第94話 ルイ

 氷点よりもはるかに温度の低い氷は簡単に溶けないが、火魔法によって温められた積雪は地竜の体重と力によって溶けてしまう。だからたとえ雪と氷全てを溶かすほどでなくとも火魔法の使用は禁じていたのだ。

 その禁を破った者が居る。あるいは故意にそうしたのかもしれない。


「クソッ! だからアリストンのイヌなど粛清しておけば……!」



 レイアが怒っているように、火魔法を使った者はみな衛士隊所属の者であるのだろう。

 3年前、フロルの処遇を巡って意見が対立した結果なのか、クローヴィスの意を汲み取ったつもりの何者かによってアリストンが暗殺された。

 その際に衛士隊の一部にクローヴィスに対してよからぬ思いを抱く者が出た。

 アリストンの養い子であったレオニードを衛士隊長に据えたことでそういった動きは沈静化したはずだったのだが、そのレオニードも今は居ない。


「お、お前ら何をやっとるかぁ! はやく包囲を! 再包囲をせんかぁ!!」


 現在の衛士隊の責任者であるフョードルがわめいているが、うまくいきはしない。一度地精霊と接触してしまった地竜はもはや獲物などではない。災害に等しい。


 雪が吹き飛ばされ剥き出しになった大地。波打つ地面に兵たちは接近するそばから弾き飛ばされていく。

 冬に遠征をするようになって最初の年も似たような失敗で中止に追い込まれている。だがクローヴィスの力はその頃からさらに増している。


 雪板を外したクローヴィスは、40メルテほど離れている地竜にむかって雪を蹴散らしながら駆け寄っていく。


請うエルク 水の精ファンウンディ 我がマナと引き換えにカヌディシチ ジェマナ その身を凝らせルコッテ レ ヒッツオ ――』

請うエルク 風の精ファンシルフェ 我がマナと引き換えにカヌディシチ ジェマナ 我が身を渦巻けキュサルト ナンクルジェ ――)


 外套を脱ぎ去ったクローヴィスの僧服に、帽子を剥ぎとったその頭部に、接触した雪が体温で溶けて水になる。水はクローヴィスのマナと混じりあい、魔法の媒介と化す。


『―― 風に従いシルフェルム 奇なる力をフィラッカ タス 気に満たしアンタ オンジェア 放てゼップ 雷光イカヅチ

(―― 水を導きゾリニュンディ 貴き力をチナグンタス  励まし起せシチシーキラ 放てゼップ 雷光イカヅチ


 クローヴィスの体に発生した霜が一気に風と混じりあい、その氷と風の混合物が一つの魔法媒介として新たな力を生み出す。

 走るクローヴィスを取り巻き続ける真っ白な渦のせいで視界は最悪だが、巨大な地竜の陰を見逃すことは無い。最後の一歩、魔法の射程に入った。


 一条の稲妻が白い渦と地竜を結んだ。対象の頭頂に直撃。少し遅れ巨大な掌が打ち鳴らされたような破裂音。

 地竜は丸まっていた背筋を逆に反らし、白目をむいて動きを止めた。周囲に沸き起こる歓声。怪我をした兵が前線から離れていく。



「フョードル、竜に止めを刺す栄誉をやる」

「えっ? あ、は…… え?」


 クローヴィスが脱ぎ捨てた外套を抱え追いついてきたレイアが、舌打ちをしてフョードルに催促の言葉を続けた。


「衛士長殿、挽回の機会ですぞ」


 フョードルはレイアとクローヴィスの顔を交互に見て、ようやく決心したように腰の曲刀を抜き放った。雪を蹴散らして、痙攣する地竜に向かって行く。

 その姿はまるで自分の力に振り回されているかのように無様である。


(あの男、やはり魔石を金で買っているという噂は本当のようだな……)


 『雷光』といえども一撃で地竜の命まで奪うことはできない。麻痺させてまともに動けなくさせるのがせいぜいだ。フョードルの使う≪斬気・纏≫であれば地竜の首を裂いて致命傷を負わせられると思ったのだが、あれではまともに武器を振れるのかどうか。


 彫金で派手に飾られた鎧の下ではみ出す弛んだ尻を見て、クローヴィスは抑えられない嫌悪が脳内によみがえるのを感じた。



 KJ暦435年。『灼岩のビセンテ』の弟子として、『書庫の賢者』の歴史上最年少で後継候補の名乗りを上げた当時の名は、本名である「ルイ」だ。

 自身が≪書庫記載≫を使えるようになってなお、ルイは≪書庫≫の異能が苦手であった。

 『七賢』継承を急いだ理由の一つは、口やかましく書庫の使用を促すビセンテを黙らせたいというものだった。


 一門内で抹殺対象として候補に挙がっていたグロロウ領主賢者ブルスタ。

 その書き込みを自分で確認することはしなかった。

 兄弟子たちは時間をかけて探し出していたが、名前や肩書だけで書き込み者を特定するのは容易ではない。直接顔を見て検索する場合の何倍も難しい。


 グロロウに到着したルイは、読めもしない古書を愛でるブルスタを図書室で急襲。手引きをしたのはアリストンだ。

 たいして抵抗もさせずに無力化し、豪勢な文机にうつぶせで縛り付けた。


 尻の弛んだ無力で哀れな老人を前に、ルイは殺すことを躊躇ためらった。書き込みの削除さえするなら命を助けようと提案したが、ブルスタはせせら笑い、自身を検索し書き込みを閲覧しろと促す。


 結果としてルイは書き込みの削除を求めてブルスタを2刻間にわたって切り刻み続けることになった。

 黒ずんだ赤晶鉄の剣が血脂で使い物にならなくなり、壁石をもぎ取って研ぎ直しているとき、虫の息のブルスタがルイに吐きかけた言葉が今も耳に残っている。


「貴様らが一生味わうことのない悦楽の記憶が、≪書庫≫を永遠に侵し続ける。俺の魂は未来永劫貴様らに勝利し続けるのだ」


 最初の殺人の記憶と結びつき、いつまでも脳から離れることのない呪いの言葉だった。



 フョードルがもたもたしている間に地竜は再びうごめき始めている。自分に手痛い一撃を加えたクローヴィスに首を向ける地竜。

 カレルが飛び込んでその左目を刺槍で突いた。≪集中呼吸≫によって瞬間的に倍増した『五芒星の力ステー タス』で十分に加速された刺槍は眼球に穂先を潜り込ませ、直後に半ばから折れた。

 痛みに暴れる地竜にフョードルが振るった剣先が偶然掠った。幸運にも右目を切り裂き、地竜は視覚を完全に失った。だが目の見えない地竜相手でもこのままフョードルには倒しきれないだろう。


 クローヴィスは両手を広げて周囲の空気にマナを流し込んだ。風の精霊力に同調させる。



 ≪書庫≫に登録されている単風精霊中魔法である『脱空プニアジス』は呪文と実態があまり合致していない不完全な魔法だ。

 呪文では打ち出す風から生気を取り除いてもらうように精霊に対し唱えている。


 だが実際の精霊現象として起きていることはそうなっていない。

 空気の中の生気ではない、いわゆる「死気」をマナとより強く結び付け、それを強く押し出すことで生気の濃度を低くすることが出来ているだけだ。


 クローヴィスは政治の片手間でこの『脱空』の研究した。実験の結果、空気の中に4分の1程しか含まれていない生気のほうがマナとの親和性がわずかに高いことがわかった。その知見をもとに呪文を解体し、再構築。生気と死気の両方に働きかけることでより完璧な魔法を作り上げた。


風の精霊ゼ ファンシルフェ マナを糧にグラーフマナ 生気を寄せキーホ レクオス 死気を集めよジー ギリュコ

          塊を成しツイックメトロ 混じることなくチラヌエッテン 我が意に従えカアプジェカンシア


 書庫に登録する気は無いので名は無いが、あえて言うなら『真・脱空ラクト・プニアジス』だろう。

 クローヴィスが前に突き出した両手の周りに、生気をほぼ完全に取り除かれた空気が大きな球状の塊になる。

 意思のままに打ち出されたその塊は地竜の鼻先に命中した。


 物の燃焼、そして生き物の呼吸に不可欠の生気。それを完全に除かれた空気が肺に満ちると、生き物は呼吸が苦しくなるどころでは済まない。

 なぜか多くの生き物が一呼吸、一鼓動で全身が脱力、昏倒し意識を失う。

 人や獣では実証済み。トカゲよりも獣に近い地竜も例外ではなかったようだ。まず右半身が力を失い、そしてそのまま、地響きを立てて横倒しになった。


 フョードルが嬉々としてむき出しになった地竜の喉に曲刀を突きこんだ。何度も繰り返して突き、血管に当たったようだ。噴き出した血で全身真っ赤に染まっている。


 ついに3頭目の地竜を倒した。兵たちの歓声が魔境の森に鳴り響く。

 60階梯に至る最後の魔石が手に入る。


 『真・脱空』は単風精霊魔法であるために思考詠唱で発動することが可能だ。長い呪文になったので少し時間がかかる。

 その時間がちょうど普通の『脱空』を発声詠唱する時間と同じなので、トーマの『火炎旋風フィオムベンティゴ』を打ち消すときはあえて欺瞞のために普通の『脱空』の呪文を聞かせてやった。ちょっとしたいたずら心である。



 解体のための巨大な刃に長柄のついた道具を持った兵がやってきた。殺した魔物の魔石は一分一秒でも早く摂らなければ成長素が無駄になる。

 クローヴィスの左腕にレイアが飛びついてきた。


「や、やりましたね! 先生!」

「……ああ!」


 これで目的が達成される。


 そう感じた瞬間、クローヴィスの脳裏に考えが浮かんだ。

 ひょっとしたら自分は、ブルスタの書き込みを削除できればそれで良かったのではないか。

 自分を苦しめ続ける忌まわしい記憶。あの呪いの言葉を否定できることがただ嬉しい。

 一瞬、それ以外の事は頭から抜け落ちていた。

 ≪書庫≫の完全破壊などということは本当に自分の望みだったのか。


 ≪書庫≫内にあふれる情報で情勢を読み解けば、大陸中の反『書庫の賢者』勢力による動きはすでに顕在化しつつある。


 今更後戻り出来ないことだと、クローヴィスは無駄な考えを振り払った。

 とにかくこの魔石を摂りさえすれば、自分は一つ、自由になれるのだ。



 右の方角から太い風切り音がして、森の奥から何かが回転しながら飛んできた。


「うっわ!」


 衝突音。

 解体用竜包丁を構えていた兵が何かに驚いて尻もちをついている。

 地竜の死体に差し込まれていた竜包丁が砕け散っていた。


 マナの恩恵を失い、巨大すぎる肉の山になっている地竜の死体。

 そこにめり込んだのは長柄の巨大な斧だった。

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