第8話 予兆
「おり、かさ、けい……?」
私の良く知る、作家さん。
私の好きな、作家さん。
何度も何度も、家にある書籍の背表紙で見た憧れの人の名前を反芻して、そして指し示された人の顔を見て、私はまるで人形かなにかのように、ことんと首を横に傾げた。
……折笠慧、って言った?今?
……誰が?
倉澤さんが。
工藤店長の事を?
倉澤さんは名刺を見せてもらった通り、AL出版の編集者さんで、折笠慧先生の作品が出ているのもAL出版。
そして倉澤さんが担当している作家さんというのが―――
視線を逸らせずにいる私に、工藤店長は困惑したような表情を浮かべていた。眉尻を下げたその姿は、いつもの穏やかな表情を作る顔にはとても不似合いに見えてしまう。
驚いたまま固まっている私と、居心地悪そうにしている工藤店長。
その間の空気を破ったのは、またしても倉澤さんだった。
「まあ、こんなところで立ち話もなんだから、ちょっと場所変えようか。由月ちゃんもさ、君もわけわかんなくて困ってるでしょ。別にヤバイ話じゃないから。孝弘……っと工藤店長か。の為にもちょっと話聞いてってよ」
身近に居た人が憧れの作家さんで、しかも職場の上司で……苦手だと思っていた人で。
思いもしなかった事実に言葉が出ないでいると、倉澤さんがにかっと笑いながらそんな提案をしてくれた。
え?と回らない頭のまま二人の様子を窺うと、なぜか工藤店長は渋い顔をして倉澤さんを睨んでいる。
「勝手に彼女を名前で呼ばないでください。それに、広瀬さんを巻き込むのは許しませんよ」
そして彼は普段は見せない苦々し気な顔と声で、倉澤さんに向かってそう言い放った。
ああ、いつもはあんなに穏やかなのに、こういう顔もするんだな、なんてぼんやり思いながら、巻き込むとは一体どういう事なんだろうかと考えた。むしろ、今のこの状況がよく判らない。
「いいだろ別に。俺……っつーか、第三者が居た方が由月ちゃんだって話判りやすいだろうしさー」
「ちゃんと広瀬さんと呼んでください。馴れ馴れしい」
「へいへい。ったく面倒くさい男だねアンタってヤツは」
そうやっていまいちよくわからないやり取りを交わした二人が私の方へと向き直る。
なぜ倉澤さんが私を「由月ちゃん」と呼ぶことに彼がそんな反応を示すのか、その意味を考える前に再び話を向けられ思考がふっと掻き消えた。
「仕方がありませんね……申し訳ないですが広瀬さん、少々お時間頂いてもかまいませんか?」
倉澤さんの提案を、工藤店長はどこか投げやりにも見える重めの溜息を吐きつつ私に促す。
私は混乱した頭のまま、ただ静かにそれに頷きを返したのだった。
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