第5話:彼女はきっとあたしとは違う

 灰塚さんの話を聞いたのは、引っ越し初日だった。隣に住む灰塚さんは最近事故で恋人を亡くしたばかりだから気を使ってあげてと、近所に住む女性から言われた。多分、彼女にとっては善意のつもりなのだろうなと呆れつつも、その話を聞いて彼女に興味を持ってしまった。あたしも大切な人を亡くした経験があるから。あたしの場合は恋人ではなく、一方的な片想いだし、事故ではなく自殺だけど。

 自ら命を絶った彼女は、あたしの幼馴染だった。歳は二つ上。彼女には恋人が居たけれど、その恋人からDVを受けていた。身体的な暴力はなかったものの、精神的に追い詰められていた。今日こそは別れると何度も決意しては、結局情と恐怖に縛られて別れ話をすることすら出来ない。そんなことを繰り返す彼女が痛々しくて見てられなくて、あたしは我慢出来なくなってこぼしてしまった。『彼よりあたしの方が、貴女を愛しているのに』と。それに対して彼女は少し間を置いて『そうだね』と他人事のように笑いながら続けた。『君が彼氏だったら幸せになれたかな』と。『彼氏にはなれないけど恋人にはなれるよ。あたしは貴女が好き。あたしにしなよ』そう伝えてしまうと、彼女は少し間を置いて、躊躇うように言った。『なんとなくそんな気はしてた。でもごめん』と。そして泣きながら、こう締め括った。『君が男の子だったら良かったのに』と。電話越しに言われたその言葉が、あたしが聞いた彼女の最期の言葉だった。

 もう二年も経つというのに、あたしは今もその言葉に縛られている。異性愛者が同性に恋をする物語はフィクションでよく見かけるが、所詮はフィクションだ。愛に性別なんて関係ないなんて、綺麗事にすぎない。だからあたしはもう二度と異性愛者に恋なんてしない。したくない。そう思っていたのに、彼女に抱きしめられた瞬間、胸がときめいてしまった。彼女はただ、同情で慰めてくれようとしただけだというのに。あたしもそうだ。ただ同情しているだけ。それだけだ。優しくされたくらいで勘違いしていたらまた痛い目を見るだけだ。彼女は異性を好きになる人だ。あたしとは違う。そう自分に言い聞かせるあたしに、彼女は「嫌だったら、断ってくれて構わないんですけど」と前置きして言った。今日は隣で寝てほしいと。その一言で、一瞬、何かを期待するように心臓が高鳴った。だけど理由を聞いたらすぐにおさまった。曰く、今日は久しぶりに彼の話をしたから、一人で寝たら、彼が亡くなったあの日の夢を見る気がする。とのこと。その気持ちは分かる。あたしもきっと、今夜はあの日の夢を見る。そんな気がする。


「……良いですよ。部屋で待っていてください」


「はい。ありがとうございます」


「……うん。お風呂、入ってきますね」


 逃げるように風呂へ向かうが、落ち着いてゆっくり入ってなんて居られなくて、洗うだけ洗って湯船には浸からずにすぐに上がった。リビングに戻ると、彼女はソファに座っていた。画面の真っ暗なテレビに、虚無を見つめる彼女が映る。声をかけるとハッとして、画面越しに私を見てから振り返った。


「……すみません、ボーっとしてました」


「……眠るの、怖いですか?」


 彼女の隣に座り、問う。彼女はあたしの方は見ずに黙って頷いた。


「あたしもです。けど、明日は昼から学校あるから。それまでには鍵取りに行かないと。……眠らなくても明日は必ず来てしまうから。明日も一日頑張るためにも、ちゃんと休まないと」


 それは自分に対する言葉だったけれど、彼女にも響いたようで、彼女はそうですねと同意する。


「……鍵、どこにあるか分かったんですか?」


「はい。帰省した時に実家に置き忘れたみたいです。電車一本で行ける距離ではありますけど、片道一時間くらいはかかってしまうので。できれば十時前にはここを出たいですね」


「……そうですか」


「灰塚さんは? 仕事? 仕事なら灰塚さんの出る時間に合わせますよ。鍵預かるのも怖いですし」


「私は八時半には出ないとまずいです」


「そっか。八時半か……いつもは何時に起きてるんです? 八時前くらい?」


「いえ。六時半です」


「ええっ。二時間も早く起きてなにしてんすか? 弁当作ったりするにしても時間あまらない?」


「心配性なんです。私。黒瀬さんはギリギリまで寝るタイプなんですね」


「そうっすね。朝は寝ていたいです。でも、頑張って起きます。六時半は……ちょっと厳しいかもだけど。七時半までにならなんとか」


「じゃあ、それくらいの時間に起こします。……寝ましょう」


「はい」


 重い腰を持ち上げた灰塚さんに続いて、寝室へ向かう。寝室には一人暮らしの女性が一人で眠るには明らかに大きすぎるベッドが一つ。


「これ、彼と暮らしていた頃から使っているベッドで、買い替えるお金が無くてそのまま使っているんです。……すみません。故人が使っていたベッドで」


「いえ。あたしはその辺気にしないです。ここで亡くなったわけじゃないでしょうし」


 ベッドが一つ。毎晩このベッドで一緒に寝ていたのだろうか。変な想像を掻き消して、ベッドに入り、彼女が入れるように奥に詰める。どうぞと布団を少し持ち上げると、彼女は遠慮がちに入ってきて電気を消した。


「……あの」


「はい」


「……もう少し、寄っても良いですか」


 そう問いかけてきた彼女をそっと抱き寄せる。彼女は一瞬驚いたように固まり、恐る恐るあたしの背中に腕を回した。


「……眠れそう?」


「……はい。おやすみなさい」


「うん。おやすみ」


 目を閉じてしばらくすると、寝息が聞こえてきた。目を開けて彼女の寝顔を盗み見る。無防備な寝顔だ。ほとんど関わりなかったあたしを今日一日でここまで信頼出来たのはきっと、あたしが同性だからだろう。異性だったらそもそも部屋にすら入れてもらえなかっただろう。だけど、レズビアンだと知っていても、同じように信頼してくれていたのだろうかなんてモヤモヤしてしまう。だけど、そんなモヤモヤが、あの人が亡くなった日の夢を見るかもしれないという不安を上書きしていたことに、この時のあたしはまだ気づかなかった。

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