最終話:勘違いなんかじゃないから

「はー……マジですみません」


 床の掃除を終えると、彼女は座り込んでため息を吐いた。謝らなきゃいけないのはこっちだ。約束を破って心配をかけて。


「……っ……すみません。なんか、安心したら、泣けてきちゃって」


 ぽろぽろと涙を溢す彼女。その涙を見て、彼女の大切な人は自殺だったということを思い出した。不安にさせたくないと思っていたはずなのに結局不安にさせている。何をしているんだ私は。だけど彼女は私を一切責めない。責めるどころか、無事で良かったと心からホッとしたように笑う。その笑顔が彼に重なる。彼もそうだった。いつも私のわがままを笑って聞いてくれていた。自分のことは二の次で。私はそんな優しい彼に甘えてばかりだった。何も返せなかった。


『待ってるから大丈夫ですよ。ゆっくりで良いから』


彼はそう言ってくれたし、実際、いつまでも待つつもりでいてくれたのだろう。だけど、運命は待ってなどくれなかった。何も返せないうちに、彼を奪っていってしまった。本人が待つと言ってくれたって、運命が待ってくれるとは限らない。だから、私は変わりたい。変わらなきゃいけない。もうこれ以上、過去に怯えて今の自分の気持ちから逃げてはいけない。


『眠らなくても明日は必ず来てしまうから』


 そう。どれだけ恐れていても明日はやってくる。時間は前にしか進まない。私が立ち止まっても待ってはくれない。だからいい加減、前を向かなきゃいけない。過去の私じゃなくて、今の私の心に従わなきゃいけない。今の私はどうしたいんだと自分自身に問う。答えはもう出ているはずだ。聞くまでも無いだろう。そう返ってきた。私は、この人を守りたい。私の気持ちに寄り添ってくれた優しいこの人を。これ以上不安にさせたくない。重たい腕を伸ばして、彼女を抱き寄せる。


「灰塚さん……?」


「……ごめんなさい。あなたの大切な人が自殺したことは聞いていたのに。メッセージも電話も急に無視して、不安にさせてしまいましたよね」


「……はい。正直、あの日のことがよぎりました。……次に会うまでに時間空けないほうがいいって言ったのも、急に取り乱したあなたを見て不安になったからです。今話を聞いてあげないと、手遅れになるんじゃないかって」


「そうですよね。そう思って私も、今日にしたんです。あなたを不安にさせたくなくて。なのに……ごめんなさい」


「ううん……無事で良かったです。……本当に……無事で良かった」


 そう言う彼女の声も身体も震えていた。それでも、彼女の口からは私を責める言葉は一つも出てこない。無事で良かったとか、安心したとか、安堵の言葉ばかり。優しい人だ。本当に。どうしてこんな私にこんなにも優しくしてくれるのか。問うと彼女は言った。「あなたが優しいからですよ」と。


「あなたが優しくしてくれたから。家に入れなくて困ってたあたしを泊めてくれて、あたしの痛みに寄り添ってくれたから。だから……」


 背中に回された彼女の腕に力が籠るのがわかる。


「好きです……貴女が好き……」


 消え入りそうな声で呟いた後、彼女はハッとして私を突き放す。「今のは違う」と出かけた否定の言葉はそれ以上聞きたくなくて、咄嗟に彼女の唇を奪ってしまった。動揺と羞恥で真っ赤になった彼女の顔を見て、ようやく自分が何をしたのか気づく。


「今……キス……え……なん、なんで……?」


「ご、ごめんなさい。急に。……嫌でしたか」


「いや……その……嫌……嫌では……ない……です……けど……なんで……?」


「……確認なんですけど、今の好きは、恋愛的な意味の好きで合ってますよね?」


「……それ、キスしてから聞きます?」


「違うんですか?」


「……違うって、言ってほしくないんですか」


「はい」


「……なんでですか」


「……私もあなたが好きだからです」


 そう言うと彼女は恐る恐る私を見た。しかし目を逸らし「勘違いじゃないですか」と吐き捨てるように言う。どうせ異性を好きになるんでしょうと言った元カノと同じ顔で。どうして。どうしてそうやって決めつけるの。彼ならそんなこと——。

 いや、違う。八雲さんは彼じゃない。それに、私がバイセクシャルだということも知らない。話せばきっと、八雲さんならきっと、分かってくれる。だって八雲さんは自分と違うと分かっていても、それでも寄り添ってくれる人だから。彼のように先入観を持たずに話を聞いてくれはしないけど、話せばちゃんとわかってくれる。自分とは違うからと私を信じられずに、対話すら拒絶して突き放したあの子とは違う。違うと信じさせてほしい。


「勘違いなんかじゃないです」


 震える声で搾り出す。だけど彼女は認めてくれない。「だって、あなたは異性を好きになる人でしょう」と突き放してきた。その一言で、何かがぷつんと切れた。ずっと抑え込んでいた感情がドッと溢れ出す。


「異性を好きになったことがあるからなんですか!? 異性を好きになったことがある私は、同性のあなたを好きになっちゃいけないんですか!? 何を根拠に勘違いだっていうんですか! 勝手に私の感情を偽物だと決めつけないでください!」


 私の悲痛な叫びを受け取った彼女はびくりと跳ねて、私に視線を戻す。その瞳からはまだ戸惑いや疑いの色は消えない。だけど、そこにはちゃんと私が映っている。


「だって……」


 彼女の瞳に映る私が揺れる。


「だって、そんな漫画みたいに都合の良いこと、あるわけないじゃないですか」


 涙とともに溢れる言葉は否定の言葉だった。けれど、拒絶の言葉ではない。信じたいけど信じるのが怖い。そんな怯えが伝わってきて、頭が冷えていく。


「……すみません。怒鳴ってしまって」


「……こちらこそ、ごめんなさい。同じだなんて言われると思ってなくて、びっくり、しちゃって……灰塚さんのこと、否定したかったわけじゃ、ないんです」


「……分かってます。……八雲さん、今言いましたよね。あたしの痛みに寄り添ってくれたから好きになったって。私も同じ理由ですよ。同じ理由で、あなたを好きになったんです」


「でも……あたしは……女ですよ……」


「関係ないです。……あなたはどうかわからないですけど、私にはあまり関係ないことです。私、バイセクシャルなんです。女性と付き合ってたこともあります。……その時彼女にも散々言われました。勘違いなんじゃないかって。私は異性を好きになる人だから、どうせ最終的には異性を選ぶんだろうって。……あなたもそう思いますか。一度でも異性を好きになった人間は、信用出来ませんか」


 どうか信じてほしい。私の訴えに対して出てきた彼女の最初の言葉は「ごめんなさい」だった。異性と付き合っていた人だから同性に恋愛感情を抱く人ではないと突き放そうとしたことに対する謝罪だった。それを聞いて、彼女を信じて打ち明けて良かったと安堵した。そして様々な感情が涙となって溢れ出す。すると彼女は私を抱き寄せた。


「ごめんなさい。まだ少し、疑ってます。夢なんじゃないかって思ってます。けど……夢なら覚めないでほしいって思うくらい、嬉しいです」


「……現実ですよ。ちゃんと。現実です。……でも……一つ、謝らないといけないことがあります」


「……なんですか?」


「私はあなたが好きです。……でも、彼のことも好きです。忘れることなんて出来ない。それでも……あなたのそばにいたいです。あなたと一緒に、今を生きていきたい」


 虫のいい話だ。だけど彼女はそれでも良いと迷わず言ってくれた。私も彼女ならそう言うと確信していた。ずるいなと自分でも思う。だけど、もう決めたから。自分の感情から逃げないと。


「あたしだってまだまだ引きずってますよ。あなたと違って忘れたくないとは思っていないし、むしろ忘れたいと思ってる。でも……あたし、昨日あなたの夢を見たんです。あたしの中ではもう、あなたはあの人より大切な存在になってるんです。だから、必要ならそばに置いて。その代償に大切な思い出を手放せなんて言わないから。あなたのそばで、あなたを守らせてください。もう二度と、大切な人を失いたくないんです」


「……はい。でも、一方的に守られるわけにはいかないです。私にも、あなたを守らせてください。……私も、もう二度と、与えられるばかりで何も返せなかったと後悔したくないから」


 彼女を抱きしめ返す。私の選択を、彼はどう受け止めるのだろう。


『あんな罪悪感を抱えていながらも今、彼女は僕の隣にいてくれている。僕の側にいたいと望んでくれている。それが意味することが自惚れではないならこれほど嬉しいことはないし、それに応えたいと思う』


 彼が日記に書いていたことが、彼の声で蘇る。今の私が彼女と生きていくことを決めたって、彼と過ごした日々で感じた幸せが偽物だったことにはならない。私は彼を愛している。それは今も変わらない。そのことは周りには伝わらないかもしれない。同性愛者なのに異性愛者のフリをするために彼を利用したのだと誤解する人もいるかもしれない。だけど、もうそれで良い。これからを一緒に生きてくれる彼女と、過去を一緒に生きてくれた彼だけはきっとそのことを分かってくれているから。

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