第10話 魔石
木がへし折られ草がなぎ倒されて、半径数メルテにわたって森が拓けてしまっている。その中央あたり、地面が掘り返されて泥がむき出しの範囲がある。
引き裂かれてボロ布になった毛糸服の切れ端や、人間のちぎれた手首から先、足首から先や、白い骨が何本か。雨水に洗われて泥から顔を出していた。
「人間、だよな? ポーキド茸採りに、来た奴、か?」
死体の身元より重要なことがある。
「シャラモン、ハリラックから人が逃げ出した理由は知ってるか?」
「知らない、廃村になったって聞いただけだ」
「……」
この痕跡はおそらく魔物の仕業だ。魔物になっていない熊なども人を喰うが、太い木をへし折ることは出来ない。足跡をさがすと、すぐに見つかった。
というより足跡だらけである。先端が二つに分かれた
記憶にあるハリラック村の規模であれば、大クロジシくらいなら『器持ち』を集めて倒すことは可能だ。こいつがこの辺りを縄張りにしたことが、廃村の原因かどうかは微妙なところだ。
トーマはしばし考えた。大クロジシの魔石ならトーマの階梯に見合う。だが状況がよろしくない。
雨が降っている。トーマが得意なのは、同調適正が『良』の火精霊魔法だ。この天気では使いづらい。濡れている相手には効果も小さくなる。
「戻るぞ、ここは大クロジシの寝床だ。帰ってくるかもしれない」
「埋葬とか、遺品とかは……」
「そういう場合じゃない。大クロジシは縄張りの外まで獲物を追いかけたりしない魔物だ。川まで戻ればたぶん危険はない」
「獲物って、俺たちか?」
「晴れてたら逆だった」
トーマが先導して、来た道を戻る。切り払ってあるから、雨天であっても往路より見通しはいい。シャラモンが付いてこられる速度でしばらく歩くと、黒い大きな影が道をふさいでいた。
「クソ…… ついてない」
待ち伏せではない。肉食性の魔物と違い、雑食のイノシシの魔物である大クロジシはそこまで狡猾なことはしない。縄張りの巡回中、いつもと様子が違う街道跡の様子が気になったのかもしれない。
そういえば喰われた男はどこを通って来たのか、いやそんな事はどうでもいい。
「ヴォフー ヴォフー」と重低音で呼吸をし、においでこちらを探っている。頭部だけでトーマの上半身ほどもあるのに、目はドングリほどの大きさしかない。突き出た鼻の横には大振りのナイフのような牙がそそり立っている。
「俺が止めている間にトーマは魔法を——」
「無理だっ」
前に出ようとするシャラモンを押しのけて、トーマは駆けだした。背負子はもう放り捨てている。
あの牙で突き上げられればシャラモンの『耐久』では死ぬ。トーマでも死ぬ。魔法で先制攻撃を狙える距離ではない。向こうも駆けて来た。腹に響くほどの足音。
突進の勢いのまま鼻先を振るってくる。左によけながら前脚の関節を蹴る。
トーマの身長ほどの高さの大クロジシの肩が、がくりと一瞬下がる。一瞬だけだ。
太めの木の陰に入って様子を見たが、すぐに魔物はシャラモンの方へ向き直った。賢い。弱いほうから狙うのは鉄則だ。シャラモンの足では逃げられない。
木の陰から飛び出して今度は後ろ足を横から蹴りつける。「ヴォアッ」と鳴いて転がるような勢いでぶつかって来た。両腕をつっぱって防いだが吹っ飛ばされる。数メルテ先に着地すると、大クロジシが横に振るった頭部でさっき隠れた木がへし折られた。
倒れてゆく木の向こう側で黒い魔物が荒く鼻息を吹き出した。
どうする。やはり距離をとって魔法を使うか。どの魔法を。シャラモンはどうなる。
師匠ラケーレの『
持久戦か? 大クロジシと自分では、どちらの体力が先に無くなるか分からない。トーマは再来年30歳だ。
躊躇もなく、倒れた木を飛び越えて大クロジシが突っ込んできた。木に囲まれていて左右によける場が無い。上に飛んで魔物の背に手をつき、空中で縦回転半ひねりをして着地しようとすると、雨でぬかるんだ土に足を滑らせ前のめりに転んでしまった。
顔を上げると周囲の木を吹き飛ばしてもう敵は振り返っている。でかいくせに早すぎる!
「うらぁっ!」
大クロジシの左の首すじをシャラモンが全身の体重を乗せて突いた。短剣は皮に突き刺さっただけで止まった。鬱陶しいとばかりに横薙ぎにした頭部に、シャラモンがはじき飛ばされた。
刺さったままの短剣を見て、判断が遅れたことを悔やむ。
最初に「短剣をよこして離れていろ」と言うべきだった。
大クロジシには明確な弱点があるのだ。
鼻先から尻まで3メルテ以上ある巨大なイノシシの魔物。飛びかかって首に刺さった短剣を引き抜き、少し距離をとる。冷静に、集中する。
「ヴァアァ……」
魔物は今度こそトーマに対して怒っているように見えた。トーマに向き合った大クロジシは数メルテの距離を一瞬で詰める。牙を振るう距離に入られる前に、トーマも一歩出る。
前を向いたままのでかい標的、右の鼻穴に短剣を突き入れた。
悲鳴を上げ、短剣の柄が飛び出た鼻面を振り回す大クロジシ。攻撃と同時に突進を躱していたトーマはもう一度、歩いて正面に回り込んだ。
「こっち見ろ、暴れるな。狙いが定まらない」
言葉が分かったはずもないが、トーマをにらんで魔物が正面を向いた瞬間、腰を落としたトーマは右拳を短剣の柄頭に叩き込んだ。腕が鼻腔に潜り込んでしまう。
脳を貫かれた大クロジシは、そのまま地面に崩れ落ちた。
はじき飛ばされていたシャラモンは、大の字になったまま頭だけ持ち上げて殺し合い結末をを見ていた。
「すげぇ……」
「怪我は?」
「……大丈夫だ、どこも痛くない」
起き上がって身体をまさぐりながら言うシャラモンに安心して、トーマは苦笑した。お互い泥まみれである。
殺した大クロジシの鼻穴に、もう一度手を突っ込んで短剣を引っぱり出した。
「俺の竜斬り丸が……」
汁まみれである。そんな名を付けていたのか。装飾もない実用品の短剣だ。
全力で横から肩を押し付けて大クロジシの死体を横倒しにすると、鳩尾に当たる部分を短剣で深く刺した。
死んだ魔物は生前よりずっと柔らかくなる。それでも並のイノシシ程度には硬いが。
短剣をシャラモンに返し、トーマは仕留めた獲物の鳩尾に右腕をつっこんだ。心臓の下部あたりにクルミ大の魔石がある。抜き取って、ながめる。歪な球形をした、赤黒い半透明の魔石。大クロジシの命の結晶。
魔石は持ち主の魔物が死んだ瞬間から、どんどん成長素が抜け出てしまう。効果が残るのはせいぜい半日だ。血まみれの魔石を、右犬歯でトーマは噛み砕いた。シャラモンが「あ、」と言ったが当然トーマの権利である。
右犬歯の付け根から口中、一瞬で全身に、甘いような刺激が走る。自分の『魂の器』にしみこむのが、「魔眼」に見える。
約13ヶ月ぶりの成長素の味だった。
「恨めしそうな顔をするなよ。死体の権利は全部やるから」
「でもそれ、人を食った魔物だろ?」
人を食って「
汁まみれの竜斬り丸の柄を指でつまんだまま、エサが菜っ葉だった時の猫のような顔をして、シャラモンは肩を落とした。
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