喪失3
「お目覚めですか? おはようございます」
「……はっ?」
重たい瞼を上げると、視界のほとんどは白に覆われていた。それが女の髪だということに気がつくのに、少しの時間を有した。
出会った当初は青みのかかった髪色だったが、夜が明けたのか太陽の光を反射させた女の髪は白く輝いていた。
その白い髪の隙間から、炎のような真っ赤な瞳がこちらを覗き込んでいて、自分が膝枕されているのだと気がつくと、体を起こして女から距離をとった。
「な、なにをして……いや、なんで俺、生きて」
「言ったでしょう。貴方に死は許されていないと」
「……なに?」
女は驚く素振りも見せずに立ち上がると、まっすぐに俺の方を見て、指差した。
「鏡をご覧になられては?」
言っていることの意味はわからなかったが、その言葉通り近くの水溜りに顔を映す。そこには首元から血を流し、襟元を赤く染めた白髪の男がこちらを見ていた。
「……は?」
首を傾げてみる。すると水溜りの中の男も同じように首を傾げた。
「な、なんで、俺は元々髪が黒くて」
「ええ、知っています。闇夜に溶け込むその黒を、度々見かけましたから」
「どういうことだ? 俺になにが起こっている?」
「だから、何度も言ったでしょう。貴方に死は許されていないと。それは神々が決めたこと。つまり貴方は不老不死というやつになったのです。先程は痛みで気を失っていたようですが、ほら、首の傷、治っているでしょう?」
「……」
女に言われて首元に触れる。たしかにそこには切り傷などなかった。
水溜りを見て確認してみるが、傷跡すらない。元から切り傷などなかったと錯覚してしまいそうなくらい綺麗なものだ。
「……ははは」
これは驚いた。どんな聖職者でも、頸動脈の切れた人間をこんな短時間で傷跡すら残さずに治すことなどできやしない。まさしく神の所業というわけだ。
「そうか、そうか。この世に神様なんてものが本当に存在したのか。それは――許せないな」
こんな奇跡を起こせるのであれば、彼女を救うことなんて容易だったはず。
なのに、神々は誰よりも優しかった彼女を切り捨てた。彼らには彼女を助ける力があったはずなのに。
「それはしかたがなかったことと思っていただくしか。我々も暇ではないのです。貴方は人が一日で何人死んでいるとお思いですか? たった数人なんて数ではないことくらい容易に想像できるでしょう。その一人一人に救いを差し伸べることなど、不可能と言っても過言ではないと」
神々に怒りが向こうとして、そして止まる。
女の言う通りだ。この世で毎日何百の人が死んでいると思う。
俺にとってはかけがえのない大切な人であっても、神々にとってはたった一人の人間の死でしかない。
死人の善悪など、彼らには関係のないことなのだろう。
「……あっそう」
比喩ではない、不老不死。死ぬことを許されぬ体。
この世に未練などありはしないのに、退場することは神々によって止められてしまった。
「こんな体でなにをしろと」
大切な人のいない世界。復讐しても晴らせぬ怒りを持って、生き続けることの意味。そんなもの、見出せやしなかった。
「よく白髪の聖職者は神様に加護を与えられているなんて聞くが、あれは嘘だな。俺のは加護なんてものではなく、呪いだろう」
「ええ、どちらかといえばそうなりますね。ですが、もしあなたが真意に気付いたならば、その呪いが解ける日もきっといつか来るでしょう」
「真意?」
「私が話せるのはここまで。それではさようなら、喪失の復讐者」
「あっ、おい!」
俺の呼び止める声が聞こえなかったのか、それとも聞こえたうえで無視されたのか、女はそのままスッと消えてしまった。
木々の隙間に身を隠したのではない。その場からスッと、灰が舞い上がって消えていくように姿を消したのだ。人間業とは思えない。
「……は」
この首の傷が治っている以上、女の言った俺に死ぬことは許されていないという言葉は信憑性がある。そしてそんなことをできるのも、きっと神々のような超常的な力を持つ者だけだろう。
つまり、この世に神様とやらは存在する。そしてそれの遣いだと言ったあの女は只者ではない。
「……まさか、あれも神様ってやつだったのか?」
神を信仰する心を持ち合わせていない俺はそう神様とやらに詳しくはない。しかしこの世に存在する神様というのが何十人といて、その中には女性、つまり女神が何人かいるらしい。
もしかしてだが、あの色素の薄い髪の女は聖職者なんてものではなく、女神そのものだったのではないだろうかという考えが頭をよぎった。
「まさか、な」
わざわざ神様が出張ってくることなんてないだろう。だってそんなことをしている暇があるのなら、きっと彼女は死なずにすんだのだから。
そもそも、もしあの女が本当に女神だったとしても俺には関係のないことだ。
俺は死ぬことができない。その現実だけでじゅうぶんだ。
彼女のいない世界で、ただ一人。人殺しは生き続ける。人生になんの価値も見出せないまま。
「そういえば、真意がどうとか言っていたな……」
真意に気がつけば、呪いは解ける。
呪いとはおそらくこの不老不死のことだろう。だが真意とはなんのことを表すのかさっぱりわからない。
神々が呪いをかけた意味、それは俺が人を殺したから。それ以外になにかあるのか。それとも呪いとは別の真意についての話をしていたのか。
なにもわからない。わかろうとも思わなかった。しかし死なない体でいるのは面倒だ。
俺が死んだとしても、あの世とやらで彼女に会うことはできないことくらい理解していた。彼女と俺ではなにもかもが違った。
生まれも、性格も、精神の汚れ具合も。なにもかもが俺には似合わない綺麗な女性だった。
だからはやく死んで向こうで彼女に会いたいという願いは持っていない。だが、彼女のいない世界で長年生き続ける気合もない。
きっとそれが神々の下した罰なのだろうが。
「あいにくと俺はそれに付き合ってあげられない」
すべてを殺し、燃やし尽くして、自身をも灰へと化す。それが俺の考えていた最期。邪魔をされたくはない。
だがこの体は現に不老不死とやらになってしまっている。これでは最期を迎えられない。
この呪いを解くには真意に気づけと言われたが、いったいなんの真意について言っていたのかまではわからない。
しかたがないので、俺は適当にその辺を歩くことにした。背後にはいまだに消し止められていない炎があった。
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