第7話「未熟サキュバス、お役に立ちます」
ここ一週間、家にある本は片っ端から読んで…分かったことがひとつある。
それは……サキュバス界で学んできた人間界図鑑の内容がほとんど基礎にもならない初歩にもならない知識の薄さで、中には古すぎる情報だったり、ただの偏見なだけの内容があったってこと。
…要は、今まで取り入れた知識のほとんどが使えなくて無駄だった。
実際の人間は体の仕組みも社会の仕組みも複雑で、体格や性格は個体差も激しく、恋愛の仕方も多種多様でわりかし自由。
ほとんど一から覚えていくの、大変で気が滅入るなぁ…なんて思っていたんだけど。
「…少し休憩しな」
仰向けで寝そべっていたわたしの、天井と本しかなかった視界に、本を奪った手と綺麗な顔が現れる。
「目も頭も疲れちゃうよ」
「でも…」
「いいんだよ、天海」
焦る気持ちから一日中本ばかり読むわたしに、
「お前のペースで……ゆっくり色んなこと知っていけば」
深澪はそんな風に優しくブレーキをかけてくれて、そのおかげでもっと人間について…深澪について知りたくなる気持ちと、ちゃんと休まなきゃって気持ちが湧いて出て、やる気は萎えることなく維持されてた。
一週間経った今は深澪も締め切り?を過ぎてお仕事が落ち着いたのか、忙しい中でも余裕はできたみたいで分からないことはその都度聞けば答えてくれるし…思いのほか、人間界についての理解はけっこう早い段階で深まってきてる。それでもまだまだ経験は追いついてないけど。
最近は深澪が横についてくれてる時だけ包丁を使って料理もさせてもらえてて、それ以外にも洗濯とかお風呂洗いとか…他の家事も教えてもらった。
「…ねえね、見て!お肉、上手に焼けた!」
「うん。…すごいね」
教えてもらいながら、色んな報告をするとその度にこうして静かな反応で褒めてくれるから、それが嬉しくてもっともっと家事は捗る。
深澪も「家事をしてくれるのは助かる」って言ってくれたから、これからも頑張らなくちゃ。少しでも役に立たないとね。
そしてもうひとつ。
わたしにも役立てることが見つかった。
「怪我しないようにちゃんと手元見てね」
「うん!…ちゃんと、猫の手してるよ」
「…はは。手、小さくて可愛いね」
夜、キッチンで隣に立って見守ってもらいながらお野菜を切って、話の流れで包丁を置いて猫の手を見せつけたら、その手を取った深澪に抱き寄せられた。
「天海…」
突然のことに驚きつつも、最近たまにあることだから心の準備をして次の言葉を待つ。
「…興奮して」
「ぅ…あ、は…い」
命令口調のそれに素直に反応して、従おうと動いた脳が体全体に刺激を行き渡らせて、ゾクリとした感覚が皮膚の上を包んだ。
それを確認した深澪の鼻先が、髪へ当てられる。
「まじで…いいにおい。どっからすんだろ」
匂いの元を辿るように顔が動いて、こめかみから耳の後ろまで鼻が降りた。
「んん?……不思議。どこ嗅いでもするんだ。一生嗅いでられる」
「…き、気に入って、くれた?」
「うん。いい感じにアイデア湧いてきた!…ありがと、天海」
しばらくスンスン空気を吸い込んだ後で、パッと体を離して深澪はポケットから取り出したスマートフォンとやらに文字を入力していく。
そう…わたしだからこそ、役に立てること。
それは、サキュバスとしてのすぐに欲情する感度の高さと頭の緩さを遺憾なく発揮して、微量のフェロモンを分泌させることで深澪の興奮を刺激して、小説のネタに繋げてもらうというもの。
深澪は官能小説家だから……えっちなことには常に貪欲にアンテナを張り巡らせているものの、やっぱりムラムラした時が一番アイデアが浮かびやすいらしい。
だから、そのお手伝いをしてる。
そしてお礼に、
「わたしも…食べたいな」
「ちょっとだけ待って。これ書き出した後にして」
「ん…わかった」
好き勝手に思う存分、パソコンやスマホなんかにアイデアを打ち込んでもらってから、わたしにも精力を分けてくれるようになった。
「…うん、よし。ほら舐めていいよ」
待ってる間に覚束ない手つきで料理を進めて、書き出し作業が終わったら顔の前に差し出された指を目を丸くして見つめる。
相変わらず…何回見ても綺麗な指。
「あ。あたしも興奮してないと意味ないんだっけか」
「う…うん」
「まぁさっきの余韻残ってるし、大丈夫でしょ」
「ぅう、んん」
後ろから抱き包まれる形で、半ば無理やり口の中に指を二本ねじ込まれる。
持っていた包丁を落としかけて、それはすぐに深澪が代わりに持ってシンクの中へと入れてくれた。わたしはそんなの気にしてる余裕もなく、入り込んできた指を受け入れる。
「どう…?これで腹膨れる?」
「っ、ん…これじゃ、だめ……精力出てな…」
「じゃあさ、頑張って興奮させてよ」
そんなことを、言われても。
ポンコツサキュバスにはどうしたらいいかなんて分かるはずもなくて、とりあえず必死に指に吸いついた。
「は、ぁ……なんかお前、従順でかわいいけど」
こめかみの辺りにスリスリ頬を寄せながら、悩ましい吐息を出した深澪の手で、頭を包むように撫でられる。
「そんな素直で…心配になるな」
「ん…ん?」
「嫌だったら、断ってもいいんだよ」
嫌なわけ、ないのに。
ごめんね…なんて小さく謝られたから、何も言わずに首を横に振った。…今は物理的に口を塞がれてるから何も言えなかった、の方が正しい。
言葉で伝えられないのがもどかしくて、代わりに奥の方まで来てた指先を舌で舐め上げて吸ってみたら、途端に甘い香りと濃厚な味が口いっぱいに広がった。
自然と、喉がコクンと動く。
「…おいしい?」
「う、ん……っおいし」
「いっぱい食べな」
手汗という体液に含まれた精力が皮膚を通じて滲み出て体内に取り込まれると、それだけで空腹も性欲も満たされる。
精力が貰えるってことは、深澪も興奮してるんだ…そう思うとさらに満足感が心を覆い尽くした。
なんかもう…セックスなんていらないかも。
サキュバスとしては失格すぎることを脳に浮かべて、与えられる微量の美味しさに満足してしまうわたしは、やっぱりまだまだ未熟者すぎるほど未熟者なんだと思い知る。
他のサキュバスならきっと……こんなんじゃ足りなくて、今すぐにでも押し倒して襲ってただろうから。
それが出来ない事に自信喪失するのと同時に、それをしなくて済むことに謎の安心感を得て、複雑な気持ちを抱えた。
わたし…このままでいいのかな。
幸せだけど、サキュバスとしては最悪だ。
「…天海」
沈んだ心を浮き上がらせるみたいに、切ない吐息混じりの静かな声が鼓膜を撫でて、鼓動を叩いた。
「今は、こっちに集中して」
どこかボーッとしちゃってたわたしに気を使ってくれたのかな。口の中で指をクイと曲げられて、単純な思考はすぐその刺激に意識を集中させる。
深澪の手って……人間界図鑑や人間界に来てから本を読んで知った男の人みたいに大きいけど、指は細くて長くて女性的で、不思議な感じ。爪は綺麗に整えられてるから、口の中に入れても痛くない。
味も匂いも、痛い思いさせちゃうから噛めないけど舌先で感じる皮膚の食感も、よく味わいながら喉の奥へと通していった。
「あ。…生えてきた」
今までにないくらい一気に取り込んだことと、気を緩めていた影響で姿を現した頭部の、尖ったしこりみたいな大きさの突起の角に気が付いた深澪が興味本位でカリ、と爪の先で弾く。
あ、それ……だ、め…
その瞬間に、私の脳にはとてつもない衝撃と、体には激動が訪れて、瞬く間に視界がチカチカと眩しくなるような感覚に襲われた。
「え…ご、ごめん。もしかしてここ、触っちゃだめだった?」
「………っは…へ、へいき…」
腰が砕けてずるり、と膝から崩れ落ちたわたしの体を支えてくれた深澪が心配そうに顔を覗き込んでくる。
そうだ…そういえば、説明してなかったもんね。
「っ…は、羽と尻尾と角は……性感帯なの」
「そ、そうだったの?ごめん、知らなくて…」
「言ってなかったから…嫌じゃないから、平気だよ。今のはちょっと、びっくりしちゃっただけ」
「そっか…しんどかったろ。ベッドで休んでな。…立てる?」
「う…ん」
ガクガクと震えた、力の入らない足でなんとか踏ん張って、肩を抱かれて支えてもらいながらキッチンから部屋へと移動する。
ベッドの上に寝かせてもらって、いつの間にか滲み出て浮き上がっていた汗を深澪の指が拭い取ってくれた。
…誰かに角を触られたのなんて、初めてだったけど。
驚くほどの気持ちよさだった余韻に浸りながら、疲れた頭で天井をただただ見つめた。……こういうところもサキュバスらしくない。
サキュバスは通常、性に関する刺激であれば際限なく耐えることができて…むしろより、感度と体力を増していく。だからほとんどエンドレスの性交渉が可能で、中には精力を吸い尽くして相手の人間を殺してしまう場合もあるくらいには、性欲も耐性も強い。
それなのにわたしは、たった一回…ほんのちょっぴり触られただけでこの体たらく。サキュバスらしさを保ってるのは感度の良さくらいだった。
どうしてわたしがこんなにも雑魚なのか……悲しいことに、理由はない。
父と母はふたりともサキュバスで、だから至って普通の純血種なはずなのに、隔世遺伝なのか突然変異なのかなんなのか…特に何か隠された秘密があるわけでもなく、どこまでもただ雑魚いだけである。
「ご飯の続きはあたし作るから。天海は寝てな」
「……ごめん」
人間界に来てもこのざま…わたしほんとに、深澪の役に立ててるかな。
不安に思うものの、抗いがたい睡魔が襲ってきて…その日はそのまま意識を手放してしまった。
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