第9話:忘れたくない
「灰塚さん、この後暇? 飲みに行かない?」
仕事終わりに同僚の女性から飲みに誘われた。彼女は毎回声をかけてくれる。気を使ってくれているのだろうけど正直ありがた迷惑だ。先約があるから失礼しますと断ると、何故か彼女は驚いた顔をした。
「なんですか?」
「いや……灰塚さん、彼の件があってからずっと塞ぎ込んでたから。良かった。一緒に飲みに行ける人が出来るくらい吹っ切れて」
彼女はそうホッとしたように笑う。それは嫌味でもなんでもなく、100%善意なのだろう。だけど、その善意が私にとっては痛かった。だから彼女の誘いには乗りたくなかった。彼女はきっと、彼のことは忘れて新しい恋をすべきだと思っているから。それが私の幸せに繋がると思っている。そんな気がする。そうじゃなかったらきっと、吹っ切れて良かったなんて言わない。
『灰塚さんは、違いますよね。彼のこと、忘れたいとは、思ってないですよね』
八雲さんはそう言った。その通りだ。私は彼を忘れたいと望んでなどいない。むしろ忘れたくなんてない。その気持ちを汲み取って寄り添ってくれたのは、八雲さんだけだ。自分は忘れたいと思っているのに、私も同じ気持ちだと決めつけなかった。違うと分かった上で、大切な人をなくした痛みに寄り添おうとしてくれた。
あたしとは違うと言われた瞬間、元カノと同じように突き放すのかと思ってしまったがむしろ逆だった。違うのに本当に寄り添えているのか不安になったと言ってくれた。それはつまり、違いを認めた上で寄り添いたいと思ってくれたということだ。だから私は彼女に近づきたいと願ってしまった。
彼のことは吹っ切れていない。多分一生吹っ切れない。それでも私は、彼女に側にいてほしい。流石にそれはわがままがすぎる。そう分かっていても、願わずにはいられない。こんなわがままな感情を誰かに抱いたのは久しぶりだ。その感情の名前を、私は知っている。だけどまだそうだとは認めたくない。今はまだ、同情と呼ばせてほしい。同僚からは「デート、頑張ってね」と言われてしまったが。先に相手が女性だと話していたらデートなんて言葉は使わなかっただろうか。それはそれでもやもやする。だけどそれ以上に、彼女に会いたい気持ちが勝る。それでも今はまだ、これを恋と認めるのは怖い。願わくば、彼女が私に向ける感情も恋とは呼ばないでほしい。別の感情で繋がりたい。彼への恋心を上書きしてほしくはないから。
アパートに着いたが、隣の部屋は真っ暗だ。彼女はまだ帰ってきていないようだ。バイトがあるから遅くなると言っていた。まだ働いているのだろうか。一応連絡を入れてみるが、既読も付かない。仕事終わったら連絡くださいと一言入れて、冷蔵庫にある食材を確認する。納豆、ヨーグルト、豆腐——色々あるものの、メインになるようなものが何もない。そうだった。昨日の親子丼に使った鶏肉のあまりはお弁当に使ってしまったんだった。どうしたものかと上を見上げると、使いかけのクリームシチューのルゥを見つけた。ちょうどいい。今夜はこれにしよう。どちらにせよ、材料は足りないから買いに行かなければいけないが。
冷蔵庫を閉じて、買い出ししている間に八雲さんが帰って来るかもしれないと思い、一応連絡しておこうとスマホを手に取る。するとタイミングよく「バイト終わりました」と連絡が来た。「こっちは今から夕食の材料買いに行きます」と送ると「付き合います」と返ってきた。付き合ってもらうほどではないんだけどなと思いつつも「じゃあ、駅まで迎えに行きますね」と送ってしまった。私は今、八雲さんに少しでも早く会えることを嬉しく思っている。早く会いたい。彼とデートの待ち合わせをしていた時と同じ気持ちになっている。その気持ちを一旦リセットしたくて、彼が置いて行ったぬいぐるみを抱きしめる。会いたい。彼に会いたい。その気持ちは嘘じゃない。嘘にしたくない。なのに、八雲さんに対する気持ちはただの同情だと言い聞かせるのはもう限界だと心臓がうるさい。黙ってほしい。
スマホが鳴る。開いたままのメッセージアプリに「駅に着きました。どこに居ますか?」と八雲さんからのメッセージ。行かなきゃ行けない。だけど、行くのが怖い。ぬいぐるみを抱いたまま、その場から動けなくなってしまった。「灰塚さん?」「おーい」「大丈夫ですか?」と心配するようなメッセージが続き、ついには電話がかかってきた。会いたい。会いたくない。会いに来てほしい。側にいてほしい。これ以上近づいてこないでほしい。矛盾した感情で息が詰まって、上手く呼吸が出来なくなる。パニックになる中、なんとか動いた指は、応答拒否のボタンを押した。
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