第9話 理由
「孝弘……つか折笠センセーがデビューしたのが今から二年前でさ」
K-BOOKSから程近い場所にある喫茶店「花椿(はなつばき)」に、私達三人は移動していた。
古くからあるお店の為か、レトロな内装で統一された店内にはご年配のお客さんが多く、そのせいか中では静かな空気が流れている。暖かみのある木目にほの赤いマホガニー色が、どこか懐かしい気分にさせてくれる、私にとってもお気に入りの喫茶店だ。
私達が案内されたのは店内一番奥にあるテーブル席で、入口からは奥まっているせいか見えずらい場所になっている。
そこで軽い注文を済ませた倉澤さんが、口早に話題を切り出していた。
彼が言った二年前、という言葉に、私はある事を思い出した。
「二年前と言えば……」
「そ。K-BOOKSをやってたこいつのじーちゃんが亡くなった年だね。由月ちゃ…えーと、広瀬さんはその時もう働いてたんだっけ?」
倉澤さんの質問に、私は頷きを返した。呼び方を変えたのは、先ほど工藤店長に窘められたからだろう。
―――二年前、K-BOOKSのオーナー、工藤圭一郎(くどうけいいちろう)氏が亡くなった。
私の面接をしてくれた方で、白髪に丸眼鏡をかけた優しい雰囲気の老紳士だった。面立ちは今の工藤店長に似ているけれど、彼をもっと柔らかくした感じと言えば正しいだろうか。
私が入ってからすぐ後に体調を崩されて、あまり会う事は無かったけど……。
それでも印象深く覚えているのは、とあるきっかけがあったからだろう。
確か圭一郎氏に関しては、お店では宝田さんが一番詳しいんだよね。同じ高校の卒業生で、宝田さんは後輩にあたるとかで。
彼女にとって、工藤圭一郎氏は若い頃の『憧れの人』だったらしい。
お話を読むのも書くのも好きな方で、それが高じてK-BOOKSを開いたのだそうだ。近くの小学校や図書館に自分のお勧めの本を寄贈もしていたとか。
そんな方が亡くなってしまい、経営者を失ったK-BOOKSを引き継いでくれたのが圭一郎氏の孫にあたるという工藤店長だ。
当時はオーナーが変わるという事で私達も息を飲んだものだったけど、圭一郎氏の事も、工藤店長の事も知っていた宝田さんが皆に「お孫さんは圭一郎さんによく似てるから大丈夫よ」と言ってくれたおかげで早まって辞める人も出ずに今も続いている。
「孝弘……折笠センセーがデビューした年に圭一郎氏が亡くなって、あの店をどうするかでコイツん家がちょっと揉めたんだよね」
そう言って、倉澤さんは工藤店長を指差した。その仕草に少し目を眇めながら、工藤店長が口を開く。
「祖父が急逝した後、工藤の親族はK-BOOKSの閉店を望みました。親族のほとんどが都心に移り住んでいて、残っていたのは祖父だけでしたからね。ですが、祖父は遺言を残していて、それにはあの店を僕―――孫の孝弘へ譲り渡すと書かれていたんです」
「言い方悪いけど、田舎の本屋なんて別に放棄しちまえばいいって俺は言ったんだよ。でもコイツ、あの店を閉めるなんて絶対にさせないとか何とか言ってさ。んで、二足の草鞋になったっていうのがお話の背景ってワケ」
話の途中で運ばれてきたカップを手に、倉澤さんが付け足した。彼の手には、濃い色をした珈琲が香ばしい薫りとほのかに白い湯気を立ち上らせている。
工藤店長と私は共に紅茶を頼んでいたので、私の目の前には紅みがかった琥珀色の液体が、成り行きを見守る様に静かに揺れていた。
「抱えている従業員の方もいましたからね。祖父が亡くなったからといって、それで終わりというわけにはいきませんでしたし、僕自身あの店を無くしたく無かったんです。祖父の愛した店ですから」
「それにしたってよ。別に雇いの店長でも良かっただろうに、わざわざ自分でやるんだもんなぁ」
「全て人任せにはしたくなかったんですよ。あの店は、僕にとっても思い入れのある……大事な店ですから」
卓上に置かれた紅茶の水面を見つめながら、工藤店長がどこか遠い目をして呟く。磨き上げられ鏡面のように美しいテーブルの上に、彼の伏し目がちな瞳が映り込んでいた。その表情からなんとなく、彼自身があの店に深い思いを抱いているのだろうことが感じられる。
そうでもなければ、態々無理をしてまで経営を引き受けたりはしなかっただろう。
祖父である圭一郎氏との思い出の店……それ以外の何かが、その複雑な瞳の中に含まれている気がした。
彼が常には見せない表情につい目を引かれていると、伏せられていた瞳がふいに持ち上がり視線がぶつかる。
―――……あ。
普段の、お店に居る時とは違う淡い微笑みが、彼の顔に浮かんでいた。
「……わっかりやっすー…」
工藤店長に気を取られていたせいで、彼の隣で零れた倉澤さんの言葉は、私の耳には届かなかった。
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