第9話「未熟サキュバス、お散歩します…?」
深澪の家にお邪魔するようになって…早いことに、なんだかんだ一ヶ月が経つ。
人間界での生活にも少しずつ慣れてきて、最近は料理もちゃんと分量通り計ってやればそれなりに美味しく作れるようにもなってきて…適量だけは本当に困るから具体的な数値が欲しいな、なんて困惑する程度で他はけっこううまく出来てる。
…それでもまだちょっと、焦がしちゃったりはあるけど。
先日の、初めてのおつかい以降も深澪とふたりでならお出かけも許してもらえてるから、三日に一回程度買い出しに行って、途中で猫さんを撫でさせてもらうのが日課になってる。
深澪は動物に好かれるみたいで、そばに寄ってきてくれるからそれを横からさり気なく触らせてもらってる。…人間にも好かれる人だから、凄いなって思う。
家に居る時は洗濯物をしてみたり、最近は水回りの掃除のやり方を覚えたから率先して毎日やってる。やっぱり汚い所が綺麗になる瞬間はいつ見ても楽しくて好き。
特に何も問題ない穏やかな時の流れにのほほんとする事も多くて、深澪が在宅?のお仕事で基本家にいるから一緒にのんびり過ごす事がほとんどで…よく同じベッドでお昼寝したりもする。ちなみに夜はベッドの下にお布団を敷いてもらって、わたしはそこで寝てる。
なんかもう…充分に幸せというか、これ以上は何も望まないというか望めないというか。とにかく多幸感で溢れる日々を送ることができてる。
だけど、ひとつだけ…不満なことがある。
ずっと一緒に過ごしてて思った心配事でもあるんだけど…
「深澪、お散歩しよ?」
「えー…だるいからパスで」
こんな感じで、定期的に外出しようと誘っても、買い出し以外はほとんど外に出ないで引きこもってること。
なんとなくずっと室内にいるのは気分が沈んでくるのと、家にあった本で読んだやつの中に“健康的な生活”に関するものがあって、そこには「適度な運動」と書かれていたから…外に出て歩いたりした方がいいと思うんだけど。
「歩きに行こうよ、ねーえ」
「家の中で歩けばいいじゃん。…ランニングマシン買おうか?」
「なにそれ?…よく分かんないけど、健康のために日光浴びて運動した方がいいんだって。だからお散歩しよーよ」
「嫌だって。行きたいならひとりで…」
「え!ひとりで出かけてきてもいいの!」
「…だめ」
「じゃあ一緒に行こうよ~……猫さんに会いに行こ?」
ベッドの上でゴロゴロするだけの深澪に、粘りにねばって誘いまくって……ようやく「いいよ」と言ってもらえたのは日も落ち始めてきた夕方頃だった。
…ほんとは明るいうちにお散歩したかったのに。
深澪はいわゆる夜型?の人間みたいで、朝から昼間はそんなに活動的じゃないのに、夜になると急に元気になったりする。
お仕事があるからか寝る時間もバラバラで、たまに明るくなってから寝て暗くなってから起きる、なんてこともある。…わたしとは正反対のタイプ。
わたしは基本的に夜は日付が変わる数時間前には寝て、朝はしっかり早めに起きて、最近は少しずつ深澪が隣にいない時でも許されてきた包丁を使って朝ごはんを作って食べる…みたいな規則正しい生活を送ってる。
だからわたしが起きてる時に寝てて、相手が起きてる時に寝る…という、同じ家にいるのに会えない日もそこそこ多い。
寝てる時はもちろん起こすなんてできないから、おとなしく本を読んで過ごすんだけど……それもなんだか寂しくなってきてしまった。
もっと…一緒に色んな場所にお出かけしたいな。
「深澪…はやく行こ?」
「分かったよ。はぁ…行くか」
面倒くさそうな態度を見せられるものの、ちゃんと応えてくれるから優しい。
「…ほら、天海」
「うん!」
初めてのおつかいの日から、出かける時は手を繋ぐようになった。わたしが一緒に散歩したいのは、これもある。
たとえ手だけでも、深澪の体温に触れられることが嬉しい。
「お前の手…あったかい」
「深澪は冷たいね」
「…嫌?」
「ううん。うれしい」
冷えきった手を持ち上げて、自分の頬に当てる。
「深澪の手…すき」
本心からそう伝えたら、深澪はスンと鼻で息を吸って見下ろしてきた。
「お前…ムラムラしてる?」
「…してない」
「んんー…?なんでだろ」
わたしの好意は全部ムラムラと思われちゃうみたいで、不思議そうな反応で何度か髪の匂いを嗅がれて気持ちは拗ねた。
「わたしサキュバスだけど…そんなずっとムラムラしてるわけじゃないもん」
「あ……いや、ごめん。そんなつもりじゃ。ただ、なんか…いいにおいするんだ、いつも。それで気になって」
「ムラムラしてる時の匂い?」
「うーん…めっちゃ近い。けど、ちょっと違うかも」
「どんな香りなの?」
「え…どんな、か……そうだな…」
確認のためか抱き寄せられて、耳の後ろ辺りに鼻先が当てられる。
「…えろい」
耳元で、吐息と一緒にそれだけ伝えられて、変に意識しちゃった脳が刺激を受けて体をピクンと動かした。
「お……におい濃くなった。でもさっきとちょっと違うな」
どうやら深澪の言ってる香りはわたしの興奮と比例するみたいで、もしかしたらフェロモンの一種かなー…?と推測を立てる。むしろそれ以外にありえないんだけど。
今はムラムラしちゃったから分かるけど……そうじゃない方の匂いはなんだろ?
これまでにサキュバス界で学んできた文献の中に該当しそうなものがなくて、記憶をまさぐっても無駄に終わったことに困り果てて小首を傾げた。
基本、向こうでは主にセックスに関することか人間界の常識(偏見混じり)みたいなことしか学ばなかったから、わたしが知らないだけの可能性が高い。
いつも疑問を解消してもらってるし、こういう時くらい深澪の疑問も解消させてあげたいけど…こんな時でも自分はポンコツなんだと落ち込む。
「ご…めん、天海」
「へ?なに…」
突然、グイと手を引かれて、驚くよりも先に足が勝手に動いた。
せっかく外に出たのに、深澪はわたしを連れてまた自分の住むマンションへと戻ってしまう。…なんで?
「ねぇ、深澪…どうし」
「食べて」
「え」
ガチャンと部屋の扉が閉まると同時に壁に背中を押し付けられる体勢で、顎を持たれた。
食べてって……何を?
「こんなんじゃ、外出れないから」
指先が、唇の間を縫って入ってくる。
あ……深澪、こんなに欲情して…
いつもより数段濃い甘い味が舌に広がった瞬間に理解すると同時に、怖いくらいの興奮が急激に押し寄せてきた。
「いっぱい食べて。…冷静にさせて」
「んっ……は…でも、いいの…?小説のアイデアとか…」
「今それ、考えてる余裕ないから」
珍しい…深澪が、小説のこと優先しないなんて。
「とにかく…冷静になりたい。じゃないとあたし、お前のこと…」
最後までは言わずに、深く震えたため息を吐き出して口を固く閉じる。その表情は悔しそうにも、怒ってるようにも見えた。
なん、だろ…?
わたしまた、迷惑かけちゃってるのかな。知らないうちに…
「はぁ……このにおい、まじで勘弁してくれ」
多分、フェロモンの事を言ったんだと…思う。
その言葉にズグリ、と心臓が嫌な跳ね方をして、もう精力を味わう余裕も失くして心は絶望一色に染まった。
やっぱり…迷惑かけちゃってたんだ。
「ごめん…なさい」
ポロポロと涙が溢れて、しがみつくように深澪の胸元の服を掴んだ。
「迷惑かけて、ごめんなさい…」
こんな時、なんて言うのが正解なのか分からなくて、ただただ謝っては涙を流したら…深澪は僅かに目を見開いて呆気にとられていた。
何も言われないこともまた絶望的な気がして、必死にこんがらがる頭の中で言葉を探す。
「ゆ、許してください……なんでもします。ごめんなさい」
「ばかやろう」
とりあえず思いついた言葉を出したら、低い声で怒られて肩がビクリと震える。…い、今のじゃだめだった?足りたかった、かな。これは…土下座すべき?
「っ…ご、ごめんなさい、ごめん…許してくださ」
「もういいって」
焦って何度も謝ったわたしの体を抱き寄せて、深澪は怒りからか呆れからか、盛大に肺から空気を吐き出した。
数分くらいの間は、何も言わずに頭を撫でられた。
「…追い出したり、しないよ」
わたしの涙が治まって、深澪の欲情の匂いもすっかり消えて無くなった頃に、ようやく頭上から優しい静かな声が届いた。
「だからそんな謝んないで。…あと何でもするとか簡単に言うな」
「でも、わたし…迷惑ばかり」
「いいんだよ、別に。それ承知で家に置いてんだから」
否定しないってことは、やっぱり迷惑とは思ってるのかな…?
「むしろ家事とかやってくれて…助かってるよ」
心配になった気持ちは、すぐに解消された。
優しく声をかけられて胸がキュンとする。
…すき。
「あー……でも、このにおいは困るな…」
「ん…な、なに?」
「今もめっちゃえろいにおいすんの、これやめてほしいんだけど」
そう、言われても…
多分これは自動的に発動しちゃうフェロモンだから、自分ではどうにもできない。…もしかしたら、他のサキュバスなら調整可能なのかもしれないけど、魔力の少ないわたしにはほぼ無理な話だった。
だけどこのことで困らせてるなら、なんとかしなきゃだめだよね。
「これ嗅ぐと…ムラムラしすぎて止まんないんだよ。だから困る」
「し、小説にも繋げられない…?」
「ある程度ならできるけど…あまりに興奮すると、お前以外何も考えられなくなるから…」
「そ…れは、わたしからしたら嬉しいことなんだけど、深澪は嫌なの?」
「仕事が手に付かなくなるから嫌だ」
「そ、そっか…そうだよね」
結果的に、お仕事の邪魔になっちゃうんだ。
ど…どうしようかな。
汗をちょっと貰うだけじゃ抑えられないくらいの欲情と精力ってことだもんね…これは相当、わたしでムラムラしてくれてる。うれしい…じゃなくて、今はそれをなんとかしないと。
謎のフェロモンを出さずにいられるのが一番なんだけど、いつ発動しちゃうのか分からないから難しいところ…
「に、匂い嗅ぐのやめるとか…?」
「……息止めて死ねって言ってる?」
「っち、ちがう。言ってないよ」
「他になんかいい案ないの?サキュバスだから対処法知ってたりしない?」
「うぅん…あるには、ある……けど」
「あるんだ。なに?聞かせて」
これ言ったら…怒られないかな?
ビクビクしながら深澪を見上げて、
「き……キス、する」
汗よりも多くの精力の供給が可能な粘膜の接触…セックスはさすがにまだむりだから、もうひとつのハードルの低い方を打開策として伝えてみたら、深澪の目がキョトンとしたものに変わった。
だけどすぐ、何かを疑うように細まる。
「…それ、お前がキスしたいだけじゃなくて?」
「し、失礼な!こう見えて真面目に考えた結果なんだよ?……そりゃ、少しくらい、いやけっこう…下心はあるけど…」
「下心があるならナシです」
「あぁ…!そ、そんな…後生ですから!」
「…お前のそういう言葉はどこで覚えてくんだよ」
「人間界図鑑」
「今すぐ燃やせ、そんなもん」
ため息をついて、深澪は頭の後ろをかきながらわたしから距離を取った。
「まぁでも、今はもう治まったからいいけど…今度ああなった時はお願いしようかな。仕事に支障出るのは困るし」
意外にもキスに前向きな発言を向けられて、今は出てない尻尾を振りながらついつい気持ちは期待してしまう。
み、深澪とのキス…!
サキュバス界ではありえない、18歳を超えてからの人生初のキスの予感に、劣等感とかもはや関係ないくらい胸を高鳴らせた。
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