SF小説 短編集
柊 あると
病室 (お題 周囲から隔絶された状況)
★イントロダクション
処女作
SF同人誌主宰者に「隔絶された状況にいるのだから」とそそのかされ、共作誌編集者に「何らかの形で参加しませんか?」とおだてられ、割と乗るたちだから、ついその気になって、病室で『病室』を書いた。
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ガチャガチャガチャ……。
採血の道具を載せたワゴンが廊下を通り過ぎるころ、
沙羅が入院している個室は間取りがビジネスホテルと全く同じだった。バスルームへ入って洗面を済ませて、南側の大きな窓を開けるころ、看護師が『落としても割れない』という面白みのない食器が数点載ったトレイを持って現れる。沙羅は白い壁に溶けている白衣の彼女をぼんやりと見つめながら、窓辺に置かれたロッキングチェアに座った。
「お変わりなぁい?」
キャスター付きのロウテーブルにトレイを置いて、沙羅が座る椅子のところまで転がしながら白い人が尋ねた。沙羅はあいまいな微笑みを浮かべて頷いた。看護師は頭をちょっと傾けて微笑み返すと、白いドアの向こうに消えていった。
(お変わりなぁい?)
沙羅は頭の中で反芻する。身体の調子は良くも悪くもないから『お変わりない』。今朝起きてから看護師が食事を持ってくるまでの間に起きた出来事も、昨日までと全く『お変わりない』。沙羅は毎日同じ順序で朝の行事を済ませているから『お変わり』があるはずもない。苦笑すると、食パンを手にして小さくちぎり、口に運んだ。
沙羅の生活圏は、このビジネスホテルを真似て作られた八畳ほどの白い病室だけだ。検査がない限り、沙羅はこの空間から出ることはない。
食事を終えると窓から外を眺めた。
「今日もいい天気ね」
いつの間にか入ってきてトレイを持っている看護師の言葉に、沙羅は頷いた。
「本当にいい天気ね。六月……外は暑いのかしら? もう初夏の日差しだと思うの。外を歩く人たちが、生き生きとして見える」
会社へ出勤するサラリーマンや登校する学生の波が、信号が変わると流れ始めていた。彼らの背中にカレンダー付きの時計が見えた。確実に時を刻んでいる。けれど沙羅の背中にある時計にはカレンダーは付いていなかった。
沙羅にとって必要なのは、二十四時間を知らせるだけの時計だ。季節はこの白い壁を通過する許可を得ていなかった。
「本当に……まぶしいわ……」
沙羅のつぶやきに答えず、看護師は引き上げていった。ドアが閉まる音を聞くと同時に、沙羅は立ち上がってしゃべりだした。
「七時半です。すべてが動き出しました。私は耳を傾けて、外界の音を聞きます。まず自動車のマフラー音が溢れています。それに交じって子供たちのはしゃぐ声が届きます。じゃれあいながら歩道を走る子供の姿が目の前に浮かんできます。通り過ぎるOLたちの香水のにおいが鼻につきます。さっそうと歩く彼女たちのヒールの音が耳に『始まり』という文字を叩きこみます。ざわざわと、社会の音が聞こえてきます。私とは別の世界の音です。時間は活気を帯びて走り去っているようです」
沙羅は一気にしゃべると大きく息を吸い込んだ。くるっと窓に背を向けると、自分の病室を見回して、再びしゃべりだした。
「次に私は耳を澄ませます。この白い小さな病室は白く死んでいます。何も動いてはくれません。何の音も聞こえません。いつも同じ顔をして『いる』だけです。時間はこの窓を境にして、Uターンしていきます。空気すら、ぴたっと止まって流れません。この病室は、白い小さな空箱なのです」
沙羅は独り言にしては雄弁にしゃべるとがっくりと肩を落として大きなため息をついた。一連の呪いの書を吐くと、のろのろとベッドに近付き潜り込んだ。
まどろみまどろみ、沙羅の時間は8・9・10と床を這っていった。
沙羅の生活に季節は無関係だ。夏であろうと冬であろうとこの白い病室内は常春で、沙羅は暑さも寒さも知らなかった。さらに、何月であろうが何日であろうが何曜日であろうが、それが沙羅の生活に変化を与えることもない。
沙羅の小さな病室には、二十四時間という二つの針が示す時間の繰り返ししかない。決められた時間に決められたことをするだけで、沙羅の一日は終わっていくのだった。季節に置き去りにされ、外界から隔絶された白い小さな病室に、沙羅はただ『いる』だけだ。だからいつも彼女は声にならない声で叫んでいた。
(出たい! 出たい! この白くて小さな病室から出たい!)
別に何がしたいというわけではなかったが、とにかくこの部屋から出たかった。ただ、道を歩いてみたい。買い物をしてみたい。友人と話がしたい。外食をしてみたい。当たり前のことが出来ない沙羅には、それらが途方もなく魅力的だった。
昼下がり、沙羅は病院の前を行きすぎる人々を見つめては強く願い続けていた。
(出たい! 出たい!)
現実的に、沙羅にそれが出来ないことは十分に解っていた。だから沙羅は窓辺に座り、外を歩く人びとを眺めながら空想するようになっていった。
(あの人の目には、今何が見えているのだろう? 何を考えながら歩いているのだろう?)
沙羅は行き交う人々の頭の中をのぞいているかのように、ターゲットとした人の中に入りこんだ気になって空想をし始めた。彼女は白い小さな病室にいながら、空想によって部屋を抜け出すようになった。けれど現実には、一度として沙羅はこの白くて小さな病室を出たことはなかった。だからますます強く願うようになっていった。
(出たい。この小さな白い病室から出て、自由に外を歩きたい。出たい! 出たい!)
願望のボルテージが日を追うごとに高まっていった。もう沙羅にはその願望を押されることが出来なくなってきた。彼女は両手の爪を立てて、窓枠にしがみつくように外を見つめていた。
沙羅の目に、桜色のワンピースを着た同年代の少女の姿が飛び込んできた。スィングするように軽やかに歩いている彼女の後姿を見た瞬間、沙羅の欲望は限界を超えた。拳を握りしめ心の中で強く叫んだ。
(出たい! あの子のように軽やかな足取りで散歩したい!)
突然沙羅の視界に、海と海へ向かう坂道が広がった。
これが、沙羅が初めて他人の意識の中に入り込み、その人が体感し思考することを共有できるようになった最初だった。
Kは窓辺に座って外を見て沙羅をいつも見ていた。彼は窓辺に座り、何を見るでもなく独りで笑ったり驚いている沙羅に怖れを抱いていた。Kだけが彼女が何をしているのかを知っていた。
「あの子は魔女だ」
Kは沙羅が初めて他人中に入り込んだ時に呟いた。
少女は穏やかな昼下がり、散歩をしていて沙羅に捕まった。少女は自分の中に沙羅が入り込んできたことには気がつかなかった。海から吹き上がる風を受け、踊るように歩いていた。沙羅は少女の五感を通して、白い小さな病室からあこがれて見つめていた外界を満喫していた。
海岸に降りた少女は、海水で湿って重くなった波打ち際を歩き始めた。やがて少女は岩のひっかかりに足をかけると筋肉を緊張させて、そのまま岩の上へと飛び乗った。
(うわぁ……あ……)
沙羅は少女の中で歓声をあげた。生まれてこのかた、沙羅の身体はこんな芸当をしたことがなかった。だから岩から岩へと軽々と飛び移ってどんどんと高い場所へと移動していく少女の身体の中で、自由に動けることに感激していた。
少女の中で夢中になっている沙羅を、Kはずっと見つめ続けていた。
やがて少女は巨大な岩の上に立ち潮風を受け止めて鈴のような声で笑って呟いた。
「このまま空を飛べそう」
少女は無理なことだともちろん知っていた。けれど、飛んでみたいと思ったことも確かだった。沙羅も飛び降りたいと思った。少女の願望と同じものを沙羅も持っていた。違いは、沙羅はそれが可能だと思ったことだった。
(飛び降りてしまう!)
Kは思わす拳を握った。
次の瞬間、少女は桜色のワンピースをはためかせ岩を蹴った。
風は一瞬少女の身体にあたり彼女を受け止めたが、すぐさま彼女に道を譲り、背中を通り過ぎていった。沙羅は眼を大きく開けて少女の中で動き出した風景を見つめていた。
空の青は突然海の青に変わり、白く泡立つ波の一つが沙羅の視界の中で急速に大きくなっていった。ついには視界のすべてが真っ暗になった。
(ぶつかる! もうだめだ!)
Kは思わず叫ぶと眼を閉じた。彼は全身を小刻みに震わせていた。
やがてKは恐る恐る眼を開けて窓辺に座っている沙羅を見つめた。
沙羅は細い手をやせた胸に当てて大きく息をついていた。その状態の中で彼女は舞い上がり、海へ落ちていく間に垣間見た風景を、繰り返し繰り返し思い出しては感激していた。
(なんて奴だ!)
Kは沙羅を睨みつけた。それ以来Kの仕事は、窓辺に座る沙羅の監視になった。
一度他人の身体を共有する楽しみを知ると、沙羅は興味を持った人々の中に手当たり次第入り込んだ。
登校中の学童の中に入り、ギャング・エイジの騒々しさ、抜群の遊びのセンスに感激し、カエルの足を引きちぎって遊ぶ残忍さも体験した。
主婦にもなったし、学生にもOLにもなった。
彼らには、やってみたいけれどできるはずがないという願望が一つや二つは必ずあった。
けれど沙羅は彼らの中に入りこんで、やってみたいと思ったことは、桜色のワンピースの少女が海に向かって飛び降りたように、実行に移していた。
白い小さな病室にいる沙羅は、何をやっても楽しかった。
Kは他人の中に意識を忍び込ませ、楽しんでいる沙羅から目を離さなかった。
(あいつは、いつまで『あれ』を続ける気なんだ? あいつは怖いもの知らずなんだ。他人の身体を勝手に使っているから、やりたいことは何でもやっちまう。
屋根の上を駆け回って落ちた男の子はどうしているだろう?
クレジットカードを使って、手あたり次第高価な買い物をした主婦は?
覚せい剤パーティーに紛れ込んで、薬を打たれて何人もの男に強姦された女学生は?
『風のように速く走りたい』ただそれだけの願望でアクセルを回し続け、カーブを曲がり切れずに山中に消えたライダーの死体は? 見つかったのだろうか?
あいつの目に留まったら最後、あいつの思い通りに身体を使われちまうんだ)
まどろみの中で、10時が沙羅を起こした。さっそくベッドを抜け出して窓辺に椅子をもってきて座った。日曜日のため、庭には多くの患者と見舞客がいた。
「かわいい子」
沙羅は2歳くらいの男の子を見つめて呟いた。茶色がかった髪の毛を風になびかせて、とことことおむつでまあるくなったお尻を振りながら歩いていた。
「紺色のロンパースがかわいらしいわ」
沙羅はくすくす笑った。
(あの子に入るのか?)
Kは身を乗り出した。
突然沙羅の視界に人の膝が見えた。沙羅は今まで一度も見たことも体験したこともない、低くて狭い視界に驚いた。
(あの子の中に入ったのね)
沙羅は周囲を見回した。見えるものは大人の足ばかりだった。地面が極端に近い。歩くたびに世界が不安定に揺れた。
沙羅は戸惑った。入り込んだ男の子の思考が、全く読み取れなかったからだ。彼は「ただ衝動的に動いている」としか沙羅には思えなかった。だから彼をどう扱っていいのか彼女にもわからず、ただ彼の中に入っているだけだった。
男の子はどうやら、動くものに興味を持っているようだった。無心にそれらを捕らえようと動き回っていた。
突然目の前に、大きな黒い鼻と赤い舌を垂らした口が現れた。
「きゃぁ!」
沙羅は一瞬驚いたが、それが犬だとわかると平静を取り戻した。それは柴犬で、男性が連れていたが、彼は男の子に気がつかないまま、病院の敷地を出ようと歩いていた。
沙羅が平静を保っていたせいもあって、男の子も一瞬あっけにとらわれただけで、怖がりもせず、逆に犬を追いかけ始めた。彼の視点は、犬のしっぽ一点に集中し、せわしなく動くしっぽを捕らえることが最大の仕事になった。
男の子の母親は、誰かと無駄話に夢中で息子の存在を忘れ切っていた。
彼の興味は、お尻の上に上手に乗って左右に振れるふさふさとした尻尾と、丸い小さな黒い肛門であることが、沙羅はおかしかった。
彼は機嫌がよかったので、犬の後を追って病院の敷地から出てしまった。けれど、すぐに犬を見失ってしまった。2歳児の記憶時間はわずか30秒だと言われている。
彼は一瞬で犬の存在を忘れ、忙しく目の前を横切る、多くの足に惹かれていた。30秒しないうちに彼が持つ興味対象は変わっていった。赤い靴に惹かれたと思うと、数秒後には白い紙袋に変わっていた。
今まで沙羅が入り込んでいた人々は、一つの事柄に、何かしらの感情を持っていた。その感情に同調して、彼らが望むことを本当に叶えてあげていたのだった。
でもこの男の子は、ただ興味を持ったものを追いかけているだけだったから、沙羅は飽きてしまい、男の子から意識を離した。
出る瞬間、沙羅は激しく行き交う、無数のタイヤを見た。
(あの子はたった2年しか生きていなかったのに……)
Kは青ざめて沙羅を見た。沙羅はロッキングチェアーに揺られながらぼんやりとしていた。まだ目の中で無数の足がちらついていた。
やがて沙羅は椅子から立ち上がり、目をこすりながら軽く頭を振った。「コの字」方に建てられた病棟を、首を左側から回して見渡した。
「あら?」
沙羅は不思議そうに眼をとめた。
(眼があった!)
Kは身体を硬直させた。
(あの人も退屈なのかしら?)
沙羅はKを見つめながら何気なく思った。
(やめろ! 俺は退屈なんかじゃない!)
Kは必至で叫んだ。
(暇そうな顔をしているわ。あの人も一日中あの病室の中で、ぼんやりと外を見ているのかしら?)
沙羅は病的に細い体をしたKをじっと見ていた。
(辞めてくれ! 俺は退屈していない!)
もうKの頭の中は、沙羅に侵入されてしまうかもしれないという恐怖で、パニックを起こし始めていた。
(私は、今は他人の中に入ることが出来るから退屈じゃないしむしろ楽しいわ。あの人は一日中何を考えなにをして生きているのかしら?)
沙羅はKに興味を持ち始めた。
(俺を見るな!)
Kは真っ青になり震えながら叫んだ。
(隔絶された白い病室の中で、毎日毎日何の代わり映えもしない生活をしているんでしょうね。そんな生活の中で、何を感じなにを見ているの? 退屈で、退屈で……)
(やめろ! 俺の中に入ってくるな!)
(あの窓から外を見ていると身を乗り出して……)
(俺を殺す気か? 彼ら同様俺をこの窓からダイビングさせて殺す気なのか?)
(あの人の中に入ってみたい)
(辞めろ! 自分で飛び降りろ!)
Kは目を強く閉じると全身に力を込めて叫んだ。
次の瞬間、Kは地球の重力を感じて目を開けた。急速に地面が近づき、砂の一粒一粒がはっきりと目の中に見えていた。
吸い込まれるような感覚が身体中を満たした瞬間、眼の前が真っ暗になり、荒い呼吸と動悸でKは崩れそうになる身体を必死で壁に爪をたてて堪えた。
やがて、Kの耳に悲鳴や叫び声、ストレッチャーを要求する医師の声などが聞こえてきた。眼を開けて地面を見下ろすと糸が切れた操り人形のような姿で、白いネグリジェを真っ赤に染めた沙羅が倒れていた。
(あいつは魔女だったんだ)
誰も気がついていなかった。健常者に入り込んでいるのが沙羅だけでなく、彼女の中にKが入り込んでいたことを。
沙羅が他人の意識の中に入り込んで体感した一連の行動は、彼女の欲望を叶えていたと同時に、沙羅の意識の中に潜りこんでいたKが起こしていたことを、当事者である沙羅もKすらも知らなかった。
「Kさん。そろそろベッドに戻りましょうね?」
看護師に促されて、無表情のKはのろのろとベッドに近づいた。看護師がKの身体をベッドに横たえると優しく布団をかけた。
「いつになったら、自分を思い出すのかしら……」
看護師は精神科病棟の白い小さな病室にKを残して、鉄格子がはまったドアを閉めると鍵をかけた。
(了)
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