神の寵愛・神の祝福

 私は自室――与えられた王宮の中の一室に入って、しっかりと鍵を閉めてから大人が五人くらい大の字で寝られそうな程に大きなベッドに勢いよくダイブした。膨らんだ布団に全身が包み込まれ、その柔らかな感触にほう、と口から我知らず溜息が漏れる。

 あの後、挙動不審になった私を見た王様は、勇者に私を聖女の部屋とやらに連れて行くよう指示した。私の様子を見て今日はこれ以上を話をすることは出来ないと考えたのだろう。勇者は私を案内する途中侍女に水さしとグラスを持ってこさせ、部屋には一歩も立ち入らぬ紳士な仕草で水差しとグラスを私に手渡して、

『御用の際はベッド横の紐をお引きください。いつでも侍女が駆けつけます。……聖女様の混乱とお疲れ、お察しいたします。どうか今はお身体をお休めになって。聖女様のお心が整ったら、また改めてお話をさせてください』

 と柔らかな声音で言い、特上の笑顔を残して去って行った。

まったく勇者の完璧な好青年ぶりにはゾッとする。……幾度にも渡る勇者との闘いで本性を知ってしまっているから、余計に。

「……さて、状況を整理しよう」

 呟いた自分の声は聞き慣れぬ少女の声で違和感が拭えないが、転生した以上仕方のないことだ。いずれ慣れる事だろう。

 身体は年頃十五~十八程の人間の少女のものだ。ただし身体能力は同じ年頃の人間を遙かに上回るポテンシャルを秘めているはずだ。転生の際、この世界に顕現する身体は、魂に合わせて相応しい器と成るよう外見も能力も再構築される。それが異世界より呼び寄せられた『聖女』となるべき魂の器であれば、この世に降り立った身体が何の変哲のない少女のそれで終わる筈もない。

 そういえば本来聖女となるべきだった異世界人の魂はどうなったのだろうか。

 私のしたことは本来この身体に入るべきだった異世界人の魂を追い出して、この身体を乗っ取ったようなものだ。……まあ、本来の聖女、つまり私が魔王として戦っていた異世界人は、健気に聖女の仕事に務めながらも裏で家に帰りたいと泣くような少女だった。王と勇者は魔王を倒すことが出来れば元の世界に帰れると聖女を宥めていたようだが、魔王である私の知る限り異世界召喚と魔王の存在には一切関連性が無い。もしかしたら王族のみが知る情報に何かそういった異世界召喚に関するものがあるのかも知れないが、十中八九はその場凌ぎの大嘘だろう。この世界に転生し損なった彼女が、何事もなく元の世界に帰れているといいのだが。

「魔法は――流石に転生前と同じとは行かぬか」

 魔力を全身に巡らせるも、感じる魔力量は魔王として君臨していた頃に比べれば六、七割程度に留まってしまっている。勿論これは人の基準であれば、莫大と評価されるに相応しいだけの魔力量ではあるのだが。また、聖女の魔力は私が元々使用していた魔法とは妙に相性が悪く、使いこなすには練習が必要そうだ。

 この辺の詳しい分析はまた後で、実際に魔法を使いながら確認してみることにして、私は目を閉じて柔らかな布団に身を預ける。

 身体の緊張が解けた瞬間、すうと眠気が全身を包んだ。思っていたより私は疲労を溜め込んでいたらしい。一先ず今はこの眠気に身を任せ、心身を回復させるに努めよう。

――神よ、あなたは何故魔族をお救いくださらないのですか。

 眠りに落ちる直前、幾度となく唱えた恨み言が胸中をよぎった。この人間の身体でなら何かお答えがあるやもしれない、と僅かな期待が脳裏を過ったが、その期待が報われることはなく、私の意識は微睡みへとゆっくり沈んでいった。




 始めに混沌があった。

 宇宙を漂う一柱の神が戯れに自らの指で混沌をくるりと一混ぜした。

 混沌に秩序が生まれ、昼と夜が生まれた。

 引き上げられた神の指からぽたりと落ちた一雫。それが海となった。

 神は海に船を浮かべた。

 溶けて崩れた船はバラバラに散らばり、それが大陸となった。

 それをご覧になった神は、ほうと感嘆の溜息を零した。

 その溜息から命が芽吹き、植物や動物、ありとあらゆる生き物が生を受けた。

 神は大いに喜び、この世界に自らの似姿を住まわせてみようと思い立った。

 そうして創り出されたのが『魔族』である。

 神は魔族を愛し、魔族の中でも特に己に似た姿のものを己の眷属と成した。

 これが現在に連なる魔王の血筋である。

 神は自身がこの世界をいつの間にか深く愛していることに気がついた。

 故に神はこの世界の神となり、この世界を見守ることを決意なさった。

 これが世界の始まりである。




 神がこの世に降り立つまで、この世界は闇と苦しみに満ちていた。

 それを見た神は大いに悲しみ、この世界に光と慈愛をもたらした。

 しかし神のお力をもってしても闇を払いきることは出来ず、昼と夜が生まれた。

 闇は夜へと追いやられ、人々は光の中で安心して生きられるようになった。

 光を憎んだ闇は次第に姿を変え魔族となった。

 魔族は光を、そして光の中に生きるものを憎み続けていた。

 こうして光と闇の闘いが始まり、人々の心から安らぎは失われた。

 神は苦しむ人々を憐れみ、選ばれし人間に祝福を与えた。

 その人間は神より授かりし力で闇を切り伏せ、勇者と呼ばれるようになった。

 しかし祝福を受けた勇者も闇を晴らすことは叶わず、道半ばで倒れてしまう。

 人々は絶望し、嘆き悲しんだ。しかし神が人を見捨てることはなかった。

 神の祝福を受け新たな勇者が生まれたのだ。

 闇を退けるために幾人もの勇者が生まれ、そして命を賭して戦った。

 光と闇の闘いは終わらない。

 闇を駆逐し、この世界が光で満ちるその日まで、勇者は戦い続けるだろう。




 コロンコロン、と控えめなベルの音が鳴った。私の意識が緩やかに覚醒していく。

「……ん……・」

「聖女様、お目覚めでいらっしゃいますか」

 自分でベル鳴らしといてお目覚めでいらっしゃいますかも何もないだろうに、と内心呟きながら身体を起こして、あくびを一つこぼす。もう一度、先程より少し大きめに鳴らされたベルに返事を返し、ベッドから床に足を滑らせた。

着たまま寝てしまったというのに皺の一つも無い服に感心しながら、扉を開けて外に出た。質素な服を身に纏った三人の女が見事に揃った動きで身を引き、頭を深々と下げる。

「おはようございます聖女様。お眠りを妨げてしまい申し訳ありません」

「いえ、起こしてくださりありがとうございました」

 顔を上げて、と言いかけて口を噤む。危ない危ない、今の私は異世界より連れてこられた右も左も分からぬ小娘なのだから、王宮でのマナーを知っている訳がない。

 頭を下げたまま動かぬ三人の女を前に困った素振りでキョロキョロと辺りを見渡すと、丁度廊下の角に紅の髪が揺れるのが見えた。

「聖女様! お目覚めでいらっしゃるのですね。本当は聖女様の身支度が終わるまで待っていろと言われていたのですが、どうしても聖女様に一目お会いしたくて……」

 僅かに頬を上気させて興奮気味に話す勇者に、私は表情が引きつるのをありったけの精神力で押し止めた。理想としては、絵に描いたような美形に迫られて戸惑いつつも胸の高鳴りを抑えられない年頃の少女、といった風情を演じたかったが、生理的な反応の方が優勢だった。自分を殺した男、勇者の前で、こうして平静を保っていられただけでも上等だと褒めて欲しい。

 勇者はダメ押しのようににっこりと完璧な笑顔を浮かべ、次いでわたしの前で深々と頭を下げ続けている三人の女を見下ろし、ああ、と表情を変えた。

「頭を上げていいですよ。ね、聖女様?」

「は、はい」

 私の言葉に、三人の女は頭を下げたまま僅かに首を揺らした。恐らく視線を交わし、本当に頭を上げていいのか目配せで相談し合っているのだろう。

「あ、あの」

 このままこうされていては話が進まないので私は無知を装い助け船を出すことにする。

「私が聖女だから、頭をずっと下げているのですか?」

「……さようでございます。わたくし共身分の低い者は高貴な方の前ではお許し無く頭を上げることは許されませぬ」

 三人の中で一番年かさと思われる女が答えた。

「私、こっちのルールとかよく分からなくて、多分今みたいに迷惑かけてしまう事が沢山あると思います。なので、私の前だけでもそういった難しいルールは無しか、こっそり教えてもらって形だけ、みたいにしては駄目ですか?」

「そ、それは……」

「ああ、それはいい考えだ。流石は聖女様! 僕もこれからそうしてもらうことにしよう」

 勇者が嬉しそうに口を挟む。

「僕も実のところ堅苦しい王宮の決まり事には辟易していた所なんだ。いい解決方法が見つかって良かった良かった」

「しかし、それでは」

「どうかお願いします。これは、私からのお願いです」

 聖女のお願い、とは実質的な命令だ。これ以上ゴタゴタするのは面倒なので、知らぬ振りで強硬手段を執らせてもらうことにする。女達は恐る恐る顔を上げ、本当に大丈夫なのか、と相談するように視線を交わす。

「……それでは、湯浴みの準備が整っておりますので湯殿へお越しくださいませ。湯浴みがお済みになりましたら、食堂にて王様とお食事を是非に、と」

「分かりました」

「それでは湯殿へ」

「ああ、僕が案内します。あなた達は先に行って準備を整えておいてください」

「かしこまりました」

 待て、なんで勇者と二人きりに。

 去って行く三人の背中を見送りながら内心で溜息をついた。出来れば必要以上に勇者と関わりたくはないのだが、勇者の方はどうにも聖女が気になってしょうがないようだ。侍女を見送り、私に向き直って完璧な笑みで話しかける。

「流石、完璧な采配でいらっしゃいますね。やはりお心が澄み切って美しいからあの様に完璧なお心遣いが出来るのでしょうか」

 それとも、と勇者は続ける。

「聖女様の元々お住まいになっていた世界にもこちらと似たようなしきたりがあったのですか? ……あっ、とぉ……」

 口を噤み、申し訳なさそうな顔を私に向け、

「元の世界の話など、こちらにいきなり連れてこられたばかりの聖女様にするべき話ではありませんでしたよね。不躾な話をしてしまい申し訳ありません……」

「……いえ」

 咄嗟に口元を抑え顔を背けたのは、勿論転生前に思いを馳せたからなどではない。表情を読み取らせないためだ。勇者は申し訳なさそうな表情を前面に浮かべながらも、瞳の奥は探るように鋭い光を放っている。流石にまだ私の正体への疑いではなく、聖女が役に立つ存在か、どんな人間かを見極めているだけではあるだろうが、下手な疑念は抱かせないに限る。なんせこの勇者はつくづく食えない男だということを、私は嫌というほど知ってしまっている。

「あの、勇者様。湯殿というのはどちらに」

「おっと、すみません。ご案内します。それと、勇者様はやめてください」

 恥ずかしそうに笑い、

「ラース、と。そうお呼びください」

「……では、ラース様」

「ああ、やめてください! 勇者様も随分ぞわぞわするのに、渾名に様なんて、しかもそれを聖女様に呼ばれたら!」

 大袈裟に身震いしてそういう勇者の表情は、先程までの完璧な好青年ぶりが崩れて少し子供っぽい、やんちゃな姿を覗かせている。

「ラース、でどうか。ここだけの話、勇者なんて呼ばれてますけど僕、生まれは本当に普通の庶民だったんです。それがある日神の祝福を受けて勇者となり、いきなり下にも置かぬ扱いを受けてそれがどうにも慣れなくて……」

「では、ラースさんで」

「ちょっと惜しい。呼び捨てにしてください」

「ラーシャヴィル・アトワイト」

「……ラースさんの方でお願いします」

「それではラースさん、湯殿への案内をお願いします」

 はあい、と笑い含みに返して歩き出した勇者の背中について歩いて行く。

それにしても、と勇者が何気ない風に振り返り、

「よく僕のフルネーム覚えてましたね。長くて覚えにくいってみんな言うのに」

 心臓が跳ねた。

そういえば勇者の名前を聞いたのはこちらに来てからは一度だけだった。それを覚えていたのは不自然だったか。迂闊な行動をしてしまったか。……いや。

「……ここに来て、初めて聞いた人の名前だったので」

 表情も歩調も変えず、何事もないことかのようにさらりと言う。確かに勇者のフルネームはややこしくて覚えにくいが、異世界で始めて聞いた人名なのだから覚えていたとしても違和感は少ない筈だ。

 無表情に勇者を見上げれば、勇者は照れたように笑い、

「確かに。やあ、嬉しいなあ。名乗った甲斐があった。それにしたって、聖女様は記憶力も良くていらっしゃるのですね」

「ありがとうございます」

「そういえば聖女様のお名前を伺っていなかったのですけれど……、それはお食事の際に王様が改めてお聞きなさるそうなので僕が王様に先駆けて知ってしまうのは良くないでしょうね。……聖女様が僕にだけ特別、と言ってくださるのであれば話は別ですが」

「それでは、お食事の席で。私をもてなしてくれる王様への礼を欠くのは失礼でしょうから」

 淡々とした私の返しに、勇者は僅かに目を見開いて表情を消した。しかしそれは一瞬のことで、すぐに整った口元をほころばせて目元を和らげ、

「やはり聖女様は僕なんかと違って思慮深くていらっしゃる。とても敵わない」

「……」

 口を閉ざせば長い廊下に二人分の足音がやけに大きく響く。流石の勇者もこれ以上私にちょっかいを出す気にはならなかったようで、内心これ以上この男と気を張りながらの会話を続けるのはきつい、と思っていたので、気がつかれないようほっと胸を撫で下ろした。

「こちらが湯殿になります。それでは僕はこれで」

「案内していただき、ありがとうございました」

「いえいえ! 僕が望んでしたことです。お礼なんて恐れ多い」

 勇者は完璧な造形の顔をくしゃっと崩して嬉しそうに笑うと、それでは食堂で、と言い爽やかに去って行った。

 その背中を見送り、よく響く足音が完全に聞こえなくなったのを確認して、はあ、と私は大きな溜息をついた。


 湯殿で顔から髪から身体からを三人がかりで徹底的に磨き抜かれ、一息ついてようやく終わったと思う間もなく、湯殿から上がるとこれまた三人がかりで服を着せ付けられた。これで終わりか、と胸を撫で下ろしかけたところで、

「こちら、聖女様へこの王国からの贈り物でございます」

 と数々の装身具が載せられた台が恭しく捧げられた。まさかこれ、全部私に着ける気か?

「あの、あまり王様をお待たせするのは……」

「王様は聖女様の身支度にお時間がかかる事にご理解を示していらっしゃいます。どうか遠慮なさらず。これはこの国を救ってくれる聖女様への、私達からの精一杯の気持ちでございます」

 これ以上時間をかけてゴテゴテ飾られるのは勘弁願いたい、という私の精一杯の抵抗は、侍女の期待と善意に溢れた笑顔に封殺される。諦めて飾り立てられるままに身を任せ、ようやく全て着け終わった頃には、歩く度にジャラジャラチリチリシャンシャンと、音の鳴る玩具にでもなったような気分だった。

「お待たせ致しました」

 言うと、王様はゆっくりと首を横に振り、少し離れたところに座った勇者が目を見開き、口を僅かに動かした。多分、美しい、と言っているのだろう。

「待ってなどおらぬ。それにしても、そうして美しきもので身を飾った聖女様はまた一段とお美しい。まるでこの世の者ではないようだ」

「そんな……」

 とりあえず顔を俯かせて恥じらって見せ、王様の向かいの椅子を侍女が引いたのでそこに腰かける。

「まずは食事を運ばせよう。一流の者が集う我が王宮の中でも特に素晴らしい料理人達に、各地より集めた一流の食材を使わせている。聖女様のお口に合えばいいのだが」

 その言葉を皮切りに、卓上には見た目までもが美しく整えられた料理が次々と運ばれてくる。

「どうか、遠慮無く召し上がってくれ。もし故郷の味が懐かしいのであれば、料理人を呼んで可能な限り再現させよう。聖女様はこの国の希望。勇者と並び尊いお方なのだから」

「ありがとうございます」

「……王様」

 食事を前に表情が硬い私を見て、勇者が手にしていたカトラリーを置いた。

「先に聖女様に、聖女様をお呼びした事情をお話になっては如何でしょうか。何も分からぬままでは、どんな素晴らしい食事でも砂を噛むようになりましょう」

 真面目な顔で言う勇者に王様は鷹揚に頷き、

「それも道理やもしれぬ。聖女様、如何致そうか」

「それでは先にお話をお願い致したく存じます」

「うむ」

 そうして王様が語り始めたのは、私にとっては既知の昔話。古来より消えぬ人と魔族の確執、領土争い、そして祝福を受けた勇者の存在と、この世を救う異界より現る聖女の伝説。しかし今私が聞きたいのはそんな話ではない。

「王様、その神について、どうか教えてはいただけませんか」

「神、とな」

 王様はふーむと唸り、頭頂部とはうって変わって豊かな髭を片手で撫でる。

「神はこの世に光を齎し、闇を払う祝福を我等人間に授けてくださった。神は我々人間にとっての希望であり、守り導いてくれる何より貴い存在なのだ」

「……その、祝福とは」

 勇者に視線を向けると、勇者は困ったように首を傾げる。

「神の祝福は闇を払い倒す力。不滅の魔王を唯一殺すことの出来る力と呼ばれている」

 少し違う。魔王は確かに人と比べ長命だが、死を免れてなどいない。魔王たるものは必ず同じ容姿、同じ声、同じ能力で生まれてくるだけだ。

 しかし大概の攻撃では傷つくことなど無かった私の肌が、勇者の剣にはいとも容易く切り裂かれ、血を流したのは事実である。これは勇者とパーティを組んだ人間にも同じ事が言えた。

 魔族は大概が人よりも強く、頑丈だ。故に生半可な武器では魔族を傷つけることなど出来ず、このことも人が魔族を恐れる一因となっている。しかし勇者を頭に魔族へと挑んできたパーティの武器や魔法はいとも容易く魔族達を傷つけ、そして殺した。これが勇者の加護なのか、それより異世界より来た聖女の力だったのかは未だに分からないが、神の似姿たる魔族をいとも容易く屠るその力は――考えたくはないが――神の持つお力に依るものなのではないかと、人の語る神の祝福が偽りではなく本当に神に授けられた力なのではないかと、いつしかそう疑う声が魔族の間でまことしやかに広がるようになっていた。

「では祝福とはどのように授けられるのでしょうか」

「神殿に名前が授けられるのですよ。それと同時期に、勇者たるものの夢に神のお声が」

 王様の代わりに勇者が答えた。

「そして勇者は神殿に赴き、初代勇者が祝福と共に授けられた剣を手にするのです。その剣は勇者にしか扱えず、凡人が持てば紙の一枚も切れぬなまくらであるが、勇者が持てば鉄をも一閃のもとに割る程の力を持つ。それが、これです」

 腰に手を回しカチャリと金属音をさせた勇者を手で押し止める。殺されてからの時間は体感として一日も立っていない。死の記憶が生々しく残っている今、さすがに自分の胸を貫いた剣を間近で見たいとは思わない。

「それでは、神殿に神がいらっしゃったことはあるのでしょうか」

「いや。未だかつてそういった記録は残っておらぬ。ただ、魔族との争いが激化し世が乱れると、祝福を受けた勇者の神託が降りてくる」

「それだけ、なのですか」

「神はこの世界を守る存在でありながらも、我等人間を特別気にかけ、慈しんでくださっているのだ。これだけなどと、神のお心を無下にするような事は言ってはならぬ」

 語調が強まり、王様は睨むようにして私に視線を向ける。私は恥じらうように目を逸らし、俯いた。

 神のことを知りたいあまり、気持ちが逸ってしまった。

 顔を上げると王様の表情は硬く、手元は神経質にグラスを揺らし続けている。恐らく、このまま私が神について聞けば更に王様の機嫌を損ねることになりかねない。人間側から語られる神の情報は得られるだけ全て欲しい。その為にはここで王様の機嫌をこれ以上損ねてしまうのは悪手となるだろう。自分の軽率な発言に臍を噛みつつ、私はもう一度深く頭を下げて謝意を表した。

「申し訳ありません。軽率な発言を致しました」

「うむ」

 王様の表情が幾分か柔らかくなったのを確認し、深呼吸を一つして、

「……私は、それではこの世を救うという伝説のある聖女、ということなのですね」

「ああ。その通りだ。いきなり知らぬ国に呼び寄せられ、こんな頼み事をされるのは恐ろしいやもしれぬが、どうか、我が国を救ってはくれぬだろうか」

 この通り、と王様は王冠が転げ落ちそうなほど深く頭を下げて見せる。

「分かりました。もし私などの力がこの世界を救う一助になると言うのなら、精一杯聖女としてのお役目を務めさせていただきたいと思います」

「……ほ、本当か!」

 涙で潤んだ目を向ける王様に、強い眼差しを向けゆっくり頷く。王様は涙声で何度も私への感謝を述べ、机に額を擦りつける。それを慌てて止めながら、私は胸中で別のことを考えていた。

 これで私は魔王を、過去の自分を殺すための旅に出ることになるが、しかし私自身の生き死になどは取るに足らない些末なこと。私にはそんなものとは別の、もっと重要な目的がある。

 それは神に会うこと。この世をお創りになられた創造主で、魔族を愛し私達魔王を己の眷属にまでしてくださった、敬愛してやまぬ我等の神。

 私は拳を握りしめる。

「ああ、なんて嬉しいお言葉なのでしょう! ご安心ください。このラーシャヴィル、聖女様の覚悟に応え、例え命に替えても貴女を守り、そして世界に平和を齎して見せます」

 感極まった様子で席を立った勇者は、私の足元に跪いて胸に手を当てる。目の前に広がるまるで絵画のような光景に私は息を止めて唾を飲み、そして自らもその美しき絵画の一部にでもなるような気持ちで、にこりと完璧な聖女の微笑みを作ってみせた。

「なんて力強いお言葉、流石は神に祝福されし勇者様。どうか、どうか共にこの世を光で満たしましょうね」

人間の中で最も神との繋がりが強いのは、神より祝福を受け力を授かった勇者に他ならない。その勇者の近くに居れば、何かしら神へと繋がる手がかりを得られる可能性がある。

 神へと至る手がかりがたとえ髪の毛一筋ほどでもあるのならば、それがどんなに幽く頼りないものであろうと、それがどんなに恐ろしい化け物の掌中に続いていようと、私はけしてそれを手放しなどしない。

 目を閉じれば脳裏を過るのは、私を守り神を信じ命を散らせていった同胞達の姿。私は、神の眷属を名乗り魔族を束ねる魔王の名を戴きながら、同胞達を守ることも神へ祈りを届けることも叶わず、挙げ句勇者に敗れ命を落とすという惨めな最期を迎えた。

 だが私はこうして蘇った。やり直しのチャンスを与えられた。今度は決して同胞達の命を無為に散らせることなどさせはしない。聖女の立場で勇者を抑え、何をしてでも必ず神への手がかりを掴んでみせる。

 そしてもし、もし神が本当に魔族を見捨て、人間に愛を傾けているというのなら、私は神を殺すことだってやってみせる。そのために、異世界より呼ばれた身体を手に入れたのだから。

 魔族を束ねる魔王には、代々密かに言い伝えられている一つの『教え』がある。

 それは神の殺し方だ。

 我々魔族も人間も、この世に遍く全てのものは神の命を奪うことは出来ない。何故ならそれらは全て神により創り出された、神の理のもとにあるものだからだ。故に、神を弑いし奉る時には、この世の理を超越する外より来たりし者の力が必要なのである。

 あまりにも恐れ多く冒涜的なこの『教え』は、魔族の中でも魔王一人にのみ受け継がれる禁忌の教えだ。

 きっと、先代達はこういった事が起こるだろうことを見越して秘密裏にこの教えを受け継いできたのであろう。情けないことに、私は一度目の命ではこの教えを知りながらもそれを活かすことが出来ず、魔族をみすみす破滅へと導いた。しかしもう同じ轍を決して踏みはしない。

 我等魔族を守るためならば、新しく手に入れたこの身体で、神の眷属たる魔王自ら神の命を断ち切ってやる。

「そうだ、聖女様。これから長らく旅路を共にするのです。お名前をお教え頂けませんか?」

「名前……」

 名前、そうか、どうしようか。私は逡巡する。一番穏当なのは本来転生するはずだった聖女の名前だが、今となってはそんなものなど知る由もない。私は僅か瞬き、そして魔族の間に広く知られるとある名前を思い出した。

 曰く、それは神の創りたもうた美しきこの世を憎み、あまつさえこの世界を壊そうと神に歯向かった罪人の名前なのだとか。神代の時代に連なるような古い伝説を数多く語り継いでいる魔族の中でも、それは珍しく詳細の伝わらぬ短い言い伝えであった。

 世界の端を見てみたいと旅立ち、神の御座すこの世の果てにとうとう辿り着いた彼女は、果てのあるこの世界を憎み壊そうと神に挑んだ。神は自身の創りたもうた世界の憎まれるを酷く悲しみ、彼女を慈悲でもって包み込んで、永久の眠りにつかせたという。その彼女の名は――。

「シナーと、そうお呼びください」

 私は瞳の奥の奥を覗き込むような勇者の目を真っ直ぐに見返す。私の名はシナー。神に歯向かう罪深き者。そこに、なんの偽りがあろうか。

「シナー、シナー様。良い響きの名前ですね」

 フッと勇者は目元を緩め、そう言って柔らかく笑う。

「シナー様。我等二人、共に力を合わせ必ずやこの世界から悪を滅ぼし平和を手に入れましょう」

 差し出された勇者の手を、私は掴み、握り返す。

「ええ。共に戦い、……悪を滅ぼしましょう」

 私を捕まえ殺した手を、自らの意思で掴み笑顔で告げる。

 必ず、滅びの運命を覆してみせる。

 たとえ神をこの手で殺すことになったとしても。

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