第7話:その選択は

 今朝見た夢は、あの人の夢ではなかった。眠るのが怖いから一緒に寝てほしいと灰塚さんに頼まれる夢だった。昨晩の眠る前のやり取りを再現するような夢だったが、現実とは少し違った。ベッドに入ると、彼女はすがるようにあたしに抱きついてきて言った。『忘れさせてください。彼のこと』と。戸惑うあたしに、彼女は続ける。『好きなんでしょう。私のこと』と。あたしを抱き締める腕に力が籠る。『好きなら抱いてくださいよ。彼のことを忘れるくらい激しく』彼女はそう、切なげな声であたしを誘う。突き放そうとするが、あたしの身体は金縛りにあったように動かない。息が苦しい。声も出ない。せめて、服を脱ごうとしている彼女を視界に入れないように固く目を閉じる。


「す、すみません……苦しかったですか?」


 急に正気に戻ったような灰塚さんの声が聞こえて、締め付けが弱まる。目を開けると、彼女が申し訳なさそうな顔であたしを見つめていた。

 あれは夢だった。それはすぐに理解した。しかし、これはどっちなのだろう。まだ夢なのか? 現実に戻ったのか? わからないまま、とりあえず目の前の彼女に時間を問う。彼女は時計を確認して「六時です」と答えた。そして「二度寝しますか?」と続ける。これが現実か夢かはよく分からないが、目の前の彼女は、さっき抱いてくれと誘ってきた彼女とは別の存在だと思う。確かめるために、彼女に問う。「彼のこと、忘れたいとは、思ってないですよね」と。彼女は急に何を聞くんだと言わんばかりにきょとんとした顔をして「はい」と答えた。


 電車に揺られながら、今朝の彼女とのやりとりを思い出す。あれがどこまで夢だったのかは分からないけれど、現実の彼女は彼のことを忘れたくないと思っている。それは真実だ。対して、あたしはあの人を忘れたかった。彼女はあの人を思い出すたびに優しい顔をするけれど、あたしはあの人にそんな顔はしてやれない。彼女が大切な人に向けた感情と、あたしが大切な人に向けた感情は違う。それは最初から分かっていたけれど、大切な人を亡くしたということに変わりはないだろうと思っていた。だけど、彼を想って優しい顔をする彼女を見ているうちに、全然違うと気づいた。あたしは本当に、彼女に寄り添えているのだろうか。そう不安になったあたしに、彼女は泣きそうな顔で言った。


『全部同じじゃなきゃ、駄目なの? 一部だけじゃ……繋がれないの? なんであなたがそんな顔するの。先に手を差し伸べたのは、あなたの方だったくせに』


 確かに、大切な人を亡くした痛みに寄り添おうと先に手を差し伸べたのはあたしの方だ。だけどあれはあたしに向けられた言葉じゃなかった。じゃあ一体、誰に向けた言葉だったのだろう。過去にあたしのように自分も同じだと彼女に寄り添おうとして、やっぱり違ったと突き放した人がいたのだろうか。あの取り乱し方は異常だった。よっぽどその人に傷つけられたのだろう。それでも彼女は、あたしを信じようとしてくれた。待ってると言ってくれた。あたしを安心させるように優しく笑って。


『君が男の子だったら良かったのに』


 あたしの好きだった人は、最期にそう言い残してこの世を去った。次に会うまであまり時間を開けない方が良いと思ったのは、彼女があの人と同じように苦しみから逃れるためにこの世を去るかもしれないと思ったからだ。

『待ってますから。ちゃんと』そう言ってあたしを安心させるように笑ったのは、あたしの不安を察したからだろうか。そうだとしたら、どこまで優しいんだ。あんな優しくて可愛い人に愛されていた男性が羨ましくなる。事故がなければ彼女はその人の隣で笑っていたのだろうか。その人と幸せな家庭を築いていたのだろうか。そんなことを考えているうちに、実家の最寄駅に着いた。慌てて降りて、実家に帰る。


「ただいま」


「おー。おかえり」


 玄関のドアを開けると高校生の妹が出迎えてくれた。今日は平日だが、創立記念日で学校は休みらしい。母は買い出しに出掛けて居ないようだ。


「姉ちゃん、昨日どこ泊まったん?」


「……その辺のホテル」


「えー。どこのホテル?」


「どこでもいいだろ。それより鍵は」


「怪しー」


「かーぎ!」


「へーい」


 妹が投げた鍵を受け取り実家を後にしようとすると、引き止められた。


「なに」


「母ちゃん言ってたよ。『あんた達の恋人がどんな人でも、あんた達が幸せなら口出すつもりはない』って」


 妹には自分がレズビアンであることは言ってあるが、母にはなんとなく言えなかった。

 昔、母に聞いたことがある。『もしあたしが同性愛者だったらどうする?』と。それに対して母は答えてくれなかった。聞いてなかったと誤魔化した。本当に、たまたま聞いていなかったのかもしれない。だけどもう一度聞き返す勇気はなくて、大した話じゃないと誤魔化した。あの日からあたしと母さんの間には気まずい空気が流れている。妹に言った『どんな人でも』の中に、同性は含まれているのだろうか。いや、含まれていると解釈したから、妹はあたしにそれを伝えたのだろう。


「……恋人出来たら、紹介するよ。あんたにも、母さんにも」


「うん。楽しみにしてる。恋人出来たらダブルデートしようね」


「あんた恋人いんの?」


「これから作る」


「あたしが女性と付き合ってるって知っても変なこと言わない奴にしてよ」


「大丈夫。今気になってる人は百合好きだから」


「いやそれ、逆に信用ならんのだが……」


「大丈夫大丈夫。そんな過激な百合オタじゃないから。百合が好きというか、同性愛とか異性愛とか関係なく恋愛物が好きみたいな感じ? だから同じ百合好きでも百合しか愛せない人とは話が合わんらしい。でもそれであたしと意気投合して——」


 と、好きな人の話を始める妹。話の途中だが、講義に間に合わなくなるため、最後まで聞かずに立ち去る。追いかけてはこなかったが、スマホの通知音が何度も鳴る。駅に着いてから、途切れ途切れに送られてきているメッセージをスクロールして流し見して適当なスタンプで返事をした。

 しばらく電車に乗って、アパートに戻ってきた。講義が始まるまではまだ時間がある。準備だけして、ベッドに寝転がる。昨夜は広いベッドで寝たせいか、やけに狭く感じる。


『これ、彼と暮らしていた頃から使っているベッドで、買い替えるお金が無くてそのまま使っているんです』


 彼女はそう言っていたが、多分それだけではないだろう。彼のことをあれだけ引きずっている人だから。


『私、あなたのこともっと知りたいです。私のことも、知ってほしいです』


 その言葉にきっと深い意味はない。分かっていても、期待しそうになる。あたしじゃきっと、彼女の心に空いた穴は埋められないのに。それどころか、あたしの心に空いた穴が広がる可能性だってあるのに。それでも、あたしも近づきたいと願ってしまった。彼女の手を取ってしまった。その選択は本当に正しかったのだろうか。

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