第20話「未熟サキュバス、バイトします」

































 キスマークをつけたのは、肌を隠させて露出を少なめにするためだったらしい。


 深澪にお洋服を選んでもらって、お化粧もちょっとだけしてもらって、髪型も整えてもらって、何から何まで丁重に扱われたあとでようやく家を出た。


 すぐ迎えに来れるようにって近くで時間を潰して待機してくれる深澪に改めて感謝の気持ちを伝えて、わたしは人生初のバイト……体入というものを経験するためお店に入った。


 はじめは軽い説明と挨拶を交わして、開店前の準備や掃除を少しお手伝いして、開店してからは人が来るまで一旦待つ。


 とりあえずわたしはフリー?の客に当てられるんだとか。顔に傷がある気さくなお兄さんが教えてくれた。


 …今日は、ほとんど喋らない。ニコニコだけする。


 そう心に決めて、狭い事務所みたいなところで待ってる間はスマホを使って随時報告の連絡を深澪に送った。…すぐ返信くる。


『もう終わる?』

『まだ始まったばっかりだよ』

『ここからの3時間…地獄より地獄なんだけど。なんか時の流れを早くする呪文とかない?』

『あるよ』

『あるんかい』



「…くららちゃん」

「あっ…はい!」


 メッセージのやり取りをニヤニヤしながら続けていたら名前を呼ばれて、ポケットにスマホをしまう。


「…あそこのお客さんの前に行って」

「はい!」


 指差しで指定されたところ⸺ひとりの男性客の前まで行って、教わった通りまずはテーブル越しに挨拶を交わす。砕けた敬語でいいって言ってたから…


「よろしくお願いします」

「あぁ…よろしく」


 にっこり笑いかけたら、冷たい感じで返された。


 あれ、機嫌悪いのかな?じゃあどうして来たんだろ…なんて疑問に思いながら、教わった流れでお酒を注文してもらって、それを紙に書いてお兄さんに手渡す。


 すぐに作られてわたしの元へとやってきたお酒のグラスを差し出して、そのついでに自己紹介がてら一緒に手も差し出しておいた。仲良くなるにはまず握手って…何かで読んだから。


「くららっていいます」

「え…あ、うん」


 少し驚いた顔で、それでも男性はわたしの手を取ってくれて、触れた感触に今度はわたしが驚いて目を見開く。


「わ……男の人の手ってこんなにゴツゴツしてるんだ…すごい」


 初めて触る人間の男の手を興味深く見下ろして、ついつい感触を確かめるように握る。…全体的にザラザラしてて、肉厚。だけどすごい骨ばってる…不思議。


 こうやって他の人を知ると、深澪の手ってやっぱり綺麗で素敵だな…なんてことを思った。こんなにも全然違うんだ。柔らかい深澪の手のほうが好き。


 触り慣れない感触が面白くて手の甲を指先でなぞるように触ったら、どうしてか男性客は肩をビクつかせて慌てて手を引っ込めてしまった。…嫌だったかな?


 不安に思ったけど、謎に欲情の香りが漂ってきたから嫌ではないのかなと納得した。


「あ……な、なんか、飲みたいの?頼んでいいよ」

「あ。そういうわけじゃ……でも、ありがとうございます!」

「君、男慣れしてないの?それともしてるの?」

「?」


 それはどういう質問なんだろ……とりあえず、笑っとこ。


 へらりとした愛想笑いを浮かべてみると、男性客の顔は途端に赤く染まった。もうお酒の酔いが回っちゃったのかな。人間は酔うと顔が赤くなる人もいるらしいって漫画で見た。


「く…くららちゃん、だっけ?」

「はい!」

「なんでこんな仕事してるの?君みたいな可愛い子が」


 これは、なんて返したらいいのかな。


 いやでも、嘘は良くないよね。


「社会勉強です!」

「ははっ…こんなとこで?」

「はい!」

「面白いね、何歳なの?」

「18歳です!」

「えっ、若……じゃあお酒は一緒に飲めないね。ジュースいいよ、好きなの頼んで」

「はい!ありがとうございます」

「君なんか、かわいいなぁ」


 自分の分の飲み物を書き出そうとしたら、ペンを持っていた手を持たれてスルリと指が絡む。…握手の上位互換?


 分からないけど握り返して笑っておく。できるだけ喋らないで笑顔って、深澪に言われたもんね。


 でもこれだと飲み物頼めないな……あ、もう片方の手で書けばいっか。


「両利きなの?」

「?…はい」

「すごいな…」


 わたしが両方の手で文字を書けることにびっくりした様子で手を離された。…人間は違うのかな。


 サキュバス界だと左右どちらでも問題なく手○キできないとダメで、幼いうちから両方の手を扱えるように仕込まれるんだよね。


 …わたしは実践でほぼ手を使わなかったからせっかくの教育を水の泡へと変えちゃったんだけど。


 そんなこんなで飲み物を頼めて、乾杯を交わした後で相手の話にニコニコ相槌を打ってジュースを飲む時間が数分続いて、早くも次のお客さんのところへ移動するよう声をかけられた。


 その後も何人かとお話できたけど…深澪に言われたことはやっぱり正しかったみたいで、


「彼氏いるの?」

「はは……」

「じ、実はけっこう遊んでるとか?」

「ひひ……」

「こんなとこで働いてさ、親が悲しむよ?」

「ふふ……」

「えっちな子なのかな?男が好きで働いてるの?」

「へへ……」

「慣れてないのかな?かわいいねぇ」


 意図が汲めなくて返事に困る質問は、眉を垂らしながらも愛想笑いを浮かべていれば勝手に向こうが話題を進めてくれた。


 中にはそれが不満に思う男性客もいて「つまらない」って怒られちゃったりもしたものの、そういう時はすぐに移動させてもらえたから問題はなかった。


「俺、そんなすぐドリンク飲ませてやるタイプじゃないから。楽しませろよ」

「?…ドリンクなしで大丈夫です!いっぱいお話がんばります」

「そんなこと言って……ほんとは欲しいんだろ?」

「ほんとにいらないです」

「素直になれよ~、ドリンク飲ませてくださいって言ってみろ」

「ドリンク飲ませてください」

「え?あ……ほ、ほんとに言うんだ…プライドとかないの?これだから女は…」

「うんうん、なんですか?女は…の続き、気になります!」

「あ、う、うん。もういいよ…頼めよ」


 こういう人もいたけど、正直もうジュース飲みすぎてお腹タプタプだったから逆に助かった。…それなのに結局、ここでもジュースを貰ってしまった。


 中にはそのまま指名?しようとしてくれたり、さっきお話したお客さんのところへまたお呼ばれされたりして、あっという間に3時間は過ぎた。もう飲み物だけでお腹いっぱい。


「初めてにしてはかなり上出来だなぁ~、くららちゃん向いてるんじゃない?客の反応も良かったよ。どう?今後も続けられそう?明日も来れる?」

「……一回、帰って相談します!」

「あー…うん、そっか。もったいねえなぁ…才能あるのに」


 顔に傷があるお兄さんは見た目怖いけど良い人で、最後の最後に「君みたいな子はこんな世界、来ない方がいいよ。彼氏と幸せにな」と優しく声をかけてくれた。…人間界の中にもまたさらに世界があるんだ。知らなかった。


 茶封筒を貰ってお礼を伝えてお店を出て、深澪に連絡しようとスマホを取り出したら、


「…死ぬかと思った」


 文字を打つ前に、横から絶望的な声と共に抱きつかれた。


「まじでもう…時間早める呪文教わっとけばよかった。体感五億年くらいだったんだからな」

「ご、ごめんなさい…」

「…怖い思いはしてない?嫌なことなかった?」


 体が離れて、腰を曲げてわたしの顔を覗きこんだ深澪に頭を撫でられながら聞かれたから、何も言わずに頷いた。


「…よかった。帰ろう?天海」

「うん!」


 手を繋いで、帰路につく。


「初仕事はどうだった?」

「んー…眠かった」

「っふは、そっか。こんな夜遅くまでいつも起きてないもんね」

「ジュース飲みすぎてお腹いっぱいだったから余計に眠くて…それが一番大変だった」

「そんなにドリンク貰えたの?すごいね」

「うん!ほとんどみんなくれた」

「よかったね。…嫌な人とかいなかった?」

「いなかったよ!けど…どの人もほのかに欲情してたかな。というか、お店自体に精力の香りが染み付いてたよ」

「…………触ったりとかされてない?」

「握手の上位互換はしてきた!」

「なにそれ」

「恋人繋ぎみたいなやつ!」

「へぇ…?」


 穏やかな雰囲気で話してたのに、一変して深澪の笑顔が濃くなったと思ったら瞳の奥に冷たさが宿った。


 あ、あれ……なんか、怒ってる…?


 ただならぬ気配を感じて、防衛本能が背中に冷たい汗を流させる。こんなにも笑顔で、こんなにも怖い深澪は初めて見た。


「そういえば、天海」

「う、うん…はい」

「ラブホテル行きたいって…前に言ってたね」


 な…なんで急に、その話?


 肩に手を回されて、その手にグッと力がこもった。


「ちょうどここら辺にはたくさんあるんだ。…今から行く?」

「へ…っ?え、あ…いや、今はちょっと…」

「行こっか」


 早く家に帰りたかったわたしの言葉は遮って、帰路についたはずの足がまた駅の方へと向かう。


 こ、こわい…


 逆らうのも怖すぎて、ただただ体を萎縮させて連れられるがまま歩いた。その間、深澪はずっと無言で静かな笑みを浮かべていた。


 歩みはどんどん進んで、他のビルより装飾のされたきらびやかな光が彩る建物の前へとやってくる。


 おぉ……ここが、ラブホテル。


 なんて、呑気に見上げた時。


「うわ、やば!ポンコツ先輩じゃん」


 聞き馴染みのある呼び方と、聞き覚えがあるような声が耳に届いた。


「もしかして、ラブホ行こうとしてんの?先輩みたいなサキュバスでも相手してもらえるんですね」


 どこまでも小馬鹿にしたような言葉が続いて、ズクンと心臓が嫌な跳ね方をしたと思ったら、全身の血の気が引いていくような感覚に襲われる。


 あ……やだ…


 呼吸するのが難しくなって、足が竦む。


「え。てか…相手、イケメンだけどよく見たら女じゃん。男かと思った」

「……なんだ、お前。失礼なやつだな」


 深澪の方を向いてまた小馬鹿にした態度で笑ったその子を、深澪は怪訝な表情を浮かべて睨んだ。


「男に相手にされなかったから、男みたいな女に手ぇ出しはじめたってこと?はっ…そこまで来たらもう終わりだって」


 羞恥心が湧き上がって、自尊心は沈みきって簡単に壊されて、じわじわと滲んできた涙が視界をぼやけさせていく。


 まさかこんなところで、他のサキュバス……それも年下の子に出会うなんて。


 劣等感が心を覆う。


『…サキュバスなのにち○こも触れないの?雑魚すぎ。あなたもう死んだら?』

『五年も何してたんですか、先輩。みんなどんどん先に行っちゃいますよ、少しは焦れば?これだから劣等生は……生きてる意味あります?それ』

『一生、ここで過ごしてなよ。どうせあんたは処女のまま死ぬんだからさ!生きる価値ないよ、きゃはは!どんまい』

『今回の試験で落ちたらさ、もう人間になっちゃいなさいよ!向いてなさすぎ!ウケる』

『うわぁ~相手のインキュバスが可哀想~、こんなポンコツ相手じゃ射精なんて…無理でしょ!おっぱいも小さ〜い、ざーこ。死ねよ』

『お情け合格おめでとうございます~!ははっ、そんなんで人間界に行けて嬉しいですか?てか…』


 サキュバス界にいた時に散々、仲間のサキュバス達から投げつけられてきた見下す発言の数々達が、最近はやっと忘れてきたと思っていた過去の記憶達が急激に呼び覚まされて、脳は一瞬で絶望に埋まった。


 そして一番、濃く脳裏に焼き付いてる……


『「サキュバスとして、恥ずかしくないの?」』


 これまでで最大級に言われて悲しかった脳内の言葉と、現実で耳から入ってきた言葉が重なった瞬間に、全身の力が抜けていった。


 もう生きてるのも恥ずかしくて、自分の顔を覆い隠す。


 ボロボロと流れた雫が指の間に垂れて、皮膚を伝って地面を汚した。


「あ……あ、あ………わた、し…」

「天海?」

「っ…ごめん、なさい」


 その場から逃げ出したくて、走り出す。


 生きてて、ごめんなさい。


 サキュバスに生まれてきて、ごめんなさい。


 こんなわたしが、人間界に降りてきて…ごめんなさい。


 走ってる間、ずっとそんな風に謝り続けては、生きてることからも逃げたくなって、どこに行けばいいかも分からないまま人混みの間を抜けていった。


 わたしの居場所は、どこにもない。


 サキュバスとしても、生きていけない。


 人間にもなれない。


 わたしが、ポンコツだから。未熟だから、処女だから、頭でっかちのバカだから、おっぱいが小さいから、何も取り柄がないから。


 サキュバスとしての何かが、欠けてるから。


 だからどこに行っても、生きてるだけで迷惑をかける。


 それならいっそ………


「…君、どうしたの」


 意気地のないわたしは死ぬことさえもできなくて、走りきったあとで公園のベンチでひとりぽつんと座ってうなだれていたら、ひとりの人間の男に声をかけられた。


「帰るとこ、ないの?」


 そう聞かれて、体は勝手に首を動かして、頷く。


「俺の家、来る?」


 強い、欲情の香りがした。


 それが何を意味するかは、ポンコツなわたしでも…仮にもサキュバスだから、嫌でも分かった。


 ⸺男にも相手にされない。


 言われてきた言葉達が虚しくもわたしの体を支配して、同時にようやくサキュバスとしての使命を果たせるんだと安堵するような気持ちも湧いて、血迷った思考で居場所を見つけられたような気もして、


「…うん」


 愚かにも、深澪のことを忘れるくらい過去に翻弄されていたわたしは、その手を取ろうと自分の手を伸ばした。



























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