第10話「未熟サキュバス、キスしま…す?」
包丁を使う時は、あまり力を入れない。
引くように切って、押すように切る。
指まで一緒に切らないように、添える左手は必ず猫の手にして、親指はしっかり手の中にしまいこんで隠す。
サックリと等間隔で薄く切れたネギは滑らせるように包丁の刃に乗せて、左手で落とさないように気を付けながら支え持って沸騰したお湯が待つ鍋の中へと移し入れる。…あちっ、お湯跳ねちゃった。
火を通すのは一瞬で、数秒程度ですぐ火を止めて、顆粒だしと味噌を溶きながら混ぜ入れた。
「ん~…お味噌のいい香り」
今日はお豆腐とネギのお味噌汁にした。…ん、味も濃すぎない。バッチリ。
ご飯も炊けてるし、後は肝心のメインである鯖の塩焼きなんだけど……
「なんでぇ…どうして焦げちゃうの」
やっぱり、魚を焼くのだけは何回やっても失敗する。身までしっかり火を通そうとついつい放置しちゃって…その結果いつも皮が真っ黒焦げになる。
でも、大丈夫。最近は焦げた皮だけ引き剥がして身だけを残すというごまかしを覚えた。
「ふふん…完璧………ではないけど」
その過程でほぐし身みたいにボロボロになるから見栄えは最悪だけど…味は間違いないもんね。元々味付けしてあるやつだもん。
ご飯をお茶碗に盛る前に、冷蔵庫からすでに漬けられた市販のお野菜たちを取り出して、斜めに切っていく。
緑に白に橙に…色とりどりのそれを小鉢にバランス良く盛り付けて、ようやく主食である炊きたての白米をお椀にふんわりとよそった。
「深澪…!ご飯できたよ!」
「……あぁ、ありがと」
テーブルに全部並べ終えたあとで、イヤホンをして集中してた後ろ姿に向かって声をかけたら、少し遅れて反応してくれた。
「…お、今日も魚か。いいね」
「ほ、ほぐし身にしました」
「嘘つけ。また焦がしたんだろ」
「……ごめんなさい」
「別にいいよ、どうせ皮は苦手だから食べないし…こっちの方が骨も抜かれてて食べやすいから。いつもありがとね」
フォローの言葉を貰えて嬉しくてニコニコしながら、ふたりで食卓を囲む。
「いただきます」
しっかりと手を合わせてわたしがその言葉を呟いた時にはもう、深澪はお茶碗片手におかずを食べ始めていた。
「もう~…ちゃんと言わなきゃだめなんだよ?」
「はいはい、いただきます。いただいてます」
「適当……怒られるよ?」
「誰に」
「わたしに」
「なら別にいいや。怒られても怖くないし」
一緒に住んでて知ったけど、この人は普段は優しいのに…けっこう、こういう粗雑なところがある。良い意味でも悪い意味でも適当。
たまに、本当に優しいのか分かんない。本人曰く「あたしは表面上だけ優しいただの偽善者」らしいけど…それもなんとなくわたしもそう思ってしまうのが辛いところ。
仮にも好きな人を偽善者だなんて思いたくないから、なるべくそんな風には思わないようにしてるものの、
「はぁ~…食った食った」
「ごちそうさまは?」
「はいはい、ごちそうさまでした。…うるさいな」
優しくない…と、どうしても感じてしまう瞬間がある。というか、生意気?
それでもわたしがご飯を作れば洗い物は必ずやってくれるし、後になって「ごめんね」と謝ってくれるから結局は優しい人なんだと結論づけてる。
…こういう人、最近ハマってる“まんが”で読んだ。
深澪はいわゆる“メンヘラ製造機”と呼ばれる人種で、優しかったり優しくなかったりするのが相手の気を引く結果になって、最終的に女の子側が「もっと優しくしてよ!」って怒るやつだ。そういうタイプだ。
人間は欲深い……そしてわたしも、欲深い。
「そ…そういえばさ」
ここ数日、脳みそを支配してる欲を発散させたくて、口を開いた。
「き、キス……いつする…?」
そう、この間「ムラムラやばくなったらキスさせて」という深澪の言葉を信じて待ち続けている、粘膜の接触。
それを早く経験してみたくて言ったんだけど、
「あー…する必要なくなったからもう大丈夫」
バッサリと、断られてしまった。
「え…な、なんで?」
「お前のことしか考えられなくなるなら、お前を題材にした小説を書けばいいやと思って。だから解決した」
「なる…ほど?」
官能小説家らしい解決方法を編み出した深澪を普段なら凄いと尊敬してるところだけど……今は、なんだか憎たらしい。
ちょっとムッとはするものの、ここで怒っても仕方ない…それに、なにより。
「わ、わたしを題材に…って、具体的にどんな感じなの?気になる」
「あ。読む?いいよ、実はエロシーンだけすでにいくつか書き終えててさ。ちょうど誰かに読んでもらいたかったんだよね」
興味の矛先がそちらに向いて、好奇心のままに聞いてみれば、意外にも深澪は快く読ませてくれるみたいだった。
なにやらパソコンをカタカタ操作して、少し間を置いてそばに置いてあった機械が作動する。
「わー…!紙が出てきた」
「…これはプリンターだよ。そういえば天海が起きてる時に使うのは初めてだったね」
「ぷりんたー……すごい!」
「ちょっと待ってて、軽くまとめるから」
画期的なアイテム、プリンターから次々出てきた紙を集めて、トントンとテーブルで揃えた後でその紙たちを手渡される。
紙には緑色の四角が並んだ線と、その中に文字がズラリと並んでいた。…いつも見てる小説の感じと違う。
とりあえず「読んでみて」と言われたから、さっそく読み進めていった。
わ…け、けっこう、えっち…かも。
開始早々、特に説明もなく始まったプレイの内容に戸惑いつつ……ふと。
「…あの、深澪さん」
「ん、なに」
「この…“控えめな胸”って描写、なんですか」
気になったワードを見つけて、苦情混じりにぶつけてみたら悪びれた様子もなく「あぁ」と返ってくる。
「だってお前、貧乳だから」
「貧乳じゃないよ!Cカップあるもん…!一応、日本人女性の平均サイズだよ?それなりにあるから!」
「そっかぁ……官能小説だと巨乳受けするからそれで慣れちゃってたけど、そういや世間一般的には普通だったね」
「そうだよ!…だからこの“控えめ”ってやつ、やめて」
「んー、それはむり。実際に控えめだし」
く、悔しい。
わたしがGカップ級のサキュバスなら言い返せるけど、悲しいことにそこまで大きくないから何も言えないのが余計に悔しい。腹立つ。
「っだ、だいたい…こんな下品な喘ぎ方もしないよ!」
「上品な喘ぎ声があんの?あるなら聞いてみたいんだけど」
「そ、それは分からないけど……わたしは、わりとそこは控えめっていうか…」
「経験ないのに分かるんだ?」
「…っく。喘いだ事なんてないから分からないけど!とにかくこんな変な感じじゃない!…はず」
胸の描写では言い返せないから、他の部分でなんとか指摘したら…それも結局、強くは出られない結果に終わった。
け、経験の乏しさがこんなところでも仇になるなんて……うぅ、ポンコツな自分が憎い。
なにか…他に何か、ないかな?
気が付けば好奇心なんて消え失せて、もはやアラ探しみたいに文章を読んでいって…やっぱりかなりえっちなことには驚いた。
深澪の描く小説の中のわたしは、本当なら現実でそうなりたかったわたしに近くて、創作だと分かっていてもほんの少しだけ作品内の自分を羨ましく思う。
男性の手によって翻弄されて、サキュバスの力を使って翻弄もして、そうやって滾らせた体で下半身同士を密着させて、精力を思う存分に胎内に取り込む。……それが、本来のサキュバスのあり方で、存在意義でもある。
…ん?というか。
「相手は深澪じゃないの?」
明らかに男性に襲われる描写が続く事に違和感を覚えて顔を上げたら、
「当たり前じゃん。官能小説は基本、男女だよ」
何でもない感じの答えが返ってきた。
…なんか、やだな。
たとえ物語の中だとしても、深澪はわたしが他の男性に触られてもいいってこと?…自分で触りたいって感じじゃないのかな。
「で、どうだった?読んでみて」
「…えっちだった」
「他には?詳しく感想教えて」
「……相手は、深澪が良かった」
拗ねて、唇の先を尖らせる。
「百合はあんまり得意じゃないんだよ。終わりどころが分かんなくて」
「…ゆり?」
「そういうジャンルがあんの。書けないことはないけど……自分を題材にするのはさすがにキツいな」
「どうして?」
「自分が興奮してる姿を客観的に見るようなもんだからさ。そりゃ気まずいっていうか…自分のそういうのはキモい」
「そっか…」
言われてみれば、確かに。それでも興奮するサキュバスは多いけど、わたしはポンコツだからか自分の感じてる姿を見て喜べるほどの性癖は持ってないや。プレイ内容えっちだな…くらいは思う。
読ませてもらった小説も、自分だと思って読むとなんとなくソワソワして恥ずかしくなるから、深澪の気持ちはよく分かる。
でも…それが理由なら、自分を小説に出さないだけでわたしをこんな風にしたいって願望の現れとか、そういう可能性もありえるのかな。ちょっとくらい期待しても、いい…?
「み…深澪は」
「ん?」
「現実でわたしのこと抱きたいとは……思わないの?」
おずおずと顔色を窺って聞いたら、分かりやすく困った風に眉を垂らして彼女は頭の後ろをかいた。
「思わない…かな」
傷付くことを、平気で言われる。
「……どうして?」
「いや、なんか……無知すぎて子供みたいっていうか、触りたい欲よりも…可哀想って思っちゃうんだよね。何も知らないのを良いことに好き勝手するのは…良心が痛む」
さらに傷付くことばかり続く。子供扱いはまだいいけど……サキュバスなのに、そこまで性に関してバカだと思われるのはプライドが傷付く。
「わたしこれでも…サキュバスなんだけど。そこまで無知じゃないよ?むしろ詳しいのに……経験はないけど」
「分かってんだけどさ。…そもそも初体験があたしとか、申し訳ないじゃん」
「…わ、わたしは、初めては深澪がいいって思ってるよ」
「うぅん……それも、初めて優しくされた人間があたしだからでしょ?良い男なら他にもたくさんいるよ、天海が知らないだけで」
「……知らなくて、いいよ」
今さら、そんなことを言われても。
「深澪以外に抱かれるなんて…考えられない」
サキュバスらしくない一途すぎる言葉を吐いても、
「…もったないよ、せっかくサキュバスなんだからあたしだけなんて」
今はまだ、彼女の心には届かなかった。
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