ連絡を取り合っていた。

「あいつ、彼女が出来たって喜んでたんだ」


 先日のこと。蒲谷は釜本とビデオ通話をしていた。それぞれが気に入りの酒を手に――お互い、それなりに酔っ払っていた。連日仕事で疲れているところに、酒が入って酔いが回った。蒲谷はいつの間にか眠っていた。

 再び目を開けた時、時計の針はとっくに夜中を過ぎていたという。パソコンの画面越しに物音がして、蒲谷はビデオ通話がまだ繋がっていることを知った。画面内に釜本は映っていなかった。代わりに映っていたのは、服装の乱れたおんなが一人。角度的に上半身しか見えなかったが、何かに跨り上下に腰を振るその様は、明らかに情事の最中だった。

 ――釜本の奴、通話を切り忘れているとも気が付かないで、おんなとイチャついているのか。

 他人の睦言を盗み聞くような悪趣味など、自分は持ち合わせていない。蒲谷は、ぼんやりとした頭でマウスに手を伸ばした。画面の中ではおんなが、柔らかなその胸に釜本の頭を抱きしめている。

 申し訳ない気持ちになりながら、蒲谷はそっと通話を切ろうとした。と、その時、突然おんながこちらを振り向いたのだ。蒲谷はひっと悲鳴を上げた。おんなの腕には釜本の首が――首だけが抱かれていた。

「確かに目が合った。……紅を引いたみたいに真っ赤な口だ。それがニッと――俺を見て、笑ったんだ。それからそのおんな、まるで見せつけるように、俺の目の前で釜本の頭を食ったんだ」

 焦点を失った瞳――まるで絶頂の瞬間を切り取ったように、恍惚とした釜本の死に顔。

 おんなは首のない釜本の上で、なお腰を振り続けていた。蒲谷は恐怖のあまり目を逸らせず、しかし気の狂いそうな光景に、先に限界を迎えた脳が、強制的にシャットダウンを起こした。

「気絶から目覚めた時、もう昼前だった。ビデオ通話は切れていた。それから今日まで……何度かけても、釜本と連絡がつかない」


 蒲谷の話は、にわかには信じ難いものだった。

「そんな馬鹿な……。いくらなんでも、冗談はやめてくれ」誤魔化すように笑う俺。

 蒲谷が食い込み気味に「いいや、冗談なんかじゃない。俺は確かにこの目で見たんだ!」

 拳が勢いよくテーブルを叩く。その音に、周囲の目がぐるりと一斉にこちらを振り向いた気がした。蒲谷はすぐにはっとすると、声を落として言った。

「頼む……お前だけは信じてくれ……っ」

「……分かったよ」

 縋るような目を向けられて、俺は仕方なく肯いた。だが断定するのは早計だろうとも続けた。

「一先ず落ち着け。な? よく見たら、お前隈が酷いぞ」

 バーの薄暗い照明に誤魔化されていたが、蒲谷は相当疲れている様子だった。これでは正常な判断もできまい。

「眠れないんだ。瞼の裏にあの、おんなの笑みが張り付いているような気がして……」

 蒲谷は相当参っている様子だった。額を押さえ、深い溜息を吐いている。

 俺は酒で一度喉を潤してから、改めて口を開いた。

「まだ釜本がお前をからかうために、彼女と一芝居打ったって可能性もある。大のおとこが二人揃って下手に騒いで、それで一時笑われるだけならいいが、種の貰い手がいなくなったらそっちの方が終わりだぞ」

「……分かってる。だからお前に話したんだ。お前だけに」

 蒲谷は力無い声で、ぽつりと言った。

「鎌木は不思議に感じたことはないか? 雌に比べ、雄の数が少ないことに。稚児の頃はそんなに変わらないのに、大人になるとその差が極端に大きくなる」

 たしかに蒲谷の言う通り、カマキリの雌雄格差は昆虫界でも最低レベルと言われている。出世頭といえば大抵おんな。俺の上司も、シングルマザーで育児をしながら、仕事も完璧にこなす憧れの雌カマキリだ。

 雄は雌に比べか弱く、体格だけとっても一回りは小さくできている。体力で劣るとなれば、おまけに口でもおんなには敵わない。これは俺の経験上だが、性格もおんなの方が負けん気が強く、上昇志向が強かった。

 あとで思えば、子供の頃から当たり前のように雌尊雄卑しそんゆうひにどっぷり浸かっていたから、俺は蒲谷に指摘されるまで、社会になんの疑問も抱けなかったのかもしれない。

「これは俺が導き出した一つの結論だ」

 蒲谷は一息置くと、俺に向かってはっきり言った。

「交尾の時――

「そんな……何のために?」


「あら、鎌木君に蒲谷君じゃない。ご機嫌よう」

 二人のおんなが店に入ってきた。二人共、釜本と同じく寄宿学校時代の同級生――竈ヶ崎かまがさき鎌苅かまかりだった。声をかけてきたのは竈ヶ崎の方だ。片や清楚系の竈ヶ崎に、片や濃艶系の鎌苅。全く性質の異なる二人だが、仲が良く、どちらも高嶺の花と呼ばれるほどの美人である。

「懐かしい。元気だった?」

「隣いいよね?」

 返事をするよりも先に、俺の右隣には竈ヶ崎が、蒲谷の左隣には鎌苅が。二人は何故か、俺達を両側から挟みこむように座った。

「私達、さっきまで別のお店で飲んでいたの」

 健康的な肢体を傾けて、竈ヶ崎のしなやかな腕が、俺の腕にそっと絡まる。物欲しそうに潤んだ瞳と、柔らかに息吹く瑞々しい唇。彼女の肉体から、くらりと眩暈のするような甘い香りが漂ってくる。

 一方で、蒲谷の方はというと

「偶然だねぇ。会えて嬉しいなぁ。蒲谷君ったら、最近付き合い悪いんだもん」

 言いながら鎌苅が、舌なめずりをしつつ蒲谷を見つめていた。

「駄目なんだよねぇ、あたし。逃げられると、つい追いかけたくなっちゃう」

 蒲谷は愛想笑いを浮かべつつ、鎌苅から逃げるように俺の肩へ肩をぶつけた。

 彼女達のそれは、駆け引きとも呼べぬほど分かりやすい誘惑だった。もしも蒲谷から話を聞いていなければ、俺はまんまと誘いに乗っていたことだろう。

 恐ろしいのが、おんな達の発するフェロモンの力だ。それは鼻の粘膜に染み入るほど深く香り立ち、雄の本能をみだりに刺激する。勝手に昂る下半身を誤魔化す様に、俺は力を入れて膝を閉じた。

 じりじりと身じろぐ俺に対して、竈ヶ崎は余裕の笑みを浮かべていた。彼女のうるりあどけない瞳の奥に、獲物を待ち伏せする恐ろしい捕食者の気配を垣間見る。

 どうやら俺の認識は甘かったようだ。本能の前に、雄の体は骨の髄まで従順になる。

「ねぇ鎌木君、もしよかったらこの後二人で……」

 首にかかるおんなの腕は、まるで死神の鎌のようだった。甘い誘いにのこのこ釣られ、嗚呼最後には、俺の首も刈り取られるに違いない。

「ごめんちょっとトイレ!」

 突然、蒲谷が勢いよく立ち上がり、そのまま俺の手を掴んで引っ張った。

 二人一緒に駆け込んだ個室トイレ。

「大丈夫か?」蒲谷の声に

「……助かった。ありがとう」

 俺は煩悩を払うように頭を振った。

 誘いに乗っては駄目だ。そう頭では理解していても、目先の誘惑に本能が自ら首を差し出そうとする。こうして蒲谷が連れ出してくれなければ、正直危なかった。

「俺の言ったこと、信じるか?」

「ああ、信じるよ」俺は額の冷や汗を拭い拭い答えた。「彼女の目を見た。スズメに睨まれるよりも恐ろしかった」

「これからどうする?」

「どうするも何も……」

 俺は狭いトイレを見回した。逃げ出せるような窓はない。トイレから店の出口までは、彼女達の座るカウンター席の横を通るしかなく、バレずに抜け出すことは不可能に思える。俺は細く開けた扉の隙間から外の様子を確認しつつ、蒲谷に小声で言った。

「一旦席に戻るしかないだろ。二人から距離を置いたからか、理性を取り戻せたのは幸いだ。正気な今の内に、適当に言い訳して店を出よう」

「だとしても丸腰じゃ駄目だ。このまま戻ったところで、またあのやっかいなフェロモンに誘われて、すぐに身も心も言いなりになる」

 蒲谷が、俺と入れ替わるように扉の隙間から二人のおんなを窺った。その背をみつめながら、俺は思い付いたことをぽつり呟く。

「いっそこうなったら戦うか……。食われると知っていれば、途中ででも逃げられるかもしれない」

「お前なら大丈夫かもな、鎌木」静かに扉を閉めると、蒲谷は暗い顔で俺を振り向いた。「でも俺には無理だ。お前ほど体格もよくないし、腕っぷしにも自信がない」

 励ませるような言葉が、俺には浮かばなかった。下手なことを言うくらいなら、いっそ黙っていた方がマシだと思った。なにせ生きるか死ぬか――これは命のかかった問題なのだ。

 二人して沈黙していれば、ふっと蒲谷が伏せていた目を上げた。

「そうだ」自信たっぷりに、ともすると悪い顔で「……いい案を思いついた」

「なんだ?」

「鎌木お前、俺が『交尾の時、雌は雄を食べる』って説明した時、『何のために?』って聞いたよな?」

「ああ。お前にはそれが分かるのか?」

「分かんなかったさ。だから怖かった。理解できないから……。でも、よく考えればこんな単純な話はない。雌にとって雄を食らうこと――それは〝自分の遺伝子を少しでも多く後世に残す為に必要なこと〟なんだ」

「それって……」

「ああ」蒲谷はゆっくりと頷いた。「本能ってやつだよ。俺達が今、身に染みて味わっている……本能には抗えない。だったらせめて、相手だけは自分の意思で決めようじゃないか」

 蒲谷が後ろ手にトイレの鍵を閉めながら言う。

「鎌木、俺達親友だよな?」

「あ、ああ。もちろ――」

 俺の言葉は途中で切られた。蒲谷の口が、俺の口を塞いだからだ。俺は蒲谷を反射的に突き飛ばして、無理矢理唇を離した。直ぐにでもトイレを出ようと鍵に手を伸ばしたところで、背後から追い詰める蒲谷の手が、股座の急所を撫であげる。

「なんのつもりだ!?」

「俺達二人で性欲を満たすんだよ。そうすればしばらくは、あの強烈なフェロモンもしのげるはずだ」

「馬鹿言え……っぅ」

「ハハ。お前のこれ、凄いことになってる……」

 軽く触れられただけで声が鼻を抜けていった。さっき散々誘引されて、俺も、そして蒲谷も、すっかり発情していた。

「悪くないだろう?」

 耳に吐息がかかると共に、過敏になった俺の体がびくびく震える。俺は息も絶え絶えに言った。

「お前――蒲谷、流石にふざけすぎだぞ……っ」

「俺は至って大真面目さ。鎌木、死にたくないなら覚悟を決めろ。これ以外に、今この昂りを抑える方法はない。雌の血肉になりたいというなら別だがな」

「だからって……っ」

 蒲谷の膨らんだそれが、俺の後ろに押しあてられる。俺は焦った。

「お前――まさかこの俺に雌役をやれって言うのか? そんなの嫌に決まって……」

「忘れたのか鎌木? カマキリは雌の方が体が大きい。俺より体格のあるお前の方が、雌役をするのは当然だろう?」

 狭い個室の中で、互いの脚がもつれあい、俺は便座に膝を打ち付ける。逃げられない。蒲谷は本気だった。

「蒲……谷……」

 嫌だ。

「蒲谷……っ!」

 俺は拳を握りしめた。

「……いや、だ……や――めっ」

 親友で、雄同士で――こんなのは、自然の摂理に反している――!


 *


「二人とも遅かったね。私心配で……後少し遅かったら、迎えにいってたところだよ」

 竈ヶ崎が鈴を転がすような声を上げる。

「悪ぃ」俯く俺の鼻先にぶわり――また、あの雌のフェロモンが香った。

 しかし最初ほど、強い誘引力はない。性欲が満たされた状態であればフェロモンも凌げる、という蒲谷の予測は、どうやら当たっていたようだ。

「大丈夫?」

 竈ヶ崎の手が俺の肩に伸ばされる。それよりも先に、蒲谷が俺の体を自分の方へ引き寄せた。

「あぁ……えっと」

 竈ヶ崎と鎌苅、二人から同時に睨まれて、俺がしどろもどろになっていれば、

「ごめん。こいつ、体調悪いみたいだし、先に帰るよ」

「え?」

 蒲谷が目で話を合わせろと合図してくる。

「それじゃ」

「あ、ちょっと……!」

 かつては恋焦がれていたチャンスを棒に振って、俺達は店を出た。

 蒲谷の手は、少し汗ばんでいた。繋いだ手のひらから、俺の心臓の音が伝わっていやしないかと、不安になる。蒲谷は表情こそ神妙だったが、足取りに余裕はなかった。

 ――結局、初めてがトイレは嫌だと言って、俺は蒲谷を突っぱねた。場所が店のトイレというのも、気が引ける。蒲谷はそうだなと頷いて、存外大人しく俺から身を離した。元より俺が本気で抵抗したら、力では勝てないと分かっての行動だろう。

 一先ずの危機が過ぎ去ったものの、フェロモンの存在が厄介であることに変わりはなかった。仕方なく、俺は手で抜き合うだけならと了承して、その場を収めた。

 こんなことは初めてで、気恥ずかしくて、俺は蒲谷の方を見られなかった。お互い無言で、夜の道を歩き続けた。――進む先には、蛍光色の街が浮かんでいる。

 蒲谷の手は、いつでも振り解ける力だった。でも、俺は……

「なぁ、俺達って親友だよな?」俺の問いに

「当たり前だろ」と、蒲谷が答える。

 また、黙って歩く。秋の夜長の喧噪が、今は不思議と邪魔にならなかった。俺の耳には今も、蒲谷の熱い吐息の名残がとどまっている。

 ――本能には抗えない。

 蒲谷の言葉を、頭の中で反芻する。

 たった一夜で、俺は多くを知り過ぎた。

 雌の本性。

 そして、親友の知られざる一面を。

 俺も、蒲谷も、理性では抑えられない激情にいとも呆気なく振り回される。たかが性欲、されど性欲。

 ――本能なんだから、仕方がない。

 繋がれた手を握り返す。

 俺の内側で密かに、未知の感情が孵化しようとしていた。

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