第14話 『日常の秘密』

 フィリア地方への旅を明日に控えた土曜日の午後、僕――三宅健太は、部屋いっぱいに資料を広げて最後の準備に没頭していた。ふと窓の外を見れば、眩しい夏の光が街路樹の葉を揺らしている。日付は7月半ば。けれど、僕の手元にある分厚いファイルや色褪せたノートには、「一年以上」にも及ぶ冒険の記録が詰まっている。


 日本の時間軸では、僕たちはまだ新学期から三ヶ月ほどしか経っていないはずだ。それなのに、異世界で過ごした時間は圧倒的に長い。「時の流れが違う」――それが、この春に異世界と行き来しはじめた頃からずっと感じていた“不可解”であり、“秘密”でもある。異世界エルフィリアでの数ヶ月は、日本の世界でのたった数日、あるいは数週間にしか感じられないこともあった。旅や商売で体験した出来事の密度も高く、気付けば“思い出の総量”は高校生活一年分を遥かに超えている。


 そんな時、インターホンが控えめに鳴った。

「はい、三宅です」

 応答すると、柔らかな声が返ってくる。

「健太さん、ゆりなです。お約束通り、資料整理のお手伝いに来ました」

「あ、ゆりなさん。ありがとうございます。すぐに開けます」

 玄関を開けると、白いワンピース姿のゆりなさんが、上品な笑顔とともに小さなケーキの箱を手に立っていた。


「今日はお招きいただき、ありがとうございます。差し入れです」

「わざわざ、すみません。どうぞ、あがってください」


 彼女が部屋に入ると、床いっぱいに並ぶ資料の山に軽く息を呑む。

「これ……すごい量ですね。冒険部の活動って、こんなにも記録されていたんですね」

「自分でもびっくりしてるよ。異世界での商売記録、出会った人たちの名前、失敗談……それから、日常のこともいろいろ」

 笑い合いながら、僕たちは座卓を挟んで向かい合い、作業を始める。彼女の仕草はいつも丁寧で、さりげなく僕のファイルに手を添えたり、資料を一枚ずつきれいに整えてくれる。


「これは、異世界で初めて“冒険”した日の記録ですね」

 ゆりなさんが懐かしそうに手帳を手に取る。

「健太さんの字で“扉を発見”って書いてありますよ」

「あの日は衝撃だったな。まさか掃除用具入れが異世界に繋がってるなんて」

 顔を見合わせて、どちらともなく小さく笑い合う。その笑い声さえ、どこか秘密の共有者だけが知る合図みたいで、僕は少し胸が高鳴るのを感じていた。


「資料がこんなに膨大なのは……やっぱり、日本と異世界で時間の流れが違うから、ですよね?」

「うん。日本では春から三ヶ月くらいしか経ってないはずなのに、エルフィリアでは何度も春を迎えて、季節が進んだ気がするんだ」

「不思議ですよね」

 ゆりなさんが優しい眼差しを向ける。「私、異世界で初めて市場に行った時のこと、すごくよく覚えています。あの、まるでおとぎ話みたいな賑わい」

「それ、きっとこころが一番はしゃいでた日だ」

「そうですね。あの時のこころさん、すごく無邪気で、商人に絡まれても全然物怖じしなかった」

 二人で資料を整理しながら話すうち、ふと気づけば距離もずいぶん近くなっていた。彼女の手の甲が僕の手に軽く触れた瞬間、何となく“時間の感覚”まで狂うような、柔らかな緊張が部屋に満ちる。


「……ごめんなさい」

「いや、こっちこそ」

 ちょっとした沈黙のあと、思わず二人とも笑ってしまう。


「それにしても、本当にたくさんの出来事がありましたよね」

「君がいてくれて、本当に助かったよ」

「私もです。みなさんと出会えたことが、今の私にとって何よりの宝物です」


 そんな“ちょっといい雰囲気”をあっさり切り裂くように、突然スマホが振動した。「あ、ひよりからだ」


「もしもし、健太くん? 明日の準備、進んでる?」

「うん、今ゆりなさんと資料整理してるところだよ」

「あら、二人で? ……まあいいわ。私もそっち行こうかな」

「あ、いや、もう片付きそうだし」

「いいの、今から行くわ」

 電話が切れると、僕とゆりなさんはお互い顔を見合わせて、微妙な空気に苦笑いするしかなかった。


「ひよりさん、やっぱり気になっていたんですね」

「そうみたい」

「……ふふ、女の子って、案外鋭いんですよ」

 ゆりなさんの冗談めいた一言に、僕は少しだけ照れくさくなった。


 やがて、ひよりが勢いよくやって来る。「お疲れさまー、健太くん、ゆりなさん! すごい資料の山ね」

「健太くん、昔から几帳面だから」

 ひよりがさりげなく僕の記録帳を広げ、子供の頃の日記の話題を蒸し返して、ゆりなさんと三人でわいわい盛り上がる。外はすっかり夕焼け色に染まっていた。


 ちなみに、こころは今日は不在。陸上部の大会に急きょ助っ人で呼ばれていて、昨日から他校へ遠征に行っているらしい。LINEで「明日の朝は必ず集合するから!みんなによろしく!」と、元気なメッセージだけが届いていた。


 三人で資料整理も終盤にさしかかったころ、ゆりなさんが小さなケーキの箱を開けてくれる。「明日の旅の成功を祈って、奮発しました」と言いながら、テーブルの上で綺麗に切り分けてくれた。

「おいしいね」「さすがゆりなさん、センスいい」

「私も明日はがんばるわよ」と、ひよりが珍しく負けん気を見せる。


 荷造り、持ち物チェック。チェックリストには「日本と異世界の物を混同しない」も赤字でしっかり書かれている。「この前の“光の石事件”みたいなことは、もう絶対起こさないから」と三人で笑いあう。


 夕方、二人を見送ったあと、部屋に静寂が戻った。窓の外では遠くに夏の入道雲が浮かび、心は明日への不安と期待で不思議と静かに高鳴っていた。


「明日、いよいよ先輩に会える。これまでの冒険が全部、明日のために繋がっていた気がする」


 ベッドに横たわり、眠れぬ夜を過ごす。壁際の棚には、一年分よりも密度の濃い、僕たちだけの記録がずっしり並んでいる。

 星空を眺めながら、僕はひとつ息を吐く――「これは、僕たちの“日常”であり、秘密だ。」



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