第6話:違うけど

 夢を見た。彼が亡くなるあの日の夢。いつもの悪夢。だというのに私は、何故かその夢を見たことにホッとしていた。私と同じように大切な人を亡くした経験がある隣人に一日優しくされたくらいでは埋まらないくらいに彼が私にとって大きな存在だったのだと、世間体のための交際ではなく本気で愛していたのだと、証明された気がして。同時に、それほど大切だったのに彼の手を取ることが出来なかったことへの後悔と、元カノの言う通り彼女への恋は本物ではなかったのかもしれないという疑念と罪悪感が押し寄せてくる。無意識に枕を抱きしめる腕に力を込めてしまうと「う……」と、枕が唸ってハッとする。これは枕ではない。八雲さんだ。


「す、すみません……苦しかったですか?」


「……今、何時っすか……」


「えっと……」


 時間を確認する。まだ六時だ。アラームが鳴るまで三十分ある。


「六時です。二度寝しますか?」


「……灰塚さんは……」


「はい」


「……彼のこと、忘れたいとは、思ってないですよね」


 急な問いに戸惑いつつも思ってないと伝えると、彼女は何故か「そうですよね」と納得して寝落ちした。なんだったのだろう。寝ぼけていたのだろうか。

 七時半までにはなんとか起きると彼女は言っていた。それまで寝かしておこうと思い、ベッドを出て布団を掛け直す。眉間に皺が寄っている。いつもの悪夢を見たのだろうか。

 向こうから散々助けを求めたくせに、こっちから差し伸べた手は取ってくれなかった。彼女はそう言っていた。私の元カノもそうだった。私を求めるくせに、信じてはくれなかった。今の私を信じずに、来るかも分からない未来に怯えて私を突き放した。だけど私も、そんな遠い過去に囚われて、彼を突き放した。私たちが生きるのは過去でも未来でもなく今だ。そんなこと分かっているのに私は、未だに過去に囚われ続けている。八雲さんもそうかもしれない。だけどきっと、私よりは前に進んでいるのだろう。そんな気がする。

 朝起きて、今日の仕事のことを考える。その時間に私はある意味救われているのかもしれない。だけど今日は駄目だ。仕事のことなんて考えられない。元カノと亡くなった彼のことで頭がいっぱいになっている。切り替えられない。休みたい。だけど休んだらきっと、余計に駄目になる。前を向かなきゃ。


『眠らなくても明日は必ず来てしまうから。明日も一日頑張るためにも、ちゃんと休まないと』


 眠るのが怖い私に同意した後に彼女はそう言った。そう。私も仕事がある。眠らなくとも朝は来るし、仕事はなくならない。今を生きる私は、前にしか進めない。後ろを振り返ったって、もう戻れない。そう何度も自分に言い聞かせて、重たい足を動かして寝室を出て、洗面所へ向かう。冷たい水で顔を洗って、強引に気持ちをリセットしてから、弁当のおかずを作るためにキッチンに立つ。

 そういえば八雲さんは何が好きなのだろう。私は朝はお弁当のおかずを作った後に決まってバタートーストを作るが、彼女も同じもので良いだろうか。悩みながら昨日余らせた鶏肉を照り焼きにしていると、足音が近づいてきた。「おはようございます」と八雲さんの声。まだキッチンに立って一時間も経ってないと思うが。そんなにボーっとしてしまっていただろうかと慌てて時計を確認する。まだ七時前だった。


「なんか、目が覚めちゃって。三度寝したら七時半超えそうだし、起きちゃおうかなって」


「ちょうど良かったです。朝ご飯どうします? ご飯にします? パンにします?」


「えっと……じゃあ、灰塚さんの楽な方で」


「いつもはどっち派なんですか?」


「特に決まってないっす。ご飯が残ってたら適当にふりかけかけて食うし、無ければ食パンそのまま齧ってますね……」


「……なるほど。わかりました」


 トーストは私が焼き終わった後に焼くことになるから少し時間がかかるが、ご飯ならもう炊けているしおかずもお弁当のあまりがある。足りなければふりかけもある。


「では、ご飯炊けてるのでよそってきますね」


「ありがとうございます」


「はい。どうぞ」


 ご飯を茶碗に盛って食卓に出すと、彼女はお礼を言ってから、山盛りに盛られたご飯を二度見した。


「……よそってもらっておいでなんですけど、朝からこんなに食えないので減らして良いっすか」


「……あ。す、すみません。つい」


 亡くなった彼はよく食べる人だった。特に朝。『朝ご飯はしっかり食べないと一日頑張れないですからね』なんて言って、いつもご飯を山盛りにしていた。初めて見た時は朝からよくそんな食べられるなと感心したが、毎朝見ているうちにそれが当たり前になっていたらしい。量を減らして戻ってきた彼女が持っていた茶碗は、私が持った量の半分以下になっていた。半分どころか、4分の1かもしれない。


「もしかして、恋人さんは朝からあの量を?」


「はい」


「すげぇ食うんすね……」


「……そうですね。たくさん食べる人でした」


 美味しそうに食べる人だった。『作り甲斐があるとよく言われます』なんて自分で言うほど。そんなところが好きだった。


「……やっぱもうちょっとおかわりして良いっすか?」


「はい。どうぞ」


「あざっす」


 朝食を誰かと一緒に食べるのは彼が亡くなったあの日以来だ。いつものバタートーストなのに、いつもより美味しい気がする。誰かと一緒だから? しかし、昨日の夕食はそうでもなかった。いつもと同じだった気がする。その理由についてはあまり考えたくなくて、彼女から目を逸らす。

 逸らした視線の先に居た子犬のぬいぐるみと目が合う。彼との初めてのデートの時に、私が彼にあげたぬいぐるみだ。クレーンゲームの景品をじっと見ていたから、欲しいのだろうかと思って取ってあげた。『君に似合うと思って見ていただけです』なんて最初は誤魔化そうとしていたが『じゃあ私がもらいますよ』と私が言うと本当は欲しかったのだと素直に認めた。昔から可愛いものが好きだが、女みたいと揶揄われたことや、それが原因でフラれたことが原因で素直に好きと言えなかったらしい。


「……あのぬいぐるみも彼との思い出の品ですか?」


 私の視線を追った八雲さんが言う。頷くと「そうですか」と静かに相槌を打った。

 沈黙が流れる。彼女の方に視線を戻すと、彼女はじっとぬいぐるみを見つめていた。


「……あたし、今日はあの人の夢を見なかったんです」


「……そうなんですか」


「……はい。……でも、灰塚さんはきっと、彼の夢を見たんでしょうね」


「……はい」


「……ですよね」


 私の方を見ないまま、彼女はもう一度「そうですよね」と繰り返した。どうしたのだろう。何だか様子が変だ。どうしたのかと問うと、彼女は俯いて、独り言のように言葉を溢した。


「……あたしは、あの人のことを忘れたいと思ってます」


「え? はい……」


「……灰塚さんは、違いますよね。彼のこと、忘れたいとは、思ってないですよね」


 今朝と同じ質問を投げかける彼女に戸惑いつつ、もう一度「はい」と答える。「そうですよね」と、彼女は寂しそうに笑って、俯いて独り言のように続けた。「やっぱりあたしはあなたとは違うなぁ」と。その一言は、私にとっての大きな爆弾だった。その先の言葉が聞こえなくなるほど大きな爆発を起こす巨大な爆弾だった。


「違うから、なんですか? 幻滅しましたか? 期待はずれでしたか」


「え? いや、その……」


「勝手に共感して近づいてきたのはそっちでしょう。そもそもあなたは最初から知ってたでしょう。私にとっての大切な人は恋人で、自分にとっての大切な人はそうじゃないって、知っていたでしょう。分かってて近づいてきたくせに違うからって突き放すんですか。だったら最初から私に寄り添うようなこと言わないでよ」


 そういうことを言いたいわけではないかもしれないと冷静になって彼女の話を最後まで聞くことは出来なくて、言葉が溢れて止まらなくなる。最初から分かってたくせにと、彼女を責める言葉が止まらない。


「あの、違うんです。話を——「触らないで!」


 伸ばされた手を思わず跳ね除けて、ようやくハッとする。八雲さんの傷ついたような顔が視界に入る。その顔が元カノに重なる。私が自分とは違うと知った時の元カノに。


「……全部同じじゃなきゃ、駄目なの? 一部だけじゃ……繋がれないの? なんであなたがそんな顔するの。先に手を差し伸べたのは、あなたの方だったくせに」


 彼女は私の言葉を最後まで聞いてから、静かに言った。「それは多分、あたしに向けた言葉じゃないですよね」と。そう言われて私はようやく冷静になれた。


「……取り乱しました。すみません。話を続けてもらえますか」


「……続けても、大丈夫ですか?」


「……はい」


「……わかりました。先に言っておきますね。あたしはあなたとは違うけど、決してそのことを責めたいじゃないです。あたし……普通の人とは、ちょっと違うんです。だから……自分と違うからと突き放される辛さは、分かってるつもりです」


 普通の人とは違う。やはり、私の推測通りなのだろうか。


「……元々、分かってました。あなたが大切な人を想う気持ちと、あたしが大切な人を想う気持ちは違うって。そんな違いは些細なことだと思ってました。けど、実際はあたしが思っていた以上に大きくて……少し、不安になったんです。あたしは、大切な人を無くしたあなたの痛みに本当に寄り添えているのかなって。『全部同じじゃなきゃ駄目なの? 一部だけじゃ繋がれないの?』なんて、それはこっちの台詞ですよ」


「……すみません」


「いえ。びっくりはしてますけど……傷ついてはいないですよ。あまりにも様子がおかしかったので、多分、変なトラウマスイッチ入れちゃったんだなってのはすぐに気付きましたから」


 彼女はそのトラウマについて深掘りしようとはせずに「もう落ち着きましたか?」と優しく声をかけてくれた。

 どうして彼女はこうも私に優しいのだろう。その優しさは、誰に対しても向けられるもの? それとも、大切な人を無くした私に同情しているから? それとも——。

 胸がドキドキする。彼女に近づきたい。彼女にもっと優しくされたい。私の苦しみを分かち合ってほしい。そして、彼女の苦しみも分かち合いたい。だけど、もし彼女が普通の人と違うと言った意味が私の想像通りなら——。いや。


『その違いはあたしが思っていた以上に大きくて……少し、不安になったんです。あたしはあなたの痛みに本当に寄り添えているのかなって』


 そう言った彼女なら、きっと、大丈夫だ。彼女があの子と同じレズビアンだとしても、彼女はあの子じゃない。


「……八雲さん」


「はい」


「……私、あなたのこともっと知りたいです。私のことも、知ってほしいです。だから……また、ご飯食べに来てください」


 勇気を出して、一歩、彼女に近づく。彼女は「私もあなたのこと知りたいです」と笑ってスマホを差し出した。差し出されたスマホにはQRコードが表示されていた。それを読み込むと通信アプリが起動して、彼女の名前が表示される。虹に希望の希で虹希こうき。それが彼女の下の名前らしい。虹と希望。まるでレインボーフラッグみたいな名前だ。一瞬、レインボーフラッグが嫌いになったあの事件のことを思い出してしまった。彼女は私を受け入れてくれる。そう期待したところで、また突き放されるかもしれない。怖い。それでも、信じたい。


「今日、学校終わったらまた来て良い?」


「今日ですか?」


「うん。……あんまり、時間空けない方がいいかなって」


 そう言う彼女はどこか不安そうだ。そういえば、彼女の大切な人は自殺だと言っていた。私も同じ道を辿るかもしれないと思っているのだろうか。


「ああ、いや、でも、今日はバイトあるから遅くなっちゃうかも……」


「大丈夫ですよ。ご飯作って待ってます」


 私がそう答えると、彼女は私を見た。「あたし……」と、震える唇で何かを言いかける。だけどその先の言葉は飲み込んで「バイト終わったら、連絡します」と愛想笑いをした。壁を感じた。だけど、その壁を取り払って距離を詰めたいという意思も感じる。私も同じだ。彼女に対して壁を作っている。だけど、その壁を取り払いたい。


「……待ってますから。ちゃんと」


 彼女にもう一歩歩み寄る。それに対して彼女も「はい。待っててください」と震える声で返事をした。

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