第10話:蘇るトラウマ

 〜初めに〜

 今回は一部ショッキングなシーンがあります。



 ※以下本編です。




 バイトが終わって彼女に連絡を入れる。するとすぐに「こっちは今から夕食の材料買いに行きます」と返ってきた。「付き合います」と返すと「駅で待ってますね」と返ってきた。しかし、駅についても彼女の姿は見当たらない。どこにいるのだろう。メッセージを送るとすぐに既読がついたが、返事はこない。少し間を置いてから、何度かメッセージを送ってみる。既読は付く。しかし、やはり返事はこない。なんだか嫌な予感がして電話をかける。しばらくコールした後、応答は拒否された。


『私、あなたのこともっと知りたいです。私のことも、知ってほしいです。だから……また、ご飯食べに来てください』


 彼女はそう言った。なのに何故返事をくれないのだろう。心がざわつく。


『なんとなくそんな気はしてた。でもごめん』


『君が男の子だったら良かったのに』


 あの人の声がこだまする。気づけば走り出していた。彼女が住むアパートに向かって。


『最初は、追いかけようと思いました。けど……出来なかった。死ぬのが、怖くて』


 彼女はそう言っていた。だけど、今もその恐怖が彼女の中にあるとは限らない。彼女を守ってくれるとは限らない。だってあの人もいつも言っていた。『もう死にたい。でも死ねない。死ぬのが怖いから』死ぬ前日まで、そう言っていた。それなのにあの人は死んだ。本当に死ぬなんて、思わなかった。

 最期の言葉の後に聞こえた、ガタンと椅子を蹴り倒す音が、ギリギリとロープが軋む音が、苦しそうな声が、その後見た光景が——あの日のトラウマが鮮明に脳裏に蘇る。頼むから、貴女は同じ道を辿らないで。そう願いながらひたむきに走る。


「はぁっ……! はぁ……!」


 息を切らしながら、恐る恐るドアノブに手をかける。鍵はかかっておらず、ひねるだけで簡単に開いた。あの日もそうだった。鍵はかかっていなかった。試してるだけだと思った。流石に度が過ぎるだろ。ふざけんな。どれだけ心配させれば気が済むんだ。そう怒鳴り込んだが、彼女は返事をしなかった。二度と口を聞いてくれなくなった。本当に死ぬなんて思ってなかったくせに。そう言われた気がした。


「っ……」


 あの日のことを思い出して、足がすくんでそれ以上先に進めなくなる。だけど、部屋の中から微かに声が聞こえた瞬間、ハッとして足が動いた。声がした。生きてる。まだ生きてる。まだ間に合う。幻聴でないことを祈り、玄関のドアを閉めることも忘れて、土足のまま音がした方へ向かう。リビングの方から苦しそうな喘ぎ声が聞こえる。蹲る彼女を見つけた。過呼吸になっている。だけど、呼吸をしているということは生きているということだ。


「灰塚さん!? 灰塚さん! あたしの声聞こえる!?」


 呼びかけるが返事はせず「ごめんなさい」と何度も繰り返す。あたしの声は届いていないようだ。明らかに正常ではない。だけど、生きてはいる。生きている。辺りを見回す。ロープも椅子もない。薬を服用した形跡もない。声は出させている。そのことにまずはホッとして、力が抜けてへたり込む。

 と、ここでようやく、靴を履いたままであることに気づく。慌てて脱いで、裏返して床に置く。今更裏返したところで手遅れなのだけど。そういえば、玄関のドアを閉めた記憶もない。しかし、こんな状態の彼女を放ってはおけない。

 あたしもあの人が亡くなってからしばらくは不安定だった。こんな風に過呼吸になったこともある。そういう時、友人はあたしが落ち着くまで黙って側にいてくれた。それに倣うように彼女の隣に座り、背中を撫でる。何に怯えてるのかは分からないけれど、あたしはあなたに危害を加える存在じゃない。だから落ち着いてほしい。そう宥めるように、優しく。そうしているうちに、少しずつ呼吸が整っていく。


「……灰塚さん、あたしの声聞こえる?」


 もう一度声をかける。すると今度は頷いた。そしてまだ少し荒い呼吸のまま続ける。


「……どう……して」


「ん?」


「どうして……来たんですか」


「……そりゃ来るでしょ。待ってるって言ったのに居ないし、返事もこないんだもん。ドタキャンするような人には思えないし、心配するよ」


「……心配かけてすみません」


「良いですよ。無事でよかっ——ああっ! いや、良くねえわ! ごめんなさい!」


「へ……?」


 靴を履いたまま家に上がったことを謝罪すると、彼女はきょとんとした。そして床に置かれた靴を見て、ぷっと吹き出した。さっきまでパニックになっていたのが嘘のように笑い出す。


「あと、多分玄関も開けっぱなんで……靴置くついでにちょっと、閉めてきます……すぐ戻るから待っててください」


「……ふふ。はい」


 これだけ笑えるならとりあえずは大丈夫だろう。そう信じて、急いで玄関へ向かう。やっぱり開けっぱなしだ。何かあったのかとアパートの住民達が集まってきていた。『まさか恋人の後を追って……』『警察呼んだ方が良い?』『その前に誰か様子見に行った方が』『やだよ本当に中で死んでたらトラウマだよ』なんて不穏な会話が聞こえてくる。


「あ、八雲さん出てきた。灰塚さん。何かあったの?」


「すみません、お騒がせして。えっと……」


 彼女から急に連絡が来なくなって、大切な人が自殺した時のことを思い出して心配になって慌てて様子を見に来た。なんて正直に話したくはない。絶対哀れまれる。勘弁してほしい。かといって、灰塚さんがパニックを起こしたことも話したくはない。


「あ、あたしの部屋にデカい虫が出まして……それでお隣に避難させてもらったんすけど、玄関閉め忘れちゃうくらいパニックになっちゃって。あはは……ほんと、騒がしくしてごめんなさい」


「部屋に虫? でもあなた、外から来「と、とにかく! 大丈夫なんで! 心配かけました!」


 会話を無理矢理断ち切って玄関を閉める。確かに、よく考えたらあたしは自分の部屋からではなく、外から走ってここに来た。その光景を見ていた人がいれば、部屋に虫が出てパニックになってここに避難したというのは矛盾していることにはすぐに気づくだろう。そこまで頭が回らなかった。しかし、この件に関しては触れないでくれという意図は流石に伝わるとは思う。お節介な人も多いが、ここはそっとしておいたほうが良いと諭してくれる人も居ると信じたい。


「はぁ……」


 一息付いて玄関先に座り込むと、ペタペタと足音が近づいてきた。振り返ると、ぬいぐるみを抱えた彼女が立っていた。


「あ……すみません、すぐ戻るって言ったのに。玄関開けっぱなしで入ってったから近所の人たちが心配して集まってて。とりあえず、あたしが部屋に虫が出てパニックになって避難してきたことにしました。外から来たから一瞬で嘘ってバレたんすけど。まぁでも……そっとしておいてくれって意図は伝わったとは、思います。多分」


「……ご心配をおかけしました」


「良いっすよ全然。とりあえず落ち着いたみたいで良かったです」


 先ほどの笑顔はすっかり消えてしまった。しかし、落ち着いてはいる。今なら話せそうだが——土足で踏み荒らした床の掃除が先だなと、汚れた床を見て苦笑した。

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