第92話 前歯
地起こしムジナの毛皮の中でトーマは異音に目を覚ました。毛量豊かな毛皮は暖かいのはいいのだが、音を吸収するので危険察知が遅れるのではと思っていた。
毛を内側にして包まっていた皮の間から顔を出してみると案の定、杉の巨木の根元に魔物。
後ろ足で立ち上がり前足の爪を幹にかけ、体を持ち上げようとしてはずり落ちている。爪で切り裂かれ、大きな木片が幹から剥離してもげ落ちた。
辺りはもう薄っすらと明るい。
慣れない雪板での移動。久しぶりに一日中運動したせいで、野営にもかかわらず、ぐっすり寝ていたようだ。
「ガイウス! ガイウス!」
反対側の枝にぶら下がっている毛皮の繭に叫んだトーマを、魔物は見上げた。
「ン゛ダァアアン」
ネコの声といえばそう聞こえないことも無いが、20メルテ離れた距離からトーマの耳の奥をしびれさせる声量。いや、魔物の頭部の高さから計測すれば15メルテしか離れていない。
ヤシャネコは右前足を振りかぶると斜め上から杉の幹に5本の爪を叩きつけた。人間2、3人分ほどの量の破片がはじけ飛ぶ。衝撃が杉を揺らし、ぶら下がっているトーマは空中をボヨンボヨンと跳ね跳んだ。
左の追撃。前後に一度ずつ大きく揺れて、そのまま巨木はヤシャネコの方に傾き、へし折れていく。
木が倒れた音は案外小さなものだった。地面に衝突したと思われた杉の巨木は深い積雪に全体が埋もれている。
直前に毛皮から飛び出したトーマだが、降り立った場所で腰まで埋まってしまった。
もうもうと立ち込める雪煙の向こう、ヤシャネコとの距離は20メルテ弱。その間合いの中心にガイウスが立った。雪板もつけていないがトーマのように埋もれない。
「無事?」
「大丈夫だ」
魔物から目を離さずにガイウスが背中でトーマを気遣う。
雪に脚を埋め込みながらゆっくりと近づくヤシャネコは≪書庫≫に記されている通りの外見だ。黄土色の毛皮に黒の横縞が走っている。縞は頭部に複雑で美しい紋様を描き、その頭頂の毛は長く伸び逆立っている。
何よりも特徴的なのは灰オオグマを凌ぐかもしれない巨大な頭部、その上顎から半メルテはあろうかという長大な牙がはみ出していることだ。
ヤシャネコは立ちふさがるガイウスに対してまた鳴いた。最大に開いた口にも牙が収まることは無い。あれでは獲物に噛みついて殺す際の役には立たないと思われるのだが、このバケモノのデカい爪で切り裂けば、全ての獣とほとんどの魔物が即死だろう。人間も同様だ。
「ステキな毛皮ねネコちゃん。悪いけどワタシに譲ってちょうだいな」
書庫の賢者『七賢』・『飛翔のガイウス』とネコの魔物の最強種ヤシャネコの戦いは、長時間にわたる持久・消耗戦だった。
途中、半刻ほどが経過した段階でガイウスはトーマに対して「やっぱり危なくなったら加勢して?」と言ってきた。雪を掻いて少し離れた場所に移動。ナラ類の倒木の上でトーマは観戦している。さらに四半刻経ったが今のところ危ないところは無い。
ガイウスの風が雪を巻き込んでいる。風を纏うというより、腰から伸びる渦巻く風の塊を太い尾のように使って雪上を跳ねまわっている。
6メルテはある自分の体長より遠い間合いを、一足で跳びかかるヤシャネコ。それをガイウスは回避。
雪に埋もれることなく横に回り、また跳びかからせるように挑発する。
渦風の尾を操るような魔法は≪書庫≫に登録が無い。ガイウスの秘魔法、あるいは基本的マナ・精霊力運用の異常に高度な応用だろう。
ヤシャネコは脚が深く雪に埋もれていることを感じさせないほど力強く、かつ敏捷にガイウスを追いかけていた。しかしその動きは徐々に鈍くなってきている。足元の雪が跳ね散らされて徐々にかさを減らし、魔物にとってはどんどん足場がよくなっているはずなのにだ。
魔物と言えど生き物であり、疲れる。当然、持久戦は有効な戦略だ。だがおそらく、それに加えヤシャネコはガイウスから『
ヤシャネコの敏捷さはトーマがこれまでに相対した獣型の魔物で随一と言ってよく、『脱空』の風をその頭部に当て続けるというのはたぶんガイウスでも無理だろう。
渦風の尾を操りながら、発声詠唱で『脱空』をわずかな時間だけ発動。ヤシャネコが接近するたび生気の薄くなった空気を吸わせているのだ。跳びかかりが不発に終わるたびに魔物は息切れを起こしている。
とうとうヤシャネコは足を止め、ガイウスを睨みながら口で息をするようになった。
「あぶねぇ! あとちょっとで助けてって言っちゃうところだったわ!」
風精霊同調適性が『優』のガイウスのマナ消費効率は少なくともトーマの4倍。同じ風魔法を使っても消費する余剰マナは四半分以下だ。『マナ出力』も階梯に比例して大きい。
それでも約45分間にわたって戦い続けられるのはトーマには理解できなかった。『七賢』の地位はやはり伊達ではない。
動けなくなったことでさらに『脱空』を吸わされ続け、とうとうヤシャネコは崩れ落ちるように雪上に伏せた。
「それじゃぁ仕上げといくわよ!」
ガイウスは右手を掲げて呪文を唱えだした。
『
ヤシャネコの目の前に飛び出し、右手をその鼻先にほとんど接触させた。
『
単風精霊大魔法登録11号『肺滅』。殺傷力が4精霊で最弱と言われる風魔法の中で最も危険、かつ最高度の魔法。
極限まで稀く膨らませた空気を敵の肺に送り込み、瞬間的に元に戻す。
マナの恩恵を受けた魔物の肉体は内臓まで強靭だ。
しかし、肺は膨らんで空気を取り込む力と縮んで空気を追い出す力が均衡していなければ形を保てない。
強い力で縮み、強い力で膨らもうとする。
『肺滅』はその、空気によって膨らもうとする力だけを急激に無に等しくしてしまう。
マナの恩恵で強力に強靭化された肺組織だが、同じく強化されている自らの「縮もうとする力」のために一気に潰れてしまうのだ。
最後の力で抗おうとしていたヤシャネコは大きな口を開けたところで動きを止めた。潰れた肺に再び空気を送り込もうとするが、全体を細かく破壊された肺は元通りにはならない。数分間荒い呼吸を繰り返し、鼻から鮮紅色の液体を流してヤシャネコは絶命した。
絶対に食らいたくない魔法だ。
刃の形状が解体に向かないトーマの短剣を無理に使って、胸部を切り開くガイウス。
腕まくりをして取り出したヤシャネコの魔石を食って、たっぷりの成長素を得た。
ヤシャネコの死体の横で携帯食で朝食を摂り休憩する。
1刻後、ガイウスは胸の開口部から少しだけ皮を剥がし、その部分に風魔法を送り込み一気に皮を剥いだ。
トーマたちはその日の夕刻にトゥイースの街に帰り着いた。背負い袋の上に、丸めた毛皮の塊を括り付けているガイウス。
何もしていないトーマも巨大な2本の牙を分け前にもらった。
雪板を外して街に入り、巨大な毛皮の塊に目をむく住民たちに笑いかけながらタルガットの屋敷に戻ると、玄関広間にラウラとクルム。それに戦士の主だったものが集まっていた。
中心に居るタルガットは手に持った紙片をトーマに振って見せ、言った。
「来まシタよ」
1月3日。トゥイース西門前。
トーマとガイウス。ラウラにレオニード。そして35名の土橋村の戦士たちが集まっていた。これから半月以上にわたるクローヴィス遠征大隊の追跡と決戦に備えてその背中には大荷物が背負われ、穀物などを積んだ中型のソリも5台あった。全員が雪板を両足に装着している。
「兄さん、それに皆さんも、無事に帰ってきてくださいね……」
フロルは連れて行かない。階梯が違いすぎるし、師匠であったクローヴィスを殺すための旅なのだ。参加させるのは残酷だろう。
自分より背の高いフロルの両肩に背後から手を置いているマラヤナも不参加だ。何かあった場合、マラヤナが土橋村の女子供を取りまとめる。
「何かあっタラ、皆さんを避難させるくらいはしマスので。安心して戦ってきてクダサイね」
タルガットの後ろには10人の屈強な東方人の部下が並んでいる。全員がそこそこの階梯の『器持ち』。タルガットの故郷からやって来たらしい。
「世話になったなタルガット。みんなの生活費の足しにしてくれ」
トーマはボロ布に包まれた全財産とヤシャネコの牙を渡した。
「ちょっと、言っておくけど昨日渡したワタシの毛皮はあげたんじゃないからね? ちゃんと鞣しておいてよ? 外套にするんだから」
口髭の東方商人は口角を上げて白い前歯を雪が反射する太陽光に輝かせた。
そのにやけ面に嫌悪感を覚えなくなったのはいつ頃からだったろうか。ふと考えるトーマであった。
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